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レンジェル・メニヘールト

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レンジェル・メニヘールト

レンジェル・メニヘールトLengyel Menyhért1880年1月12日 - 1974年10月21日)は、ハンガリー劇作家脚本家ハンガリー以外ではメルヒオール・レンジェルMelchior Lengyel)の名で知られる。

生涯

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レボヴィチ・メニヘールトLebovics Menyhért)の名でハンガリー王国ハイドゥー=ビハル県のホルトバージ近郊バルマズウーイヴァーロシュに生まれたユダヤ人ハンガリー新聞の特派員としてスイスに滞在した後、ドイツオーストリア戯曲を発表。エルンスト・ルビッチなどドイツ演劇界の大立者たちと交友を持つ。

1909年には日本人スパイを描いた『Taifun』[1]を執筆[2]。1913年にはロンドンのアーヴィング劇団が舞台化して大ヒットとなった[3]。これの早川雪洲によるアメリカ上演を観た映画製作者トーマス・H・インスは、翌1914年に雪洲を主演とするアメリカ映画『The Typhoon』を製作し、「殉死を厭わない日本人スパイたちとその陰謀」という主題は、その後の黄禍論小説の定番となった[4]

1917年1月、「中国の不思議な役人─グロテスクなパントマイム」(A csodálatos mandarin: Pantomime grotesque)と題する脚本を文芸誌に発表。この作品は、1924年バルトーク・ベーラによって舞台音楽化された。

この間、1921年1924年、二度にわたってアメリカに滞在。この時期の彼の日記は、当時のアメリカの演劇界に関する好個の資料となっている。彼はまたユージン・オニールと会い、ドイツに戻ってからオニールの戯曲を演出した。

1933年ブダペストのPesti Napló紙の特派員として渡英。ナチ台頭後、1935年にはルビッチの後を追ってアメリカ亡命ハリウッド映画ニノチカ』(1939年)や『生きるべきか死ぬべきか』(1942年)の脚本などを執筆し、前者の作品ではアカデミー賞候補となったが、『風と共に去りぬ』の前に惜敗した。

戦後、1960年イタリアへ移住。1970年ハンガリーへ帰国し、94歳のときブダペストで逝去した。

脚注

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  1. ^ 訳書は『颱風(タイフーン)』(小谷野敦訳、幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2020年)
  2. ^ 1910年にドイツ留学した物理学者・随筆家の寺田寅彦によれば、同年のベルリンで舞台化された模様。「・・・「タイフン」という芝居をやっています。作者はハンガリー人で ・・・ 主人公の日本人の名がドクトル・タケラモ・ニトベというのだそうで ・・・」 『先生への通信』「ベルリンから(一)」 師の漱石に宛てた手紙形式の旅行記。なお映画での主人公名はニトベ・トコラモ。
  3. ^ 宝塚女優と結婚した早大教授 逍遙のおい 坪内士行の青春早稲田ウィークリー、2016年10月21日
  4. ^ 西洋の語った、西洋へ語った日本・中国・アジア 洋書学術史資料出版目録エディション・シナプス

関連項目

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外部リンク

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