メディチ家礼拝堂

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ドームに覆われたメディチ家礼拝堂の「君主の礼拝堂」。サン・ロレンツォ聖堂のなかで、もっとも大きな建物である。
サン・ロレンツォ聖堂の平面図。「2. 新聖具室」と「3. 君主の礼拝堂」がメディチ家礼拝堂である。

メディチ家礼拝堂(メディチけ れいはいどう、: Cappelle medicee)は、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に付属する、「新聖具室」と「君主の礼拝堂」と呼ばれる2棟の建物の総称。サン・ロレンツォ聖堂 (en:Basilica of San Lorenzo, Florence) は、イタリア人建築家フィリッポ・ブルネレスキが、トスカーナ大公家で聖堂のパトロンでもあったメディチ家の依頼で15世紀に改築した教会である。メディチ家礼拝堂は、このサン・ロレンツォ聖堂の拡張建造物として、16世紀から17世紀にかけて建設された。聖堂内部の新聖具室 (Sagrestia Nuova) は、ミケランジェロの設計による建物である。君主の礼拝堂(Cappella dei Principi) の建設計画は16世紀からあったが、メディチ家と建築家との協業で設計がなされた17世紀初めになるまで着工されることはなかった。

新聖具室[編集]

新聖具室 (Sagrestia Nuova) は[1]、枢機卿ジュリオ・ディ・メディチとジュリオの従兄弟のローマ教皇レオ10世が、メディチ一族の霊廟あるいは霊安室としてミケランジェロに設計させた建物である。サン・ロレンツォ聖堂内部の左翼廊のブルネレスキ設計による旧聖具室 (Sagrestia Vecchia) の反対側にあたる右翼廊に位置し、意図的に旧聖具室と同じようなデザインとなっている。

ジュリアーノ・デ・メディチの霊廟。ミケランジェロの彫刻『夜』(en:Night)と『昼』(en:Day) の彫刻で装飾されている。 ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟。ミケランジェロの彫刻『夕暮』(en:Dusk)と『曙』(en:Dawn) の彫刻で装飾されている。
ジュリアーノ・デ・メディチの霊廟。ミケランジェロの彫刻『夜』(en:Night)と『昼』(en:Day) の彫刻で装飾されている。
ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟。ミケランジェロの彫刻『夕暮』(en:Dusk)と『曙』(en:Dawn) の彫刻で装飾されている。

ミケランジェロは新聖具室の設計と同時に、新聖具室に葬られるメディチ家の主要な一族の霊廟のために『夜』(en:Night)と『昼』(en:Day) 、『夕暮』(en:Dusk)と『曙』(en:Dawn) の装飾彫刻も手がけていた[2]。この4体の彫刻は、後世の彫刻家たちの同デザインの彫刻作品に多大な影響を与えることになった。聖堂右翼廊の新聖具室の隅には聖堂内部に通じる目立たない入り口があるが、現在この入り口は閉鎖されている[3]。ミケランジェロは1524年までこの新聖具室の建築に積極的に携わっていたが、1527年のメディチ家のフィレンツェからの追放や、ローマ教皇クレメンス7世となったジュリオ・ディ・メディチの死去などが重なり、1534年にミケランジェロはローマへと移住し、そのままフィレンツェに戻ることはなかった。ミケランジェロがフィレンツェを離れたときに新聖具室装飾用の彫刻作品はほとんど完成していたが、当時の情勢の混乱もあって新聖具室に据え付けられずに放置されていた。これらの彫刻群が新聖具室に安置されたのは1545年のことで、ニッコロ・トリボーロ (en:Niccolò Tribolo) の指揮によるものだった[4]。ミケランジェロがローマへ去った時点でほとんどの建物と彫刻が完成していたが、新聖具室は未完のままだった。その後、亡命先からフィレンツェに帰還したメディチ家の初代トスカーナ大公コジモ1世の命で、芸術家ジョルジョ・ヴァザーリと建築家バルトロメオ・アンマナーティが新聖具室建築を続行し、1555年になって完成を見た[5]

新聖具室には当初メディチ家4名の霊廟が設置されることになっていた。しかしながら計画通りに制作されたのはヌムール公ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチとウルビーノ公ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟だけで、残るフィレンツェ君主ロレンツォ・デ・メディチと弟ジュリアーノ・デ・メディチの霊廟の制作は着手されることはなかった。制作されたジュリアーノ・ディ・ロレンツォとロレンツォ・ディ・ピエロの霊廟の構成はよく似ており、装飾彫刻はそれぞれ対をなした主題となっている。壁面にある聖母子像もミケランジェロの作品である。聖母子の両横に配された、メディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアンは[6]、ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリ (en:Giovanni Angelo Montorsoli) とラファエッロ・ダ・モンテルーポ (en:Raffaello da Montelupo) の作品である。また、1976年には聖具室の下に、壁にミケランジェロのドローイングがある隠し廊下が発見された[7][8]

君主の礼拝堂[編集]

君主の礼拝堂内部。19世紀に撮影された写真。

八角形の君主の礼拝堂は、ドーム状の屋根を持つ高さ 59 m の建物である。遠くからでも目立つ特徴的な建造物で、後陣の礼拝堂という聖堂身廊のなかでも重要な場所に位置している。君主の礼拝堂にはマドンナ・デッリ・アルドブランディーニ広場に面した入り口があり[9]、ベルナルド・ブオンタレンティ (en:Bernardo Buontalenti) が設計した円天井の地下聖堂へと続いている[10]

豪奢な君主の礼拝堂の設計原案は初代トスカーナ大公コジモ1世によるもので、第三代トスカーナ大公フェルディナンド1世がこの原案を引き継いだ。トスカーナ大公の原案を容れて君主の礼拝堂を設計したのは、建築家マッテオ・ニゲッティ (en:Matteo Nigetti) である。ニゲッティが選ばれたのはコジモ1世の息子ドン・ジョヴァンニが1602年に非公式に行ったコンペを経てのことで、すでに老齢に達していたブオンタレンティの設計をやり直す目的でニゲッティに設計が一任された[11]

壁面を大量の彩色大理石と半貴石で飾り立てるために、トスカーナ大公家は専門の加工工房を設立している(現在のピエトレ・ドゥーレ博物館 (en:Opificio delle Pietre Dure)。完成した君主の礼拝堂はフィレンツェでは「商売人 (commessi)」の芸術品と呼ばれ、全ての壁面が大理石や半貴石が織りなす複雑な文様で埋め尽くされていた。18世紀、19世紀の訪問者たちからの評判は悪かったが、現在では当時好まれた様式の一例として再評価されている[12]。礼拝堂内部には6個の石棺が安置されているが中は空である。これは、礼拝殿完成後もメディチ一族が地下聖堂に埋葬され続けたためだった。16枚に区分けされた装飾羽目板 (en:Dado (architecture)) には、メディチ家支配下時のトスカーナの紋章が表現されている。壁龕にはメディチ一族の有力者たちを記念する肖像彫刻があり、そのうちフェルディナンド1世の彫刻とコジモ2世の彫刻はピエトロ・タッカ (en:Pietro Tacca) の作品である。

出典、脚注[編集]

  1. ^ Charles de Tolnay, Michelangelo, vol. III "The Medici Chapel" (Princeton, 1948); James S. Ackerman, The Architecture of Michelangelo
  2. ^ Michelangelo left no note of his "allegories" as he called them; the identification as Night and Day, Dawn and Dusk was first offered by Benedetto Varchi, 1549
  3. ^ 現在メディチ家礼拝堂への入場は有料で、君主の礼拝堂にある入り口が入場者用のエントランスとして使用されている。
  4. ^ Avery, Charles (1970). Florentine Renaissance Sculpture. John Murray Publishing. p. 190. 
  5. ^ Antonio Paolucci. The Museum of the Medici Chapels and the Church of San Lorenzo. Sillabe Publishing 1999.
  6. ^ メディチ家の祖は医師あるいは薬師だったといわれており、医師と薬剤師の守護聖人である聖コスマスは医療箱を手にした姿で表現されている。
  7. ^ Peter Barenboim, Sergey Shiyan, Michelangelo: Mysteries of Medici Chapel, SLOVO, Moscow, 2006. ISBN 5-85050-825-2
  8. ^ Peter Barenboim, "Michelangelo Drawings – Key to the Medici Chapel Interpretation", Moscow, Letny Sad, 2006, ISBN 5-98856-016-4
  9. ^ A sequence of small spaces leads from the Sagrestia Nuova also.
  10. ^ 聖堂身廊の地下聖堂にはコジモ・デ・メディチドナテッロの墓がある。
  11. ^ Touring Club Italiano, Firenze e dintorni (Milan, 1964) p. 285f.
  12. ^ TCI, Firenze e dintorni 1964:286: "indeed, conceived according to the Baroque aim of arousing stupefaction" (concepita già secondo il fine barocco di destare stupore).

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

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座標: 北緯43度46分31秒 東経11度15分13秒 / 北緯43.7751444444度 東経11.2535722222度 / 43.7751444444; 11.2535722222