ロバート・ダドリー (初代レスター伯)

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初代レスター伯
ロバート・ダドリー
Robert Dudley
1st Earl of Leicester
レスター伯ダドリー家
Robert Dudley Leicester.jpg
レスター伯ロバート・ダドリーの肖像画
称号 初代レスター伯爵、初代デンビー男爵、ガーター勲章勲爵士(KG)
出生 1533年9月7日
死去 1588年9月4日(満54歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国 オックスフォード コンベリー・ハウス
配偶者 エイミー(旧姓ロブサート)英語版
  レティス(旧姓ノリス)英語版
子女 デンビー男爵ロバート・ダドリー
ロバート・ダドリー英語版(非嫡出子)
父親 初代ノーサンバランド公ジョン・ダドリー
母親 ジェーン・ダドリー英語版(旧姓ギルドフォード)
役職 主馬頭英語版(1559年-1587年)
宗教 プロテスタント
サイン Leicestersig.gif
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初代レスター伯ロバート・ダドリー: Robert Dudley, 1st Earl of Leicester, KG1533年9月7日 - 1588年9月4日)は、イングランドの廷臣、貴族。

初代ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの五男。テューダー朝最後の女王エリザベス1世の寵臣であり、一時は女王の愛人となり結婚も取り沙汰されていた。1564年レスター伯爵に叙された。エリザベスの宮廷で初代バーリー男爵ウィリアム・セシルと勢力を二分した。対スペイン主戦派であり、1585年から1586年にかけてはネーデルラント反乱軍の援軍の指揮をとったが、戦果は上げられなかった。

概要[編集]

1533年に後にノーサンバランド公に叙される廷臣ジョン・ダドリーの五男として生まれた。1550年にノーフォーク大地主の女子相続人エイミー英語版と結婚。1549年以来国政を牛耳っていた父は1553年カトリックメアリー即位を防ぐためにジェーン・グレイを擁立するもメアリーに敗れて大逆罪で処刑された。彼も父に協力したため死刑判決を受けたが、1555年には赦免された(エリザベス即位前)。

1558年プロテスタントエリザベスが即位するとただちに主馬頭英語版に取り立てられ、翌1559年には枢密顧問官に列した。女王の寵愛を受け、やがて女王と愛人関係となり、結婚の噂も立ったが、1560年の妻エイミーの事故死をめぐる疑惑で女王との結婚は困難になった。1564年にはレスター伯爵に叙されるとともにケニルワース城英語版を与えられた(エリザベス女王の寵愛)。

宮廷内では初代バーリー男爵ウィリアム・セシルと対立する派閥の領袖だった。1569年には反セシルの立場とスペインに自分と女王の結婚を認めてもらおうという意図から第4代ノーフォーク公トマス・ハワードメアリー・ステュアートの結婚計画に協力したが、計画が女王の不興を蒙ると手を引いた。外交面では対スペイン主戦派であり、平和派のセシルと対立した。1577年ドレークの世界一周航海もセシルが消極的だったのに対して彼は積極的に支援した(反セシル派として)。

しばしば女性問題で女王の逆鱗に触れた。特に1578年レティス・ノリス英語版と再婚した時の女王の怒りは激しかった(女性問題)。1585年にはスペインに対抗するネーデルラント反乱軍の援軍の指揮官として派遣されたが、女王に独断でネーデルラント総督職を引き受けたことにより女王の不興を買い、さらに指揮官としても無能だったため、1586年には召喚された(ネーデルラント出兵)。

1588年夏にはテムズ川河口でスペイン無敵艦隊来襲に備えたが、海戦直後に体調を悪化させ、同年9月に死去した。生存している嫡出男子はなかったため、死去とともに爵位は消滅した(晩年と死去)。

エリザベス女王には他にも寵臣がいたが、女王の中で彼ほど大きな存在になった者はなかった。女王は崩御の時まで彼から贈られた最後の手紙を宝物にしていた。女王の寵愛を笠に着て横柄な態度が多かったため他の女王側近からは嫌われていた。演劇好きであり、レスター伯一座英語版を創設した事でも知られる(人物)。

先妻エミリーとの間に子供はなかった。後妻レティスとの間に唯一の嫡出男子を儲けたが、夭折している。レティスの前夫の子である第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーの実の父はレスター伯であるともいわれるが、定かではない。また愛人ダグラス・シェフィールド(旧姓ハワード)英語版との間に非嫡出子として探検家のロバート・ダドリー英語版を儲けた(家族)。

生涯[編集]

エリザベス即位前[編集]

1533年9月7日、廷臣ジョン・ダドリー1551年ノーサンバランド公に叙される)とその妻ジェーン英語版(廷臣エドワード・ギルドフォード英語版の娘)の間の五男として生まれた[1][2]

父は1549年ノーフォークで発生したケットの乱英語版の鎮圧の指揮を執ったが、その際にロバートも父に従って従軍した[3]。父が初代サマセット公エドワード・シーモアを失脚させて権勢を握った後の1549年から1552年にかけてと1553年にはノーフォーク選挙区英語版選出の庶民院議員を務めた[2]。さらに1552年から1553年にかけてはバックハウンド管理長官英語版を務めた[2]

1550年6月にはノーフォークの大地主ジョン・ロブサートの女子相続人エイミー英語版と結婚した[3]

1553年7月にエドワード6世が崩御すると父はカトリックメアリー王女即位を防ぐためにジェーン・グレイを女王に擁立した。ロバートもこれに協力した[2]。そのためメアリー即位後に父は大逆罪で処刑され、ロバートも大逆罪で有罪となり、死刑判決を受けてロンドン塔へ投獄された[2]

彼の母ジェーンはキャサリン・オブ・アラゴンに仕えていたためスペイン王室にコネがあり、そのコネを使ってメアリー女王の夫になったスペイン皇太子フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)に息子たちの赦免を働きかけた。そのおかげで1555年に兄のジョン英語版アンブローズ英語版とともに赦免された[4][2]

プロテスタントであったが、自分の助命運動に尽力してくれたフェリペ2世への恩返しのため、1557年8月にメアリー女王が夫フェリペ2世のために派遣した初代ペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバート英語版率いる英軍に兄弟とともに参加し、サン・カンタンの戦い英語版でフランス軍と戦った[5][6]

エリザベス女王の寵愛[編集]

エリザベス女王とレスター伯の肖像画(ウィリアム・フレデリック・イェームズ英語版画)

彼はメアリー女王時代にエリザベス王女が経済的に困窮していた時、土地を売って彼女を助けたことがあった。またエリザベスと同じ時期にロンドン塔に投獄されていたためエリザベスと彼は親密だった[7][8]

そのため1558年にメアリー女王が崩御してエリザベス王女がエリザベス1世として即位するとただちに主馬頭英語版に任じられた。彼はエリザベス朝で最初に官職を与えられた者だった[8]。翌1559年には枢密顧問官にも任じられ、さらにガーター勲章を与えられた[9]。主馬頭は高額な年収があるうえ、宮廷内に住居を与えられて常に女王の側近くに仕える役職だった。エリザベスは女王の馬を管理する彼を伴って毎日のように乗馬に興じ、二人はやがて愛人関係となった[10]。女王が外国の王族と結婚する可能性がもっとも高かった1560年前後に女王がこれらの縁談に見向きしなかったのはロバートの存在があったからだといわれている[11][12]

しかし女王の寵愛を受けて急速に成り上がった彼はライバルの敵愾心を招いた。特にイングランド最大の貴族で当時唯一の公爵だった第4代ノーフォーク公トマス・ハワードがロバートと鋭く対立した。ノーフォーク公は女王とハプスブルク家の縁組が決まらないのはロバートが女王の夫に収まるべく妨害しているからだと公然と批判し、ロバートに対して「うぬぼれと僭越な行為を止めなければベッドで死ぬことはできない」と脅迫したという[13]

1560年9月には妻エイミーが階段の下で首の骨を折って死んでいるのが発見された。この件は事故死として処理されたが、ロバートはかねてから女王との結婚のために邪魔な妻を殺害しようとしているのではないかと噂されていたので暗殺説が広く出回った[12]。この噂の広まりが尾を引いてエリザベスと彼が結婚することは困難になった[14]

結婚が難しくなったことへの穴埋めのようにエリザベスは彼への寵愛を強めた。1561年夏には白生地の輸出税の一部(年に1000ポンド)がロバートの懐に入るよう措置が取られた[15]。さらに1564年にはレスター伯爵に叙されるとともにケニルワース城英語版が与えられた[16]。レスター伯位が与えられたのは当時エリザベスが彼をスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚させてメアリーを操ろうと目論んでおり、そのために女王の夫としてふさわしい称号を与えておこうとしたためといわれる。しかしこの計画は結局メアリーがダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚したことで水泡と帰した[17]

反セシル派として[編集]

1560年代に描かれたレスター伯の肖像画

レスター伯はエリザベスと彼の結婚に強く反対していた国王秘書長官英語版ウィリアム・セシル(後の初代バーリー男爵)と対立を深めていった[18]

ロバートの推進で1562年からその翌年にかけてユグノー援助のフランス出兵が実施されたが、セシルはこれに強く反対した。結局この出兵は失敗したため、セシルのレスター伯に対する優位が確立された[19]。しかしロバートはその後も女王の寵愛を受け続けたため、宮廷内でセシルと権勢を二分する派閥の領袖であり続けた。どちらかといえばセシル一派は政務、レスター伯一派は宮中でそれぞれ重きをなした[20]。レスター伯はプロテスタントのパトロンであるかのようにふるまうこともあったが、エリザベスとの結婚実現のためには手段を選ばず、スペイン王フェリペ2世に「もし自分と女王の結婚を認めてくれたらカトリック教会をイングランドに復活させる」などという申し入れまでしている[21]

一方ノーフォーク公や第19代アランデル伯ヘンリー・フィッツアラン、第6代ウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィルらカトリック貴族も平民出身のプロテスタントのセシルが女王に重んじられていることに不満を抱いていた。こうしたカトリック貴族の反セシル勢力は1569年春から夏にかけてスペイン大使と共謀してノーフォーク公とイングランド亡命中のスコットランド元女王メアリー・ステュアートの結婚を画策した。レスター伯もセシル排除とスペインに自分とエリザベスの結婚を承認してもらう目的でこの計画に関与した[22][23]

この計画の推進者の中にはエリザベス廃位とメアリー即位に繋げることを狙う者もいたが、表向きこの計画はエリザベスの王座を守るためにメアリーをカトリックの陰謀から切り離すための物だった。レスター伯はこの計画を女王に奏上して同意を取り付ける役目を自ら買って出た。しかし奏上のタイミングを見計らっているうちに計画の噂が宮廷中に広まってしまい、エリザベスはその計画に不快感を露わにした。1569年9月には宮廷の緊張が一気に高まった。危険を感じたレスター伯は病気を理由に出仕を中止することで計画から身を引いた。そして女王の見舞いを受けた際に計画をすべて告白した[24]

これにより計画推進者たちは厳しい取り調べを受けることになり、ノーフォーク公もロンドン塔に投獄された(公爵は一時釈放されるも1571年のリドルフィ陰謀事件英語版に関与したとされて1572年に処刑されている)[25]。反発した北部カトリック貴族の第7代ノーサンバーランド伯爵トマス・パーシーとウェストモーランド伯は北部諸侯の乱英語版を起こすも、あっけない失敗に終わった[26][27]

カトリック貴族勢力の壊滅によりセシルの立場は強化されたが、その後も女王のレスター伯寵愛は続いたのでレスター伯が失脚することはなく、セシルとレスター伯の対立は続いた。ネーデルラント(オランダ)問題を巡ってはレスター伯はフランシス・ウォルシンガムとともに対スペイン主戦派となり、平和派のセシルと対立した。この問題について女王ははじめセシルの助言を容れてスペインとの戦争には踏み切らなかったが[28]1585年にはレスター伯の意見を容れてネーデルラント反乱軍を支援することになる[17]

1577年にはセシルが慎重だった私掠船船長フランシス・ドレークの世界一周周航にウォルシンガムとともに投資を行っている[29]

1584年には命を懸けてエリザベス女王を守るというプロテスタント同盟の締結に貴族院議員として主導的役割を果たした[17]

女性問題[編集]

レスター伯は死去まで女王の寵愛を失わなかったが、しばしば女性関係で女王の逆鱗に触れることがあった。

1573年には第2代シェフィールド男爵英語版ジョン・シェフィールド英語版の未亡人ダグラス・シェフィールド(旧姓ハワード)英語版と情事を重ねてエリザベス女王を激怒させた[5]。さらにその翌年1574年には彼女の妹であるフランセス・ハワードとも恋愛関係になった[30]。女王の機嫌を損ねるのを避けるためこの時には結婚しなかったが、レスター伯も正規の結婚をして子を儲けて爵位を継がせたいという思いはあった[30]

1578年春に初代エセックス伯爵ウォルター・デヴァルーの未亡人レティス(旧姓ノリス)英語版を身ごもらせたため、彼女と再婚した。女王に秘密で行ったが、秋には女王の耳に入った。女王は怒り狂ってレスター伯を処刑してやると絶叫したが、バーリー男爵ウィリアム・セシルに「臣下が女王に内緒で結婚したというだけで処刑にはできない」と諫められている[31]

翌1579年になると女王の怒りも落ち着いたようだったが、レスター伯再婚の事実は女王を苦しみ続け、レスター伯と女王の関係が完全に元通りになることはなかったという[32]

ネーデルラント出兵[編集]

1586年デン・ハーグでのレスター伯のパレードを描いた絵画

1585年9月にエリザベスはパルマ公爵アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に追いつめられるネーデルラント反乱軍の支援を決定した。その5000人の派遣軍の総司令官にレスター伯が任じられた。この任命に際してレスター伯は女王からネーデルラント統治を委ねられるような地位についてはならないと厳命されていた[33][34]

12月にネーデルラントに着任したレスター伯はそこで大歓迎を受けた。そして1586年1月11日にはネーデルラント中央議会から総督職を受けるよう要請された。レスター伯は女王の命令もあって一度は逡巡したものの結局1月24日に命令に背いてこれを受け入れた。25日にはデン・ハーグで戴冠式のごとき総督職就任式を行いネーデルラント連合政府代表者たちはレスター伯に忠誠を誓った。女王はこれに激怒し、すぐに総督職を返還するよう命じた。レスター伯はやむなく3月14日に中央議会に総督職を返還した[35]

この騒ぎでレスター伯の権威は落ち、英軍の士気も低下した。またエリザベスがパルマ公と水面下で和平の道を探っているという噂も広まってオランダ軍からも不信の目で見られるようになった[36]。さらにイングランド軍は腐敗が凄まじく、いくら資金をかけても指揮官が横領して懐に入れてしまう有様だった[37]

このようなイングランド軍とオランダ反乱軍ではパルマ公の軍を止められず、レスター伯は敗戦を繰り返した[38]。1568年9月にはスペイン占領下のズートヘンを包囲することに成功したが、この戦いでレスター伯の甥にあたるフィリップ・シドニーが重傷を負い、その傷が原因で後に戦死している[39]

女王は8月にネーデルラントに派遣した枢密顧問官トマス・ワイクスの報告でレスター伯の高圧的な態度と資金不足のためにイングランド軍の士気やネーデルラントとの同盟関係は崩壊の危機に瀕していることを知った。その報告を受けた女王はレスター伯に将軍の才能はないと判断し、1586年9月にレスター伯に召喚命令を出した。これによりレスター伯は同年11月に帰国の途に就いた[40]

晩年と死去[編集]

1588年にウィリアム・シガー英語版が描いたレスター伯の肖像画

帰国直後の1587年に起こったメアリー・ステュアートの処刑騒動を巡っては処刑に賛成し、同じ君主を処刑することを躊躇う女王の説得にあたった[40]

1588年夏のスペイン無敵艦隊来襲危機に際しては、パルマ公爵軍が総司令官シドニア公爵アロンソ・ペレス・デ・グスマン率いる無敵艦隊と合流して攻め昇ってくるだろうと予想されていたテムズ川の河口ティルブリー英語版防衛の指揮を任された[41]。しかし彼の出番はなく、無敵艦隊は海戦に敗れて撤退していった。

1588年8月末に健康を悪化させ、妻レティスのもとで療養生活に入った。療養でダービーシャーバクストン英語版の温泉へ向かう途中の同年9月4日オックスフォードのコンベリー・ハウスで熱病により死去した[42]。女王に宝石コレクションを遺贈するとともに忠誠を表明する手紙を送った[17]。彼の訃報に接した女王は大変に嘆いたという[42]

生存している嫡出子はなく、彼の死とともに爵位は消滅した[2]

人物[編集]

1572年頃にニコラス・ヒリアードの描いたレスター伯

クリストファー・ハットン英語版トマス・ヒネジウォルター・ローリー、第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーなどレスター伯以外にも女王の寵臣は数多くいたが、そのうちの誰もレスター伯ほど女王の中で大きな存在にはなれなかった。1603年に女王が崩御した時、女王の枕元の箱の中には宝飾品と一緒にレスター伯の手紙が入っていた。そこには次のように書かれていた[42]

陛下の貧しき老いた僕がお手紙を差し上げます無礼をお許しください。陛下の御身を案じております、お痛みは如何かと心配しております。何にもまして私が祈るのは陛下がご健康で長生きされることです。私の方は陛下から頂戴した薬を未だ服用しておりますが、どの薬より効き目があり、陛下のおかげで少し回復してきております。温泉で療養し、元気になりたいと願っております。陛下がお幸せで健康でありますように。身を低くして陛下の御足に接吻いたします。陛下のロイコットの古いお屋敷にて。木曜日、午前、これから旅に出ます。陛下の最も忠実にして従順なる僕、ロバート・ダドリー

この手紙の隅に女王は「彼からの最後の手紙」と書いている。女王は崩御する瞬間までこの手紙を宝物にしていたのだった[42]

しかしレスター伯は女王の寵愛を笠に着て横柄な態度をとることが多かったため、他の女王の側近や大臣たちから嫌われていた[17]

額が広かったものの美男子であり、身長も6フィート(183センチ)という長身で容姿に恵まれていた[7]。服装の趣味もよく、ダンスや乗馬などスポーツが得意だった[7]。綺麗な黒目も特徴的でエリザベス女王はその特徴から彼を「お目めちゃん(The Two Eyes)」と渾名した[43]。父親譲りで肌が浅黒かったので友人からは「ジプシー」と呼ばれた[43]。また父も祖父も大逆罪で処刑されていたため、女王から「三代にわたる反逆の徒」と呼ばれることがあった[44]

天文学者ジョン・ディーに師事したため、天文学、航海学、地理に博識だった[43]。語学の才能も有り、数か国語を話した[43]

芝居好きでもあり、1559年には一座を結成して女王から全国巡業の許可を得た。この一座は彼が1564年にレスター伯爵位を受けた際にレスター伯一座英語版と改名している。この一座からは人気俳優ジェイムズ・バーベッジ英語版リチャード・バーベッジ親子が出た[45]

彼の多情と無節操を風刺した『レスター伯のコモンウェルス英語版』というパンフレットが出回っていた[5]

家族[編集]

レスター伯と最初の妻エイミー英語版を描いた肖像画

1550年6月にノーフォークの大地主ジョン・ロブサートの女子相続人エイミー英語版と最初の結婚をした[3]。しかし子供のできないまま1560年にエミリーは事故死した[12]

1573年にはエフィンガムの初代ハワード男爵ウィリアム・ハワードの娘で第2代シェフィールド男爵英語版ジョン・シェフィールド英語版の未亡人だったダグラス・シェフィールド(ハワード)英語版と愛人関係になり[5]、彼女との間に非嫡出子ロバート・ダドリー英語版(1574-1649)を儲けたが、ダグラスとの結婚は認められなかったのでこの子供は非嫡出子であり爵位継承権はなかった[2]

1578年春に初代エセックス伯爵ウォルター・デヴァルーの未亡人レティス(旧姓ノリス)英語版と再婚[31]。このレティスはエリザベス女王の母方の従姉の娘にあたる。彼女との間に唯一の嫡出子デンビー男爵(儀礼称号)ロバート・ダドリー(1579-1584)を儲けたが、この子は夭折した[2]

なおレティスには前夫との間に第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーがあったが、この第2代エセックス伯の実の父はレスター伯だとする説がある[46]

レスター伯を演じた人物[編集]

栄典[編集]

爵位[編集]

1564年9月28日に以下の爵位を新規に叙された[2]

1564年9月29日に以下の爵位を新規に叙された[2]

  • 初代レスター伯爵 (1st Earl of Leicester)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

勲章[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Lundy, Darryl. “John Dudley, 1st Duke of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年6月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k Heraldic Media Limited. “Leicester, Earl of (E, 1564 - 1588)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年6月17日閲覧。
  3. ^ a b c 石井美樹子 2009, p. 296.
  4. ^ 石井美樹子 2009, p. 194/297.
  5. ^ a b c d 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 414.
  6. ^ 石井美樹子 2009, p. 194.
  7. ^ a b c 石井美樹子 2009, p. 298.
  8. ^ a b 青木道彦 2000, p. 80.
  9. ^ 石井美樹子 2009, p. 228/298/301.
  10. ^ 石井美樹子 2009, p. 298/300/308.
  11. ^ 青木道彦 2000, p. 79.
  12. ^ a b c 今井宏(編) 1990, p. 103.
  13. ^ 石井美樹子 2009, p. 304.
  14. ^ 石井美樹子 2009, p. 310-313/321, 青木道彦 2000, p. 81, 今井宏(編) 1990, p. 103
  15. ^ 石井美樹子 2009, p. 321-322.
  16. ^ 石井美樹子 2009, p. 322.
  17. ^ a b c d e 世界伝記大事典 世界編12巻(1981) p.308
  18. ^ 石井美樹子 2009, p. 349.
  19. ^ 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.425
  20. ^ 青木道彦 2000, p. 81/230.
  21. ^ トレヴェリアン 1974, p. 58.
  22. ^ 石井美樹子 2009, p. 349/352.
  23. ^ 青木道彦 2000, p. 98.
  24. ^ 石井美樹子 2009, p. 352-355.
  25. ^ 石井美樹子 2009, p. 356.
  26. ^ 石井美樹子 2009, p. 357-358.
  27. ^ 青木道彦 2000, p. 99.
  28. ^ 今井宏(編) 1990, p. 72.
  29. ^ 石井美樹子 2009, p. 406.
  30. ^ a b 石井美樹子 2009, p. 399.
  31. ^ a b 石井美樹子 2009, p. 396.
  32. ^ 石井美樹子 2009, p. 400.
  33. ^ 石井美樹子 2009, p. 424.
  34. ^ 青木道彦 2000, p. 123.
  35. ^ 石井美樹子 2009, p. 426-429.
  36. ^ 石井美樹子 2009, p. 429.
  37. ^ 石井美樹子 2009, p. 430.
  38. ^ 石井美樹子 2009, p. 431.
  39. ^ 石井美樹子 2009, p. 432.
  40. ^ a b 石井美樹子 2009, p. 433.
  41. ^ 石井美樹子 2009, p. 460.
  42. ^ a b c d 石井美樹子 2009, p. 466.
  43. ^ a b c d 石井美樹子 2009, p. 299.
  44. ^ a b 石井美樹子 2009, p. 301.
  45. ^ 石井美樹子 2009, p. 299-300.
  46. ^ essex-devereux

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
サー・ヘンリー・ジャーニンガム英語版
主馬頭英語版
1558年1587年
次代:
第2代エセックス伯爵
イングランドの爵位
新設 初代レスター伯爵
1564年–1588年
廃絶