中知神学

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 「(拉) Scientia Media 天主の知識(scientia)はその神的存在と異なるものでは無く、それがあらゆる真理認識であり知的把握である限り、その神的存在そのものである。それがあらゆる神的把握であるとされ限り、この神的存在と同じく絶対的無限であって、一切の認識可能なものを最も完全な仕方で包括し(↘全知)そうして全ったく単純である(天主の↘単純性、天主の↘認識)しかるに通常天主の知識はそれの対象の相違から看て、天主が自己自身について有する知識と、神的では無い者について有する知識とに分かれる 。そうして後者は更に対象の必然性、いっそう正しく言えば対象の真理性の必然性から見て(1)その真理性が何らかの自由意志に依存しない絶対的に必然的な真理の知識と(2)その真理性が絶対的な神的決意に依存する一切のものの知識、卽ちかかる決意が前提とされる一切のものの知識、とに分けられる。前者(1)は可能的なもの、しかも個々の可能的な事物並びに一切の可能的な組み合わせ等の知識を包括し、後者(2)は天主によって一旦自由に意欲された現在の秩序のうちに現実的に存在する一切のもの、従って過去、現在および未来のものを包括する。前者は自由な決意に依存しない故に自然的或いは必然的知識(scientia naturalis, necessaria)と呼ばれ、後者は自由な知識(scientia libera)と呼ばれる。しかるに条件的な未来の自由行為(futuribilia)は前者にも後者にも入れられることができず、或る意味において両者の中間に存在するものであるから、天主がこの行為について有する知識卽ち中知と呼ばれてゐる。…」

 とあるが、イエズス会中心的議論の一つであるが。自己の聖書研究的根拠を自身の言葉で現わすと、最初のエデンでの神の発言の約束、創世記三章十五節の神の御約束、「叉我(またわれなんぢ)と婦(をんな)の間および汝の苗裔(すゑ)婦(をんな)の苗裔(すゑ)の間に怨恨(うらみ)を置(おか)ん彼は汝の(かしら)を碎(くだ)き、汝は彼の(くびす)を碎かん」と云った発言のうちに主にキリストの磔刑の贖いが含まれるのだが、信者にも足の下にサタン踏み附けられると述べている(ローマ人、16:20)

 そこの発言のうちに婦(をんな)の苗裔(すゑ)と書かれていて、人類は婦の裔とサタンの裔の間に戦闘が繰り返される事に成るのであるが。「戦闘の教会」と云うものもその一部であろうが。サタンの裔(すゑ)と神の裔(すゑ)の間で戦われるのであるが、その影響であるが、周りの者にも伝染して、最初からでは無いが、自身の自由意志の内で神の側の立場を取るであろう真正の信仰のも可能性のある者が、神の苗裔の影響下の戦いの影響下で出ても来るのであるが、その予定視された以外のものをも神に信仰を示す者も出て来るのであるが、それは最初に神に信仰を持った予見された裔の者ではも無くして、神の側に信仰を定める救いの側に信仰を寄せる者も出ても来るのでもあるが。その神的な予見もあるのでもあるが、予見された者たち以外でも神に信仰を持つ者が中知で出て来るのである。予見された者とその他の救われる見込みを持つ者との間の普遍償罪が、中知なのであろうが。その信仰の発芽後の宗教展開聖徒の無条件の永遠の堅持予定説云々に成って来るのであるが。行為義認が伝統的に採用されるが、信仰義認ワザを無くするからであると云う訴えも聞くからである。善人怠惰にならせ、罪人を究極の悲惨へと追い遣るものが予定説であるが。宗教とは罪人救うものであると思うが?原罪とはアダムの遺伝によるものであるが。

 キリストは信者を持つ者で、サタンは信者を持たない方の者であるから、「持つ者は更に持ち持たない者は持っていると思うものまでさえも取り去られる」(ルカ伝、8:18)と云われている。「良き種を播くのは(:キリストが代表している同労者たちも?である)人の子である」(マタイ伝、13:37)であるともされている。「教会では論争あり未だ定義がされていない」とあり(旧カトリック大辞典の第V巻「予定・豫定」の項)、カトリック教会では未だ決定的な判決の定義が出ていないのであるが、イエズス会中心的な神学であることには間違いが無いものである。

 「中知とは被造物の条件的な未来自由行為、卽ち一定の事情及び条件の下に行われるべき被造物の自由なる意志決定について天主知識を意味する。条件的な未来自由行為に就いての神的知識の事実は天主の全知から生ずる。これらの対象の認識の内的可能性に関する問題は十六世紀末頃に初めて現われた。Scientia media と云う言葉はモリナ主義によって初めて造られた。中知の根拠モリナは、神的知性に於いて被造物が超絶的把握(supercomprehensio)の状態にあることのうちに、スアレスはこの条件的な未来自由行為の論理的真理が今既に成立してゐることの内にた↘モリニズム及び↘合宜主義条件的な自由行為の予知の事実を↘摂理予定効果的聖寵不能謬性及び聖寵と被造物の自由との両立可能性の前提する(↘聖寵)これに反し↘トミズムは条件的な自由行為の神的予知の問題にそれほど意義を認めず、十六世紀末神的意志の条件的な個々の決定を以ってそれを説明してゐる」

 イエズス会ローマン・カトリックカルヴィニズム批判する立場であるものであり、キリスト教の正統な本当に正しい信仰は本当は一つの信仰で信仰箇条も一致しているからなので新約聖書も同じなのでもあって別個の団体でもアルミニヤンなどとか正教の共働などとか同じような説標準正統信仰一致して好まれるのであるのであり、イエズス会の台頭した時期とアルミニヤン論争経緯時期を一にして修正主義にしているのである。既成の教会宗教柔らかくなったのは否定予定説主義的宗教の為であると思われる。硬直的な予定説的宗教ドルト規準的宗教をやたらと主張すると、異端的宗教の烙印が押されるのである。カトリックの信仰にも違背裏切りのをするからであるが。

注釈[編集]

カッコ内の出典である本は、冨山房のカトリック大辞典第三巻でありそれは、昭和27年十一月十日初版発刊であり、西暦1952年でありますから、今年で発刊以来少なくとも約71年経っておりまして70年間の国際著作権保護から外れておりますが。ただ予定説に自分を設定すると自分自身信仰の働きが出来なくなると云う意味か?プロテスタントでも非予定説であって当たり前でもあると考えられて予定説を固守する宗教少ないようである。

関連項目[編集]