大宮城 (駿河国)

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大宮城
静岡県
別名 富士城
城郭構造 連郭式
天守構造 なし
築城主 富士氏
築城年 室町時代
主な城主 富士信忠、原昌胤
廃城年 1582年(天正10年)
指定文化財 なし

大宮城(おおみやじょう)は駿河国大宮(現在の静岡県富士宮市)に存在した日本の城である。別名富士城[1]

概要[編集]

大宮城の築城は、中世に富士郡の国衆である富士氏によって行われたとされるが、詳しい築城年は不明である。今川氏により富士氏が大宮城の城代に任ぜられていることから[2]、戦国期には今川氏が管理する城であったと考えられている。このように戦国時代に大宮城は、甲駿国境の押さえの城としての主要な機能を果たしていた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによる今川義元敗死を契機に今川領国は動揺し、それまで同盟関係にあった甲斐武田氏との関係も険悪化した。永禄11年(1568年)に甲駿関係は手切となり、武田氏による今川領国への侵攻が行われた(駿河侵攻)。また今川氏の没落により、富士氏は後北条氏の庇護を受ける事となった[3]

駿河侵攻の際、大宮城城主である富士信忠らが大宮城に拠り武田勢に抵抗した。武田氏による大宮城への攻撃は三度行われた。一度目は永禄11年(1568年)12月、二度目は永禄12年(1569年)2月、三度目は永禄12年6月25日である[4]。一度目と二度目の攻防戦では大宮城は落とされず、二度目は近接する河内領主の穴山信君や武田方に帰属した駿河国衆葛山氏元の連合軍を撃退する事にも成功するなど、対抗勢力としての役割を果たした。また、同じ富士郡の在地勢力である井出氏なども籠城戦に参加したという[5]

三度目での攻防戦では、武田信玄率いる本隊の攻撃に遭った。6月に信玄は大軍を率いて御殿場から駿河に入り、三島・韮山を進んだ後に進路を西にとり大宮へ向かった。大宮は駿府への進入口の重要な部分であり、大宮を落として進路あるいは退路を確保する必要があったためである。この際の戦について北条氏照の書状には「敵二千人手負死人仕出候」とあり[6]富士氏は善戦したものの、信玄本隊による攻撃に苦戦を強いられた。また北条氏政はこの時援軍を送ることができず、富士氏に3通の文書を送り退城を勧めた[7]。また同時に武田氏側との交渉を行い、穴山信君とで開城の交渉が進められ[8]、7月3日には開城した[9]。しかし富士氏は開城はしたものの、直ぐには武田氏に降りなかったという[10]。その後富士信忠が甲斐に赴き、武田氏に帰属することが明確となった。

その後の富士郡に対しては譜代家老原昌胤や市川昌房が取次を務めており、昌胤は大宮城代であったと考えられている。武田家滅亡後は徳川家康が駿河を確保したが、天正10年(1582年)に焼失したという[11]

発掘調査[編集]

城域における発掘調査では、建物跡・溝跡・土塁跡・跡・井戸跡などの遺構が検出され、城の構造としては、それぞれを溝で仕切った郭があり、主郭が西側に二ノ郭を、その前面に蔵屋敷を配置し、それらの周りを土塁と堀で囲んだ連郭式の構造をしたものと評価される。出土遺物においては鎌倉時代から戦国時代にかけての遺物が数多く発見され、中国からの輸入品である青磁白磁などの貿易陶磁も確認されている。

所在地[編集]

  • 静岡県富士宮市元城町1-1

脚注[編集]

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  1. ^ 永禄12年7月5日「今川氏真感状」(『戦国遺文今川氏編第3巻』2411号文書)、元亀元年6月29日「北条氏康書状写」(『戦国遺文後北条氏編』1428号文書)他
  2. ^ 永禄4年7月20日「今川氏真判物」(『戦国遺文今川氏編第3巻』1724号文書)
  3. ^ 永禄11年12月19日「北条氏政判物」、(『戦国遺文後北条氏編第2巻』1125・1126号文書)
  4. ^ 元亀2年10月26日「今川氏真判物」(『戦国遺文今川氏編第4巻』2493号)には23日とあるが、「北条氏政書状」・永禄12年6月28日「北条氏照書状写」(『戦国遺文後北条氏編第2巻』1270号)には25日とある。これについて前田利久は「戦国大名武田氏の富士大宮支配」の中で、氏真感状は籠城から2年経過した後に出されたものであり、当時出された氏政や氏照の書状の25日の方が信憑性が高いとしている
  5. ^ 大久保俊昭、『戦国期今川氏の領域と支配』、61-73項
  6. ^ 「北条氏照書状写」『戦国遺文後北条氏編第2巻』1277号
  7. ^ 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」、65項
  8. ^ 永禄12年7月2日「武田信玄書状」(『戦国遺文武田氏編第2巻』1427号文書)
  9. ^ 永禄12年7月3日「武田信玄書状写」(『戦国遺文武田氏編第2巻』1428号文書)
  10. ^ 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」、65項
  11. ^ Shizuoka城と戦国浪漫

参考文献[編集]

  • 若林淳之、「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」『戦国大名論集10 武田氏の研究』、吉川弘文館、1984年
  • 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年
  • 大久保俊昭、「今川領国における国人・土豪層の動向と存在形態」『戦国期今川氏の領域と支配』、岩田書院、2008年
  • 丸島和洋、「武田氏の領域支配と取次」『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011年
  • 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年

関連項目[編集]