吉見泰
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吉見 泰(よしみ ゆたか、1913年 - )は、日本の記録映画監督、脚本家。
人物
[編集]記録映画の脚本家、演出家として多数の作品に関わり、脚本を担当した科学映画作品が多くの国内賞・国際賞を受賞した。
『新しい米つくり』(東京シネマ、1955年)は、1956年ユーゴ国際農業教育映画祭最高外国映画賞、1957年ロンドン映画祭サンデー・タイムズ賞[1]。『ミクロの世界-結核菌を追って-』(東京シネマ、1958年)は、教育映画祭最高賞、文部大臣賞、毎日映画コンクール教育文化映画賞、ヴェネツィア記録映画祭最高科学映画賞[2]。『生命誕生』(東京シネマ、1963年)は、教育映画祭学術科学映画最高賞、パドヴァ大学科学教育映画大会グランプリなどを受賞[3]。
主な経歴
[編集]日本映画社時代
[編集]- 1946年、亀井文夫とともに『日本の悲劇』(日本映画社)の編集を担当。
- 1948年、『東京裁判 世紀の判決』(日本映画社=新世界映画社=理研映画)脚本。
- 1949年、『あげはちょう』(日本映画社)脚本。
記録教育映画製作協議会から科学映画へ
[編集]- フリーとなり、日映作家集団、記録教育映画製作協議会の結成に関わる。
- 1952年、記録教育映画製作協議会の第1作『1952年メーデー』の製作・監督を担当[4]。
- 1954年、荒井英郎・杉山正美監督、記録教育映画製作協議会製作の『月の輪古墳』の脚本を担当。第1回教育映画祭(主催=日本映画教育協会、後援=文部省・外務省・通産省・厚生省・農林省・朝日新聞社・日本放送協会・東京都教育委員会)社会教育部門最高賞受賞。同年、東京シネマで岡田桑三、小林米作らとともに、科学映画の製作に携わる。
- 1955年、「よりよい教育映画を生み出すために」を『視聴覚教育』誌5月号(日本視聴覚教育協会)に掲載。
高度成長期の企業映画
[編集]- 1956年、三共提供『クロロマイセチン療法 -赤痢・腸チフス・百日咳-』などの脚本。
- 1960年、丸善石油提供『マリンスノー−石油の起源』、丸善石油提供『潤滑油』の脚本。
- 1966年、栗田工業提供『水の開拓者』の脚本。
- 1967年、日本光学工業提供『科学の眼 ―ニコン―』の脚本。
- 1968年、笹倉機械製作所提供『世界の水をつくる』の脚本。