小折城

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小折城
愛知県
廣間家の門[1](旧下屋敷中門) (2010年11月26日)
廣間家の門[1](旧下屋敷中門)
(2010年11月26日)
別名 生駒家屋敷
城郭構造 平城
築城主 生駒家宗
築城年 弘治永禄年間(1555年1570年
主な改修者 生駒家長織田信雄
主な城主 生駒家長
廃城年 明治4年(1871年)        
遺構 中門、石碑、説明板         
指定文化財 廣間家の門(市指定文化財[2]
史跡等未指定[3]
再建造物 中門、石碑、説明板
位置 北緯35度18分37.1秒
東経136度52分32.4秒
座標: 北緯35度18分37.1秒 東経136度52分32.4秒
地図
小折城の位置(愛知県内)
小折城
小折城
生駒氏の邸趾(愛知県江南市小折町)

小折城(こおりじょう)は、現在の愛知県江南市に存在した日本の城平城)。

歴史[編集]

生駒氏は藤原忠仁子孫で、大和国本貫としていたが、文明年間(1469年1487年)に生駒家広応仁の乱の戦禍を逃れ、寂れていた林氏の旧領尾張国小折(のち布袋町)に移住した[2]。後の岩倉街道などが通る交通の要所であったことから生駒氏馬借として財を成し、代々織田氏と関わり勢力を拡大するようになった。最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。

生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘、吉乃織田信長側室となり、長男・織田信忠、次男・織田信雄を産んだ頃である。この頃に小折城が築かれた。

天正12年(1584年小牧・長久手の戦いの際には戦いの最前線となり城は大幅に改修された。織田信雄が追放された後、家長は隠居していたが、息子の生駒利豊豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に懇願され松平忠吉に仕えるため尾張に残った。 

その後、生駒利勝尾張藩徳川義直に仕え、子徳川綱誠の守役となる。子孫が家老となり4,000を領した。一国一城令により小折城は廃城となり生駒家の中心が名古屋城下に移ったが、在所持ちを許され周辺領地と遺構は縮小されるもそのままに生駒氏下屋敷[4]として隠居所の機能を果たしながら存在した。給地換えの際にも在所の小折村を失うことなく明治時代を迎えた。

明治以降、武家解体の後に下屋敷は処分された。現在は市指定文化財となった旧下屋敷中門と碑を目にすることができる[2]

脚注[編集]

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  1. ^ 生駒家典医であった廣間家がもらいうけ布袋駅周辺に移築され現存する。
  2. ^ a b c 「廣間家の門」江南市公式HP
  3. ^ 「小折城(生駒家屋敷跡)その他文化財」江南市公式HP
  4. ^ 屋敷図が現存する。上屋敷は名古屋城下にあった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]