四辻実藤

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四辻実藤
時代 鎌倉時代中期
生誕 安貞元年(1227年
死没 永仁6年10月13日1298年11月18日
別名 薮内大納言
官位 正二位権大納言
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇
氏族 藤原北家閑院流四辻家
父母 父:西園寺公経、母:舞女(実材母
兄弟 西園寺実氏一条実有洞院実雄四辻実藤西園寺実材
一条実有の娘、大外記中原師朝の娘等
公重実為公行、公具、公有、公信、公秋、守誉、良圓、有助、良誉、女子、女子
特記
事項
四辻家の始祖
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四辻 実藤(よつつじ さねふじ)は鎌倉時代中期の公卿。正二位権大納言薮内と号す。太政大臣西園寺公経の四男。母は舞女(実材母として知られる)。妻は一条実有の娘、大外記中原師朝の娘等。子には共に参議に至った公重実為従二位に至った公行、公具、公有、公信、公秋、守誉、良圓、有助、良誉、女子、女子。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

嘉禎2年(1236年)2月30日侍従に任ぜられる。同年7月20日、従五位上に昇叙。嘉禎3年(1237年)1月5日、正五位下に昇叙[1]。同月29日、左少将に任ぜられる。嘉禎4年(1238年)1月22日、左中将に転任し相模権介を兼ねる。同年2月11日、従四位下に昇叙。4月18日、従四位上に昇叙。11月16日、正四位下に昇叙。

延応元年(1239年)1月5日、従三位に叙される。仁治元年(1240年)、正三位に昇叙か。但馬権守を兼ねるか。仁治2年(1241年)6月7日、従二位に昇叙。同年10月13日、権中納言に任ぜられる。仁治3年(1242年)8月9日、中宮権大夫を兼ねる。同年3月19日、帯剣を許される。寛元元年(1243年)8月7日、中宮権大夫を辞す。同月10日、春宮権大夫を兼ねる[2]。同年10月25日、左衛門督を兼ねる。寛元2年(1244年)8月29日、父公経の喪に服す。同年11月25日、復任。12月8日、春宮権大夫を辞す。建長2年(1250年)4月9日、検非違使別当に補される。同年5月17日、中納言に転正。検非違使別当は元の如し。同年10月14日、正二位に昇叙[3]。建長3年(1251年)1月22日、権大納言に転任。正元元年(1259年)11月25日、権大納言を辞す。

文永3年(1266年)、配流される[4]が、6月19日には召還される。永仁6年(1298年)8月22日、出家。同年10月13日、薨去。享年72。

脚注[編集]

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  1. ^ 皇后宮御給。
  2. ^ 春宮立坊の日の任官。
  3. ^ 朝観行幸時の女院御給。
  4. ^ 『外記日記』によれば、4月6日に延暦寺強訴により淡路国に流された。

参考文献[編集]