北日本石油

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北日本石油株式会社
Kitanihon-oil,Ltd.
本社が入居する「ヒューリック蛎殻町ビル」
本社が入居する「ヒューリック蛎殻町ビル」
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
103-0014
東京都中央区日本橋蛎殻町一丁目28番5号
ヒューリック蛎殻町ビル
設立 1959年昭和34年)9月16日
業種 卸売業
法人番号 5010001075985
事業内容 ガソリンスタンド運営
石油製品の販売・加工
自動車販売・レンタカー
エネルギー関連事業
電力供給事業
内航船舶の貸渡し業
生命保険業・損害保険代理業
代表者 渡邉勇人(代表取締役社長
売上高

単体564億円 連結703億円

(2021年6月期)
従業員数

単体745名 連結1029名

(2021年7月1日現在)
決算期 6月
外部リンク http://www.kitanihon-oil.co.jp/
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客船に給油するバージ船(右)

北日本石油株式会社(きたにほんせきゆ)は、東京都中央区日本橋蛎殻町に本社を置くエネルギー販売会社。コスモ石油の大手特約店である。

沿革[編集]

函館市上磯町製油所があった旧北日本石油株式会社の販売部門を引継ぎ、昭和34年9月16日に資本金1,000万円で創立された。その後、昭和39年6月に6,000万円、昭和43年12月に8,000万円、さらに昭和61年9月、9,000万円に増資し現在に至っている。

昭和47年4月に新釧路石油株式会社(釧路市)、昭和50年1月に東北タイムス石油株式会社(盛岡市)、昭和53年1月にタイムス石油株式会社(札幌市)および高野石油株式会社(札幌市)、昭和62年8月に郡山オイルサービス株式会社(郡山市)を合併した。

平成9年10月に津軽コスモ石販株式会社(弘前市)、平成10年7月にツタイ商事株式会社の給油所部門(札幌市函館市)、9月に浜石油販売株式会社(札幌市苫小牧市)、11月に北海道コスモ石販株式会社(網走市北見市)、12月に会津コスモ株式会社(会津若松市)の営業権を継承した。

概要[編集]

コスモ石油の大手特約店であり、販売地域は主として北海道、東北関東と広範囲におよんでいる。特約店の数は、2018年現在でおよそに72か所にのぼる。

陸上および海上船舶用の石油製品の供給にも力を入れている。

陸上では、一般家庭の暖房用灯油から工事現場で使用する重機燃料の軽油、法人や官公庁施設の重油まで、幅広い取引先への配送を行っている。

海上では、全社で15隻のバージ船を所有し、漁船、商船、作業船とありとあらゆる船舶に対し、舶用燃料油や潤滑油を供給している。バージ船は別名はしけ船とも呼ばれ、重い荷を水上輸送するなどの目的で用いられる船舶である。

北日本石油株式会社の現在の業務を箇条書きにまとめると以下のようになる。

  • 揮発油、灯油、重油等の石油製品、グリース、アスファルト等の石油副製品および原料油の販売、輸出入ならびに加工
  • 芳香族等の石油化学製品および液化石油ガスの販売ならびに加工
  • 自動車の検査、整備、修理および洗車
  • 中古自動車ならびに自動車の中古部品および中古用品の販売
  • 新エネルギー、関連商品の企画、管理、販売ならびに発電事業※
  • 内航船舶の貸渡し業ならびに船舶、車両による運輸
  • 生命保険の募集に関する業務ならびに損害保険代理業および自動車損害賠償保証法に基づく保険代理業

発電事業[編集]

発電事業に取り組んでいる。2019年9月現在、3か所の自社サービスステーション(ガソリンスタンド)で屋根を利用した太陽光発電を行っている。ほかにも、9か所の太陽光発電所、4か所の小形風力発電所発電事業を行っている。合計で一般家庭約3,000世帯分に相当する電力量発電している。

文学との関係[編集]

作家 清水一行と北日本ビル[編集]

かつては日本橋浜町に自社ビルがあった。2003年10月に日本橋蛎殻町へ移転する前の社屋である。その旧社屋は、小説の舞台となった。

清水一行の『札束時代―赤たん褌』[1]で、徳間文庫(1982年)[2]角川文庫(1990年)[3]が上梓されている。以下があらすじ。

――やくざ上がりの賭博師 春本竜作が、戦時中にアメリカ兵捕虜を助けたことから、終戦後、GHQから大金を得て、それを元手に建設会社の社長に変身。平たくいえば土建屋である。だが、主人公は女好きで、次から次へと愛人をつくる。やがて、そのことが原因で全財産を失う。洪水のように儲け、豪雨のように浪費し、男の夢(?)腹上死を遂げた快男児の痛快一代記。赤褌は女房が締めさせた浮気封じだった――

清水一行は、高杉良城山三郎とならぶ経済小説の第一人者である。

日本橋浜町の自社ビルは、北日本ビル[4]と称していて、外壁の一部が剥離するなど、構造的な問題が起こるまでは、北日本石油の社屋として機能していた。2階が北日本石油(株)東京支店で、3階が北日本石油(株)本社、5階は同営業部と社長室、6階が会議室であった。

この北日本ビル[4]だが、1936年(昭和11年)の火災保険地図[5]には、同じ場所に、優生病院(6階建)との記載があり、これは中村庸二建築事務所ホームページ[6]にある、濱町ビルヂング[7]である[4]

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の直後の写真を閲覧すると、一面が焼け野原となった日本橋浜町界隈には、久松警察署久松小学校、それに明治座清洲橋通りをはさんで、当該ビルが焼け残っている[8]。当時は、この建物を、焼きビル、と称していた。

この焼きビルが、優生病院であり[8]、その優生病院は濱町ビルヂングに入っていた[9]

それが、1969年(昭和44年)の地図には、新田ビル、とある[4]。その新田ビルを北日本石油株式会社が買い取った。歴代の北日本石油の社員の間では、焼きビルは、解体ではなく、リフォームで新田ビルになった、と伝わっている。

つまり、濱町ビルヂング(優生病院)→ 焼きビル → 新田ビル → 北日本ビル[4]という変遷を辿ったという見方もできる。

この新田ビルが、清水一行の小説『札束時代―赤たん褌』[1]の舞台のひとつとなっているのだ。主人公の春本竜作のモデルは、新田建設社長の、新田新作[10]である。

ちなみに、北日本ビルと清洲橋通りをはさんで向かいに建つ明治座も、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼けたが[8]、それを復興すべく、新しい明治座の建物を建設したのが、この新田建設である。新田新作は、その明治座の社長にまでなっている。

この一帯(浜町、人形町)は、関東大震災(大正12年)や第2次世界大戦(昭和20年終戦)を契機に浅草に繁華街が移るまで、江戸時代からの花街としてにぎわっていた。1980年代前半(昭和55年から昭和59年)には、まだ、浜町芸者をときおり見かけたし、三味線の練習の音も漏れ聞こえていた。「浮いた浮いたと浜町河岸に……」という歌[11]もあるとおり、料亭も数多く存在する、粋な街であった。

エッセイスト 小山次男[編集]

また、小山次男[12]というエッセイストが以前、北日本石油株式会社公式ウェブサイトの片隅を借り、Coffee Break Essay を執筆していた。2000年6月から2019年12月までの19年半にわたり272点の作品を掲載した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 国立国会図書館サーチの当該書籍(札束時代 : 赤たん褌)の検索結果”. 国立国会図書館. 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ 札束時代―赤たん褌 (徳間文庫) 文庫 – 1982/4/1”. Amazon. 2022年3月15日閲覧。
  3. ^ 札束時代―赤たん褌 (角川文庫) 文庫 – 1990/10/1”. Amazon. 2022年3月15日閲覧。
  4. ^ a b c d e ぼくの近代建築コレクション”. goo の個人ブログ。. 2022年3月23日閲覧。
  5. ^ 火災保険地図(火災保険特殊地図,火保図などとも)は,火災保険の料率算定のための基礎資料として,戦前期から戦後直後に,民間会社によって作製された地図である。以下、国立国会図書館のホームページにも記載がある。https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-601014.php
  6. ^ 中村庸二建築事務所”. 株式会社中村建築設計事務所 中村耕造. 2022年3月23日閲覧。
  7. ^ 中村庸二建築事務所>濱町ビルヂング”. 株式会社中村建築設計事務所 中村耕三. 2022年3月23日閲覧。
  8. ^ a b c https://zuishun-episode.amebaownd.com/posts/32987667 ここに北日本ビルや明治座に関しての記述があり、1945年の終戦直後の写真も掲載されている。
  9. ^ http://yoji.nadi.co.jp/showa02.html 中村庸二建築事務所ホームページ内の左記URLに以下の記述がある。「簡素化しつつも建築の様式美を取り入れて、建築の持つ荘厳な雰囲気を持たせ、都市の中にランドマークとして存在する。震災で大きく壊れた東京の街を次々と復興する中で、新しく、そして力強くそこに存在する建築を中村庸二は求めていたのかもしれません。この後、中村庸二は濱町ビルディングでその思いを形にします。明治座の前に濱町ビルディングは建築されました。優生病院という病院の入った濱町ビルディング。自ら設計したその建物で中村庸二は41歳の生涯を終えました」 この記述により、優生病院は、濱町ビルヂングに入っていたことは確かである。北日本ビルの天井は、お茶の水の「山の上ホテル」を彷彿とさせるような凝った造りになっていた。戦後は物のない時代である。濱町ビルヂングの焼け残った躯体や内装などを活かして、建物が再建された可能性もあるのではないか、と考えられる。また、文献には残っていないが、北日本石油の歴代社員の間では、終戦直後のあの「焼きビル」は、建て替えではなく、リフォームで新田ビルになった、と伝わっている。
  10. ^ コトバンク。ここに、新田新作の説明が記載されている。https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E7%94%B0%20%E6%96%B0%E4%BD%9C-1651950
  11. ^ Uta-Netに中に、この歌が、動画と共にアップロードされている。歌のタイトルは「明治一代女」である。 https://www.uta-net.com/movie/42698/ 歌詞は、「浮いた浮いたと 浜町河岸に 浮かれ柳の はずかしさ 人目しのんで 小舟を出せば すねた夜風が 邪魔をする」
  12. ^ https://conkendo.amebaownd.com/ の「主な文筆歴」セクションを閲覧すると、小山次男とは同社社員であった人物と思われる。

外部リンク[編集]

グループ会社[編集]