菱川清春

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菱川 清春(ひしかわ きよはる、1808年文化5年) - 1877年明治10年)8月7日)は、江戸時代後期の京都浮世絵師、大和絵師。浮世絵師は菱川清春名義で、大和絵師としては岩瀬(小野)広隆名義で知られる。

来歴[編集]

1808年(文化5年)に京都に生まれる。姓は藤原、岩瀬、名は可隆。字は文可。通称は俊蔵、彦三郎、魯七郎等。通称は吉左衛門。清晴とも称し、林屋、青楊斎、雪艇、曄斎、蕙泉斎、蕙谷などと号す。後に小野広隆と改名する。画号は30有余を数え、京都時代は清春、来紀後は広隆、可隆等を主に用い、姓は菱川、小野、岩瀬が知られる。

京の浮世絵師・菱川清春[編集]

天保年間の青年期は、京都で「菱川師宣五世」と称し、挿絵絵師として活躍していた。現在確認されている最古作は、1830年(文政13・天保元年)、清春23歳時の『御影流 参宮風流雅帖伊勢土産』(暁鐘成[1])の挿絵を担当、「曄斎菱川清晴」と記している。この時期の代表作「摂州大阪天満宮御祭礼図」4枚続には、「浮世絵画工」と肩書きし、天保3年(1832年)の『傾城情史大客』(瀬川恒成著、関亭京鶴述)の跋文では「浮世絵師 菱川清春記」と自著、天保年間に版行された『伊勢物語』との扉絵に「美人の図」落款に「菱川師宣古図、翠松園珍蔵、五代目菱川清春模写」と記すなど、自覚的に菱川末流だと名乗っていたことがわかる。

1833年(天保4年)、26歳の時には、既に「月川輝重」という門弟を抱え、一家を成していた。また、一時大坂上町に住んでいたともいう。1832-36年にかけ、15件の版本挿絵を手掛けている。作例として、1834年(天保5年)、瀬川恒成作の『嵐峡花月奇譚(あらしやまつきはなものがたり)』2編10冊、1835年(天保6年)、池田東籬作の『銀河草紙』などが挙げられる。何らかの事情で出版されず、稿本のみ残る『絵本深山樹物語』(関西大学図書館蔵)では、稿本ならではの迫力ある画面を見せ、清春の高い画力が窺える。他に特筆すべき仕事として、1836年(天保7年)、祇園祭の長刀鉾・欄縁金具の下絵制作が挙げられる[2]

清春(広隆)紀州へ[編集]

清春(広隆)が初めて紀州(現・和歌山県)へ来た時期は、1833-34年(天保4-5年)頃とされる。『紀伊国名所図会』の版元・帯屋伊兵衛(高市志文)が、その挿絵を描かせるために、清春を紀州へ招いたのがきっかけである。『図会』は、計27冊からなるが、広隆は1838年(天保9年)刊行の第三編から参加、以降は全て広隆が挿絵を担当している。同年版『平安人物志』では、「藤原清春 号雪艇又廣隆 今遊南紀 菱川吉左衛門 (欄外)大和画」と掲載され、この時期の広隆は、京都を拠点とする絵師ではあることがわかる。

『図会』での実力が認められたのか、この頃から紀州藩10代藩主・徳川治宝の御用を務めるようになる。その中での代表的な仕事は、1843年(天保14年)5月から始まった「春日権現験記絵巻」模本[1]東京国立博物館蔵)制作である。これは前年に命が下った紀州藩の国学者長沢伴雄指揮のもと、広隆、浮田一蕙冷泉為恭林康是原在明ら5人の京絵師の筆で進められた。この際、絵師たちに繋がる人脈を持たない紀州の長澤伴雄と、京都の一蕙・為恭らのパイプ役を務めたのが広隆だったと考えられる[3]。1845年(弘化2年)5月、西浜御殿(養翠園)に納められた。

紀州藩お抱え絵師・岩瀬広隆[編集]

広隆が正式に紀州藩に召し抱えられた時期は不明であるが、1845年頃だと推測される。翌46年刊行の『図会』後編・和歌山補遺では、和歌山城内の様子が収録されているのが、本来軍事機密である城内を描かせたことから、藩直属のお抱え絵師になったと言える。1856年(安政3年)の『紀州家臣諸技藝員町家御用諸氏人名録』[4]町絵師の項には、「御勘定奉行支配小普請格 岩瀬広隆彦三郎 三人フ(扶持)」と有り、藩に召し抱えられていた事が分かる。

上述の『紀州家臣諸技藝員町家御用諸氏人名録』の記述を追うと、1862年(文久2年)には、5人扶持に上がり、「町絵師」から「御絵師」に格上げになっている。晩年は、南画に傾倒している。1877年(明治10年)8月、70歳にて没す。和歌山市鈴丸丁の、帯屋伊兵衛と同じ菩提寺である萬精院に葬られた。

代表作[編集]

  • 「摂州大阪天満宮御祭礼図」 大判錦絵4枚続 阪急文化財団蔵 天保初期
肉筆画
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
多田満仲 絹本著色 神願寺 天保12年(1839年) 赤城彩霞(紀伊藩儒学者)賛[5]
本居内遠像 紙本著色 懐紙貼付 本居宣長記念館[6]
新井白石 紙本著色 個人[7]
薔薇に小禽図・観桜図 紙本著色金砂子 2面・9面 高野山櫻池院 1855年(安政2年)秋[8]
張飛図衝立 紙本金地著色 1基 125.6x141.4 高野山櫻池院 1855年(安政2年)秋頃 款記「琹泉岩瀬広隆写」/「□野広隆」白文方印・「彦三氏」朱文方印[8]
伊達千広像 絹本著色 和歌山県立博物館 明治時代初期 伊達千広
春夏読書秋冬射猟図 絹本著色 個人(金沢文庫寄託・陸奥宗光関係資料) 明治前期 伊藤博文

脚注[編集]

  1. ^ 神宮文庫大西源一旧蔵)・西尾市岩瀬文庫蔵。
  2. ^ 『鉾道具拵覚』(長刀鉾町保存会蔵、京都市歴史資料館寄託)、彫金は柏屋善七、清春の賃料は金5両。なお、この金具は現在も長刀鉾で使われている。
  3. ^ 亀井森「絵巻はなぜ模写されたのか : 国学者長沢伴雄の『春日権現験記』模写一件」『文獻探究』第46巻、文献探究の会、2008年3月、22-35頁、doi:10.15017/15080hdl:2324/15080ISSN 0386-1910CRID 1390009224763327360 
  4. ^ 1866年(慶応2年)までの、藩士及び藩の御用を務める人物の人名録、和歌山市立博物館蔵。
  5. ^ 和歌山県立博物館編集・発行 『特別展 紀伊桛田荘と文覚井 ─水とともに生き、水を求めて戦う─』 2013年10月、p.107。
  6. ^ 川崎市民ミュージアムほか編集 『21世紀の本居宣長朝日新聞社発行、2004年9月、p.137。
  7. ^ 和歌山県立博物館編集・発行 『八代将軍吉宗と紀州徳川家』 1995年4月、pp.164,210。
  8. ^ a b 高野山金剛峯寺 高野山文化保存会監修 『高野山障壁画』 美術出版美乃美、1980年10月、第22,101図。

参考図書[編集]

関連項目[編集]

  • 森玉僊 - 名古屋の浮世絵師。両者はほぼ同時代人で、共に名所図会を手掛けのちに大和絵に転じて藩の御用絵師になるなど共通点が多い。