バビチ・ミハーイ

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Flag of Hungary.svg この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、印欧語族風にミハーイ・バビチと表記することもあります。
バビチ・ミハーイ

バビチ・ミハーイBabits Mihály1883年11月26日1941年8月4日)は、ハンガリー詩人小説家翻訳家

1901年から1905年までブダペシュト大学にて学んだ。在学中には、コストラーニ・デジェーユハース・ジュラと出逢っている。もともと教師を目指しており、バヤ(Baja)(1905~1906年)、セゲド(1906年~1908年)、Făgăraş(1908年~1911年)、ウーイペシュト(Újpest)(1911年)、ブダペシュト(1912年~1918年)の教師を歴任した。

詩的業績が文学史に刻まれるのは、1908年以降の事である。この年の夏、彼はイタリアに旅行し、ダンテに興味を持った。その後も度々イタリアを訪れたが、この経験がきっかけとなり、『神曲』を翻訳する事となる。地獄篇は1913年、煉獄篇は1920年、天国篇は1923年に訳された。

1918年の革命の直後、ブダペシュト大学の教授に就任し、世界文学とハンガリー現代文学を担当。しかし間もなく革命政府は凋落し、反戦主義者だったバビチは左遷されてしまう。

1911年以降、継続的に「ニュガト」への投稿を行うようになる。

1921年、Ilona Tannerと結婚。Ilonaは後にSophie Törökkの名で詩集を出している。

1923年、エステルゴムへ移住。1927年にはキシュファルディ協会(Kisfaludy Társaság)のメンバーとなるとともに、バウムガルテン賞キュレーターとなる。

1929年、『ニュガト』の編集長に就任、1933年まではモーリツ・ジグモンド(Móricz Zsigmond)と共に務める。その後、死去するまでこの栄誉ある地位に留まることとなった。

1937年、医師より喉頭癌の宣告を受ける。

創作活動[編集]

古典文学とイギリス文学に影響を受けた抒情詩で知られる。その他、論文執筆活動、翻訳活動も行った。翻訳した文献は英語フランス語ドイツ語ギリシア語イタリア語、およびラテン語

日本語翻訳リスト[編集]