蒲原城

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蒲原城
静岡県
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 天文(1532年~1555年)年間?
築城年 今川氏?
主な城主 今川氏後北条氏武田氏
廃城年 1582年(天正18年)
遺構 曲輪堀切土塁
指定文化財 静岡市指定史跡
再建造物 なし
位置
地図
蒲原城の位置(静岡県内)
蒲原城
蒲原城

蒲原城(かんばらじょう)は、静岡県静岡市清水区蒲原城山(旧蒲原町)にある戦国時代日本の城跡。静岡市指定史跡[1]

概要[編集]

富士川右岸の、東海道駿河湾を見下ろす標高138メートルの山の頂にある。蒲原から由比興津にかけての範囲は、高い山地がそのまま駿河湾に突き出す地形であり、平野部分が狭く東海道随一の難所とされる。蒲原城はこの要衝の東口にあたり、さらに富士川を境として諸勢力(今川氏北条氏武田氏など)が衝突する際の最前線であったため、「境目の城」として重要拠点となった[2]。築城年代は不明だが、天文年間(1532年~1555年)に今川氏による築城とされる[3]

一般に蒲原氏数代の城と言われるが、河東の乱(1537年~1545年)の際には今川方で遠州の国人飯尾乗連らが守備に入っており、甲相駿三国同盟期(1554年~1567年)にも駿河の諸将が城番となっていることから、史料上否定されるという[4]

三国同盟が崩壊し、永禄11年(1568年)12月に武田信玄駿河侵攻を開始する。最初の侵攻で信玄は蒲原城を落とさずに駿府に入ったところ、今川氏救援のため北条氏政が派遣した北条氏信率いる援軍が蒲原城に入り武田軍封じ込めの拠点としたため、信玄はやむを得ず駿河から撤退する。駿河奪還のために掛川城から戻った今川氏真も短期間だが入城している。しかし、翌永禄12年(1569年)暮れの再侵攻時には総攻撃を加え、北条氏信ら後北条勢や今川諸将は戦死し12月6日に落城。信玄は自ら城に入って改修し、後北条氏に対する防衛拠点とした[5]。その後も武田勢が掌握していたが、天正10年(1582年)に織田徳川連合軍に攻められ落城、廃城となったという[6]

城跡は新蒲原駅から徒歩で登れる範囲にあるが、中腹に駐車場も設置されている。標高138メートルの山頂を本曲輪とし、その北東側に「善福寺曲輪」と呼ばれる曲輪と大空堀を造り、南西側には二ノ曲輪、三ノ曲輪と呼ばれる区画が階段状に広がる。ほかにも多くの小曲輪を周囲に設置していたが、一部は東名高速道路により破壊されている。今川・武田・北条らの諸勢力が入るごとに改修を行った結果、東西・南北にそれぞれ550メートルほどを測る広大な城域を形成したと考えられている[7]

脚注[編集]

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  1. ^ 「静岡市指定文化財一覧」静岡市公式HP
  2. ^ 前田 2009 pp.138
  3. ^ 「蒲原城址」公益財団法人するが企画観光局公式HP
  4. ^ 前田 2009 pp.138
  5. ^ 前田 2009 pp.140
  6. ^ 「蒲原城址」公益財団法人するが企画観光局公式HP
  7. ^ 前田 2009 pp.138

参考文献[編集]

関連項目[編集]