バルバリア海岸

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バルバリア海岸

バルバリア海岸(バルバリアかいがん)またはバーバリー海岸(バーバリーかいがん、Barbary Coast / Berber Coast)は、ヨーロッパ人が16世紀から19世紀にかけベルベル人の住むアフリカ北西岸一帯を指して用いた名称である。現在のモロッコアルジェリアチュニジアリビアといった北西アフリカ一帯の海岸および都市群にあたる地域で、現在は主にマグリブと称される。

概要[編集]

"バルバリア"とはベルベル人の土地のことで、17世紀から20世紀の間にヨーロッパで作成された地図では内陸部を含めた広い範囲にあてられていた名称である。 [1]

この地域は、地中海や北大西洋に暗躍し船や各地の海岸を襲ったバルバリア海賊の拠点となった。彼らはヨーロッパアメリカサブサハラアフリカ奴隷や物品を略奪するバルバリア奴隷貿易を行い、バルバリア海岸を名目的に支配していたオスマン帝国やヨーロッパ人闇商人に売り飛ばした。[2]こうした海賊は長らくヨーロッパにとって脅威であったが、次第にスペインフランスイギリスなどの海軍に掃討されたりバーバリ戦争でアメリカに敗れるなどして弱体化し、1830年にアルジェリアフランスに征服されるに至って海賊は消滅、「バルバリア海岸」の名称も消えていった。

歴史[編集]

ランゴン沖でのアルジェリア船(手前)とマルタ騎士団海戦1719年

"バルバリア"は必ずしも政治的に統一された地域ではなかった。16世紀以降はオスマン帝国領アルジェリアオスマン帝国領チュニジアフサイン朝)、トリポリタニアカラマンリー朝)が割拠していた。これらを実質的に支配していたのは、アルジェリアのパシャデイ、チュニジアのベイトリポリのベイを名乗る海賊たちだった。[3]

バルバリアの名称が用いられる以前、この地域の東部はイフリーキヤ、西部はモロッコと呼ばれていた。中部にあたるアルジェリアはトレムセンティアレットを中心として栄えていたが、度々ムワッヒド朝ハフス朝といった強力なベルベル人国家の支配を受けた。当時「バルバリア」地域で最も大きく栄えていた都市はモロッコのマラケシュだったが、ヨーロッパからはリビアのトリポリ、もしくはアルジェリアのアルジェ、モロッコのタンジールが首都、もしくは中心都市と認識されていた。[誰によって?] 

バルバリアでのキリスト教徒奴隷の取引

アメリカ合衆国はトリポリのバルバリア海賊に囚われたアメリカ人奴隷の解放とオスマン帝国属州での海賊行為を根絶するため第一次バーバリ戦争を起こしたが、この時行われた1805年ダーネの戦いはアメリカ海兵隊海軍にとって、国外で行った最初の陸戦である。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Maps of Barbary アーカイブ 2008年10月11日 - ウェイバックマシン
  2. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Barbary Privateers" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
  3. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Barbary Privateers". Encyclopædia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press.

外部リンク[編集]