コンテンツにスキップ

岸井寿郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岸井 寿郎
きしい としろう
生年月日 1891年(明治24年)5月28日
出生地 香川県豊田郡常磐村
没年月日 1970年(昭和45年)10月1日
出身校 東京帝国大学法学部英法科
前職 南羽鉱業社長

日本の旗 衆議院議員
選挙区 香川第2区
当選回数 1回
在任期間 1942年4月30日 - 1945年12月18日
テンプレートを表示

岸井 寿郎(きしい としろう[1]1891年5月28日 - 1970年10月1日[2] )は、日本実業家政治家

衆議院議員(通算1期)。岸井成格毎日新聞特別編集委員)の実父[3]

来歴・人物

[編集]

香川県豊田郡常磐村(現 観音寺市村黒町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。『連盟を脱退すべし』『満洲の我移民村』等の著書を刊行。

1917年(大正6年)東京帝国大学卒業[4]。満洲旅行、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞入社、東京日日新聞社に勤務する[5]

1924年(大正13年)同社印刷部長に昇進[6]。創立以来、社会教育協会評議員として参加。1927年(昭和2年)より1年4ヶ月間、欧米各国を視察。1930年(昭和5年)同社政治部長兼印刷局次長に昇進。

1932年(昭和7年)4月19日から5月10日かけて大阪毎日新聞に『連盟を脱退すべし』を連載し国際連盟の無益有害なることを強調し「世界は今渦の如くわき立っている、国内的に、国際的に、目まぐるしく流転を始めている、日本は先ず自己を知れ、周境を知れ、そして退いて自己を守れ、外交的御附合のつもりで危険な連盟に長尻は無用だ、速かに脱退して自己の覚悟に徹底しなければならぬ。」と世論に訴え、日本の国際連盟脱退を躊躇する政界上層部と連盟利用論者を非難[7]

1933年(昭和8年)同社営業局次長に昇進。創立以来、大アジア協会理事を務める。1934年(昭和9年)1月より6ヶ月間、北米を視察。1937年(昭和12年)大阪毎日新聞社を退社[6]

1938年(昭和13年)南羽鉱業社長に就任。1941年(昭和16年)同社を退社[6]1942年(昭和17年)4月に第21回衆議院議員総選挙に郷里の香川県第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬、当選する。1945年(昭和20年)12月まで大蔵省委員、内閣委員として国政に参画した[8]

その後、公職追放を経て[9]、実業界に入り、日本デリス社長、協和鉱業社長、中央広告通信会長を歴任。1966年(昭和41年)10月から毎週日曜夕刊「東京ポスト」を発行、50万部無料配布を3年6ヶ月間行った[10]

1970年(昭和45年)10月1日に79歳で没した。

著書

[編集]
  • 『連盟を脱退すべし』(浅野書店)(1932年6月)[11]
  • 『国際連盟脱退論』(浅野書店)(1932年11月)[11]
  • 『満洲の我移民村』(成美堂)(1934年1月)[11]

脚注

[編集]
  1. ^ 『国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス』 2014年11月9日閲覧
  2. ^ 『観音寺市誌 資料編』(香川県観音寺市)(1985年) 145頁
  3. ^ 『燧 第34号』(観一高同窓会東京支部)(2009年) 43頁
  4. ^ 第二十一版 人事興信録(上)』(昭和36年)き・四八頁
  5. ^ 『中井虎男先生 志のぶ草』(香川県立観音寺第一高等学校同窓会)(1970年) 57頁
  6. ^ a b c 『観音寺市誌 資料編』(香川県観音寺市)(1985年) 144頁
  7. ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(109-039)大阪毎日新聞 1932.4.19-1932.5.10記事
  8. ^ 『香川県人物・人名事典』(四国新聞社)(1985年) 346頁
  9. ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、254頁。NDLJP:1276156 
  10. ^ 『讃岐公論 昭和44年5月号』(讃岐公論社)(1969年) 96頁
  11. ^ a b c 岸井寿郎著書

関連項目

[編集]