交響曲第3番 (シマノフスキ)

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カロル・シマノフスキの《交響曲第3番夜の歌』》作品27は、1916年に作曲された交響曲である。

概要[編集]

シマノフスキは生涯に4つの交響曲を作曲している。1906年1907年の間に作曲された《第1番》(但し後に撤回されており、近年まで上演・録音されることがなかった)、1909年から1910年にかけて作曲され、レーガーリヒャルト・シュトラウススクリャービンの影響が見られる《第2番》、「協奏交響曲」と題されたピアノ協奏曲風の《第4番》および本作である。

《交響曲 第3番「夜の歌」》は、単一楽章の声楽つき交響曲(合唱交響曲)である。ソナタ形式によらずに自由に構成されており、交響曲というより実質的にはカンタータに分類され得る。無調的な響きやフランス印象主義ふうの異国情緒、ストラヴィンスキーを連想させる豪華絢爛で原色的な管弦楽法、スクリャービンばりの神秘性と官能性に満ち溢れた意欲的な作品である。

作曲の経緯[編集]

「夜の歌」の作曲は、シチリア北アフリカ旅行の後シマノフスキがポーランドに戻ってきた1914年の夏から始まっているが、その後作曲には時間がかかり、1916年の夏になって完成した[1]

初演[編集]

当初、「夜の歌」はロシア人指揮者アレクサンドル・ジロティの指揮で、1916年9月19日にペトログラード (現・サンクトペテルブルク) で初演されるはずだった [2]。しかし、ロシアではロシア革命に至る騒乱が既に始まっており、この演奏会は延期されたあげく中止になり実現しなかった[1][2]

更に、ポーランドでの初演の計画も、戦争や革命騒ぎのため中止になり、結局、初演は作品完成から5年後の1921年11月24日になって、ロンドンでようやく実現した[2]。初演の演奏は、アルバート・コーツ指揮ロンドン交響楽団[1]

しかし初演はされたもののスコア通りには演奏されず、不完全な状態で公表された。本来入っているはずのテノール独唱と混声合唱は省略され、独唱パートはチェロ、合唱はオルガンで代用された[2]。なお、この時シマノフスキはアメリカ合衆国におり、ロンドンでの世界初演には立ち会っていない[2]

1924年になって今度はワルシャワで演奏された時には、ロンドンでの世界初演よりはましなものになり、Adams Dobosz の演奏によるテノール独唱が加わったが、合唱パートは相変わらずオルガンで代用された[2]。ワルシャワ初演の指揮は、シマノフスキの友人で、当時のシマノフスキの演奏の権威、グジェゴシュ・フィテルベルクである[2]

楽器編成[編集]

構成[編集]

次のように3つの部分から構成されるが、すべて間断なく連続して演奏されるため、実際には単一楽章の作品とみて差し支えない。

  • 第1楽章 Moderato assai
  • 第2楽章 Vivace scherzando
  • 第3楽章 Largo

テクスト[編集]

ペルシャ神秘主義詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーの第2選集『ガザル』の296番のポーランド語訳から採られている[2]。使われているポーランド語訳は、タデウシュ・ミチヌスキ英語版による、ドイツ語訳 (ハンス・ベートゲによる翻訳) からの重訳である[2]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団、CD解説、東芝EMI
  2. ^ a b c d e f g h i シマノフスキ 交響曲第1番、交響曲第3番、ハーフィズの恋愛歌曲集、エドワード・ガードナー指揮、BBC交響楽団、ベン・ジョンソン (テノール独唱)、BBC交響楽団合唱団、Chandos CHSA 5143、ライナーノーツ

参考文献[編集]

  • CD解説:ラトル指揮バーミンガム市交響楽団 東芝EMI
  • カロル・シマノフスキ 交響曲第1番、交響曲第3番、ハーフィズの恋愛歌曲集、エドワード・ガードナー指揮、BBC交響楽団、ベン・ジョンソン (テノール独唱)、BBC交響楽団合唱団、Chandos CHSA 5143、ライナーノーツ
  • 田村進・監修 日本シマノフスキ協会・編『シマノフスキ』春秋社、1998年、72-76頁。ISBN 978-4-393-93109-7 (1991年初版)

外部リンク[編集]