仁保隆慰
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永3年(1523年)? |
死没 | 天正2年(1574年)? |
別名 | 右衛門、隆康、就定 |
官位 | 右衛門大夫、常陸介 |
主君 | 大内義隆→義長→毛利元就→輝元 |
氏族 |
平姓三浦流仁保氏 異説では多々良姓大内流仁保氏 |
父母 | 父:仁保興真 |
兄弟 | 隆兼、隆慰 |
子 | 元豊、女(乃美宗勝継室)、安富隆命 |
仁保 隆慰(にほ たかやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏の家臣。
略歴[編集]
仁保刑部丞興真の子として誕生。
大内義隆・義長に仕えて奉行人として活動した。天文11年(1542年)からの第一次月山富田城の戦いに参加。天文20年(1551年)の大寧寺の変では陶隆房(陶晴賢)側の主要人物で、変の後は大内義長を補佐した。天文24年(1555年)、厳島の戦いで陶晴賢が自害し毛利氏の防長経略が始まると毛利元就に降る。
経略後は、大庭賢兼と共に周防奉行を務める。永禄元年(1558年)6月に小早川隆景が大友氏の門司城を奪取すると、翌2年(1559年)、隆慰は門司城番となり企救郡代官職を兼務した。
元亀3年(1572年)、隠居して子・元豊に家督を譲った。天正2年(1574年)頃に没したとされる。子・元豊も門司城番となった。