佐原盛純

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金上佐輔(浦上佐助)
スフィンクスで記念撮影する池田長発一行(1864年)。佐原も同行しているが写っていない。

佐原 盛純(さはら もりずみ、天保6年頃〈1835年頃〉 - 1908年明治41年〉12月4日)は、江戸時代末期から明治時代学者役人教育者佐原貞一とも称した。号は豊山、晩年は蘇楳。旧名は金上佐輔(字は業夫)、金上盛備の子孫とされる[1][2]明治維新当時は上野国吉井藩侍講藩学教授[3]。生年については諸説あり[4]

経歴[編集]

陸奥国会津藩若松城馬場町商人徳兵衛の長男に生れた。少年期より学問に没頭、18歳の頃から江戸へ遊学し、広島藩儒官金子霜山幕府儒官の杉原心斎、同郷の儒者添川廉斎に師事[2][5]。この頃、祖先が蘆名氏末期の津川城主金上盛備であると知り、金上佐輔と名乗り始めたという[2]

文久2年(1862年)に外国奉行池田長発侍講として招かれ、翌文久3年12月から元治元年7月(1864年2月から8月)には池田を正使とする横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節団)に従者として加わり、第二帝政期のフランスへ渡った(後年、その日記を『航海日録』としてまとめた)。帰国後、開国を建言した池田が蟄居・免官となると、まもなく上野国吉井藩松平信発に聘され、江戸藩邸で世嗣・信謹の侍講となり、藩学教授も兼ねた。[2][5][6]

慶応4年(1868年)初めの戊辰戦争勃発に伴い、信謹に従い上野国へ移ったが、会津人である金上への藩内勤王派による危害を避けるため、代官宅に寓して藩士子弟の教育に従事したという[6]東北戦争終結後に新都東京へ戻るも、明治2年12月(1870年1月)に吉井藩が廃藩となり免官[6]。この頃に士族佐原氏の養子となり、佐原貞一を名乗ったが、廃藩後に譜代家臣に与えられた地方官貫属(元吉井藩士族)の身分は、のちに「取調違」として除名され、平民への帰籍処分を受けた[7]。その後、明治4年(1871年)に5ヶ月間存在した常陸国龍ヶ崎藩に任官[2]廃藩置県後、明治5年(1872年)には佐原盛純名義で司法省に雇われ(司法少属・判任官)、神奈川県の足柄裁判所に赴任(75年2月迄[8][9]新暦1875年(明治8年)9月に依願退職し(司法少錄)[10]、会津へ帰郷した。

会津では私塾を開くとともに、1878年(明治11年)からは教員として若松町内の各学校で教え[11]1882年(明治15年)には元家老諏訪伊助・若松警察署長中条辰頼らの発起で新設された私黌日新館(武芸を主とする)の教授となった[12]1884年(明治17年)末には、小学校教員免許状授与方心得の第5条に基づき[13]、小学校修身科教授免許状を正式に取得した(官報には福島県士族・47歳と記載)[14]

会津中学退職記念 前三列目左5人目が佐原

1890年(明治23年)4月に私立会津中学校(初代校長黒田定治)が設立されると、9月に教授嘱託に任命され漢文・作文を担当[15]1893年(明治26年)5月には師範学校・中学校教員免許(漢文)を取得し[16]1901年(明治34年)3月まで教鞭をとった[17]

晩年は、東京帝国大学文科大学英文学科の撰科を経て[18]1904年(明治37年)より英語教諭[16]として広島県立福山中学校に勤務した子息・佐原盛秀(1875年12月20日生[19])の赴任先へ移ったが、1908年(明治41年)12月、宇都宮の親戚宅で脳溢血により死去、享年74とされる[5][11]北会津郡東山村(現・会津若松市東山町)の正法寺に葬られた[2][5]

白虎隊詩[編集]

1884年(明治17年)10月13日(旧暦8月25日)、飯盛山白虎隊士の墓前で初めて公然と十七回忌供養が行われた。その際、日新館初代校長中条辰頼が剣舞奉納を立案、その詩歌制作を依頼され、佐原は七言二十行の漢詩『白虎隊』を作詩、日新館生徒とともに剣舞の振付にも取り組んだ。その後、白虎隊剣舞は、佐原及び元日新館生徒らにより会津中学校に引き継がれた[2][15][20]。なお、同詩は時期により細部で異なるヴァージョンがいくつか存在する。

1945年昭和20年)の旧制会津中学生による墓前奉納まで、白虎隊剣舞は本身の日本刀を使用し、負傷者や袴を切る者もいたという。その後、卒業生らによる墓前での吟奉納は継続され、1953年(昭和28年)に会津高等学校生徒による模造刀を用いた墓前奉納により再開された[21]


白虎隊詩[22]

少年團結白虎隊。國歩艱難戍堡塞。

大軍突如風雨來。殺氣慘憺白日晦。

鼙鼓喧闐震百雷。巨砲連發僵屍堆。

殊死突陣怒髮竪。縱橫奮撃一面開。

時不利兮戰且郤。身裹瘡痍口含藥。

腹背皆敵將安之。杖劍間行攀丘崿。

南望鶴城烟焔颺。痛哭呑涙且彷徨。

社稷亡矣可以已。十有九士屠腹死。

俯仰此事十七年。畫之文之世稍傳。

忠烈赫赫如前日。壓倒田横麾下賢。

著書[編集]

私製『航海日録』全4巻(会津若松市立会津図書館所蔵)

脚注[編集]

  1. ^ 『手作り会津史』「幕末渡欧の会津人」参照。
  2. ^ a b c d e f g 宮崎十三八『私の城下町―会津若松』247-248頁(正法寺)。
  3. ^ 歴史解説書のなかには、佐原を「会津藩士」とし、会津藩士として初の海外渡航者と解説する例もあるが、「真実は会津藩の武士ではない」(宮崎十三八『私の城下町―会津若松』)。
  4. ^ 宮崎十三八『私の城下町―会津若松』では、旧暦・天保7年2月10日生まれとされる。
  5. ^ a b c d 『若松市史 下巻』574-575頁。
  6. ^ a b c 『群馬県多野郡誌』98-99頁(佐原貞一)。
  7. ^ 国立公文書館所蔵「元吉井藩士族佐原貞一外四名取調違ニ付平民ヘ帰籍可為致旨御達」及び「吉井藩士族卒調査上相違ノ者ノ貫属ヲ除名ス」参照。
  8. ^ 『司法省日誌』第23号、1875年。
  9. ^ 藤田弘道「府県裁判所設置の一齣:足柄裁判所の場合」『法学研究』46巻5号、慶応義塾大学法学研究会、1973年(40-72頁)。
  10. ^ 『司法省日誌』第78号、1875年。
  11. ^ a b あいづ人物伝(佐原盛純)”. 会津若松市. 2023年12月25日閲覧。
  12. ^ 『会津中学校五十周年史』20-21頁。
  13. ^ 「碩学老儒等ノ徳望アリテ修身科ノ教授ヲ善クスル者(中略)学力ノ検定ヲ要セス特ニ該学科教授免許状ヲ授与シテ訓導トナスコトヲ得」
  14. ^ 『官報』1884年12月6日(学事欄:小学修身科特許教員)。
  15. ^ a b 『会津中学校五十周年史』70-71頁
  16. ^ a b 文部省総務局編刊『師範学校・中学校・高等女学校教員免許台帳抄 明治18年乃至36年』1903年。
  17. ^ 『会津中学校五十周年史』315頁
  18. ^ 『東京帝国大学一覧』明治30-31年、明治31-32年、明治32-33年版を参照。
  19. ^ 国立公文書館所蔵「大阪府立岸和田中学校長坪井仙次郎外十七名叙位ノ件」1907年10月21日(叙位裁可書)添付の佐原盛秀履歴書に依る。なお、佐原盛秀はその後、大分県立竹田中学校・栃木県立工業学校・県立宇都宮中学校等へ赴任した(職員録を参照)。
  20. ^ 創立七十周年記念誌
  21. ^ 会津若松市「会津若松市歴史的風致維持向上計画」2023年、120頁。
  22. ^ 『会津中学校五十周年史』巻頭口絵より。十七回忌当初、白虎隊の自刃者は16名とされ、1890年に19名とされたことから、以下の詩は1890年以降の改訂版。

参考文献[編集]

  • 国立公文書館所蔵「元吉井藩士族佐原貞一外四名取調違ニ付平民ヘ帰籍可為致旨御達」明治3年3月
  • 国立公文書館所蔵「吉井藩士族卒調査上相違ノ者ノ貫属ヲ除名ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070068000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十巻・制度・種族五(国立公文書館)/資料作成年月日 明治4年5月17日
  • 群馬県多野郡教育会編『群馬県多野郡誌』1927年
  • 大植四郎編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年
  • 若松市役所編刊『若松市史・下巻』1942年
  • 福島県立会津中学校編刊『会津中学校五十周年史』1940年
  • 福島県立会津高等学校編刊『創立七十周年記念誌』1960年
  • 宮崎十三八『私の城下町―会津若松』国書刊行会、1985年
  • 宮崎十三八『手作り会津史』歴史春秋社、1995年

関連項目[編集]