ノート:継体天皇

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無題[編集]

本文で議論をしないでください。両論併記にするか、ここで決めて本文に反映してください。以下に削除前の本文を掲載します。--ろう 2006年5月26日 (金) 03:46 (UTC)[返信]

異説[編集]

隅田八幡神社(和歌山県橋本市)旧蔵の人物画像鏡(国宝)の銘文に、

本文『癸未年八月曰十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
「癸未の年八月曰十大王の年、男弟王(おおどのきみ)意柴沙加宮にいましし時、斯麻(しま)長寿を念じて開中費直(かわちのあたえ)穢人(あやひと)今州利(いますり)の二人らを遣わし、白上銅二百旱を取りてこの竟(鏡)を作る」(判読・解釈には諸説あり)

とある。この解釈に従えば、「癸未」を503年、「男弟王」を継体に比定することも可能である。 「曰十大王(仁賢天皇?)」の503年、既に即位前の継体(仮にオオド王と呼ぶ)が大和の意柴沙加宮(おしさかのみや。奈良県桜井市忍坂)にいたことになれば、世間に流布しているような継体像 ──越前出身の継体が畿内勢力の抵抗に遭い、20年に渡って大和へ入れなかった── はまず成り立たない。また、オオド王の長寿を祈って鏡を作らせた「斯麻」は百済武寧王のことと考えられ、鏡は百済王よりオオド王に贈られた品と見られる。 このような百済王と(まだ大王ではない)オオド王との通交が事実ならば、軍事・外交上の手腕が大王の権威を裏打ちしていた当時において、オオド王は内外から外交の主体者、すなわち大王(倭王)に準ずる地位を認められていたと言えよう。
 しかしながら、この説は本質的に大きな問題天を含んでいる。それは、かつて忍坂大中津姫の宮地であったとはいえ、その50年後にも宮を付して呼んだかどうかである。古事記、日本書紀の用例を見る限り、その時代の大王あるいは大后の居住地のみが宮であり、過去のものにそれを付した用例を知らない。宮というのは,建物の意味では決してない。また、斯麻を武寧王とする根拠も明確でない。斯麻が武寧王なら、通常は百済王斯麻と書くべきである。また、百済王が何ゆえ開中費穢人(百済人ではなかろう)に鏡を作らせたのか、通常の観念では理解できない。これらの観点からすれば、「癸未」を443年、「男弟王」を継体の曽祖父である意富富杼王(おおほどのおおきみ)に比定するのが無理のない説である。この場合、大后忍坂大中津姫の弟という意味で、音だけでなく字意も一致する。当時の習慣からしても、兄弟は姉妹と同居が通常である。鏡の編年についても、443年では合わないという積極的な理由はない。503年節は、いずれにしても文献学的にはあまり学問的な議論とは言えない。

意富富杼王については、その后の中斯知命は大后の中蒂姫のこととされており、その子の平非王は、伯母も大后の忍坂大中津姫であることから、大王の有力候補となる。具体的には、雄略の次の清寧の可能性が高い。清寧の真陵は、年代的にどう見ても古市古墳群(息長系氏族墓)の前の山古墳である。この古墳は、継体の真陵である今城塚古墳とほとんど同じ大きさである。そのあたりをもう少しきちんと検討して、継体の問題を整理する必要がある。

ミヤ(御屋)の原義は「建築物」そのものです。古事記・日本書紀・風土記には、和知都美命の淡路御井宮、菟道稚郎子の菟道宮、押磐皇子の市辺宮、弘計・億計の柴宮、押坂彦人大兄皇子の水派宮、穴穂部皇子の宮、厩戸皇子の上宮・斑鳩宮など、多くの王子宮の存在が記されており、「大王あるいは大后の居住地のみが宮」という貴殿の主張は正しくありません。また、こうした宮は一代限りのもの(いわゆる歴代遷宮)ではなく、本質的に伝領される性格を有していたことは既に論証されています。忍坂の地が永らく息長氏の流通・政治拠点であったことは、当地に舒明陵があることからも分かるように、異論のないところです。
「通常の観念」とは何でしょう? 倭王権の擁立した東城王を排斥して即位した武寧王が、倭との修交関係の維持を図り、倭系渡来人を遣わして鏡を作らせたと思われます。王号がないのは、その目的から形式上従属的な態度を表したまででしょう。
503年説以上に、443年説には問題が多いかと思います。ヲオト(男弟)はヲホト(小ホト)に近く、オホホト(大ホト)と同一視することは無理があります。なお、意富富杼王はその名から本来継体の兄であったと考えるのが妥当で、応神~継体を接合する際に系譜に架上された人物でしょう。忍坂大中姫もナカツヒメ原理に従って創作された人名とする説があります。また、「中斯知命=中蒂姫」説も上宮記の用字から見て適当とは思われません。443年説を主張するには、帝紀批判を十分行った上で、これらの人物の実在性を支持する論拠が求められます。この点において、503年説は今日まで実在に異論のない継体を論の中心に据えており、443年説以上の説得力を持っているのです。貴殿は「文献学的にはあまり学問的な議論とは言えない」として503年説を退けられますが、同時代銘文を後世の文献に短絡させることこそ文献学的な議論ではないと思います。125.2.91.34

503年という事は、武烈天皇が存命中ですから、百済の男弟王と見るのは無理があるのでは。利用者:マカロニサラダ 2006.7.15(土) 12:10 (UTC)

個人の主観や校閲されていない文章の投稿について[編集]

『上宮記』が乙巳の変以前、推古朝前後に編纂されたことは、横田健一(「記紀の史料性」)、黛弘道(「継体天皇の系譜について」、「継体天皇の系譜についての再考」)、西條勉(「『逸文上宮記』の「一云」とヤマトタケル大王系譜」)、下鶴隆(「聖徳太子伝の史料的性格--宗教的テキストの生成・流伝形態--」)などの複数の研究者が支持しており、『福井県史』といった自治体史も定説としているのにも関わらず、利用者:240B:250:5020:6E00:F0FC:9313:B65F:4DC0は、根拠も示さず、個人的な感情を根源にしていると思われる身勝手な編集でWikipediaの方針にそぐわない記事を掲載し続けるのは止めるべきだと思います。

また、大勢の人が閲覧するのにも関わらず、冗長で読み直しもしていないような文章を投稿し続けるのもWikipediaの方針に適さないので止めるべきだと思います。 学者気取りの先頭はここで終わり!会話2022年1月27日 (木) 13:15 (UTC)[返信]

上宮記が、推古朝までさかのぼる可能性があるのは、読んだことありますが 編纂者や時代は分からないっていうのは間違ってないと思ってます。 あと、 「上宮記一云」にはすべて記されているという点で、貴重な史料であるというふうに言えます。 ただ、この「上宮記一云」があるからと言って、本当にこれがすべて事実なのか? どうかという点はまだ検討の余地があろうかと思われます。 枚方市文化財研究調査会『継体大王とその時代』(和泉書院)P170 みたいに、上宮記の系譜自体が事実なのか?も不明です。

継体天皇が簒奪者である可能性は、「歴代天皇全史 学研」210ページに 「応神天皇の5世孫とあるが、実際は地方の豪族で、皇嗣がいなかった武烈天皇没後の大和朝廷の混乱に乗じて 皇位を簒奪したという見方がある」 ってあります。 ネット上では、 「その即位事情は極めて異常で,実は,前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質により大王となったと考えられる。」 朝日日本歴史人物事典 「地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。」 日本大百科全書(ニッポニカ) 簒奪者、および遠い傍系にせよ、併記した方が良いと思っています。削除は良くないと思ってます。 --240B:250:5020:6E00:3071:713C:FB69:3635 2022年1月27日 (木) 15:52 (UTC)[返信]

『上宮記(一云)』の編纂者は不明のままで記事に残していますし、用語法的に推古朝前後以外とすることはできないと「検討」の結果明らかにされていますよね。(関根淳の『六国史以前 日本書紀への道のり』など) また、「『上宮記(一云)』のこういう記述が『上宮記(一云)』の他の記述や考古学、当時の常識的に明らかに矛盾しており信用できず事実と見なすことはできない」と詳しく指摘するのではなく、「孫引きしてるし逸文だしなんか信用できないから事実じゃない」と主張するのは、記紀の真実性を信用せずに偽書とする人達と同じ論法です。

簒奪者とする説は、「〜という見方がある、〜とする見解が有力である」というような曖昧な書物でなく、ちゃんとした研究者の論文を根拠とすれば記載しても良いと思います。

学者気取りの先頭はここで終わり!会話2022年1月28日 (金) 02:34 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。 黛弘道氏の説を長文で書いているので、同じように岡田精司氏や直木孝次郎氏の説を注釈ではなく、ある程度の長文で書いても全く問題ないでしょう。 ★大和入り出来なかった。自分から入らなかったのか?妨害されて入れなかったのか?は不明です。 ★簒奪説があること。 ★系譜が不明である。 なのは事実なので、直しておきます。 上宮記が、推古朝にさかのぼる可能性があるものの、いつ誰が書いたのか不明であり、その系譜が正しいのか?も不明なのも事実です。 Wikipedia:中立的な観点中立的な観点 は、ウィキペディアの根本的な方針の一つです。記事の削除は良くないと思ってます。 --240B:250:5020:6E00:113E:AA46:E5C3:F2AE 2022年1月28日 (金) 13:09 (UTC)[返信]

継体天皇の出自については「上宮記」が推古朝に遡ること自体にその資料的価値があると思われます。すなわち、原帝紀と極めて近い時期に編纂されたということは原帝紀の内容と極めて近い内容であると判断され得るからです。この際、「いつ誰が書いたか」の詮索については原帝紀を「いつ誰が書いたか」と詮索するようなものであまり意味はないでしょう。原帝紀は伝承文学なのでいつ誰が書いか特定できないものです。--大伴旅人会話2023年8月2日 (水) 08:17 (UTC)[返信]
その通りだと思います。
あと、黛も認めているように、
「だからといって上宮記の系譜を信じてよいかどうかは別問題であり、問題は依然未解決というべきであろう。」
という部分は無視することは出来ないと考えます。
つまり、系譜が正しいのか?どうか分からないのは事実です。
水谷が指摘してるように、『上宮記』が当時存在した別系統の某記に拠った史料である。
つまり、編纂者不明の某記の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる。
という指摘も重要だと思います。
信憑性において、重要でしょう。--物部天照比古会話2023年8月3日 (木) 15:11 (UTC)[返信]
論理的に言って薫氏のこの部分の発言はおかしいのではないでしょうか。「上宮記」の記事が記紀よりも古いことが確認できたことはその信憑性が高まったということです。そのことは薫氏本人も認めています。そのことと「だからといって上宮記の系譜を信じてよいかどうかは別問題であり、問題は依然未解決というべきであろう。」という感想は正反対のものであり、また根拠も示されていません。したがって該当箇所は薫氏の私的感想が書かれたものに過ぎないと判断され得ると思います。水谷氏も上宮記記が別系統の史料とは言ってますが、それを元に上宮記の信憑性を否定するようなことを書いてませんよ。「つまり、編纂者不明の某記の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる。」この部分は本当に水谷氏の記述にあるものでしょうか?。とにかく、最近においても上宮記の資料性を否定するような説は出ていないのが現状です。--大伴旅人会話2023年8月4日 (金) 11:32 (UTC)[返信]
黛弘道「継体天皇の系譜について」P13 に「だからといって上宮記の系譜を信じてよいかどうかは別問題であり、問題は依然未解決というべきであろう。」と書いてあり、記紀よりも古いので信憑性が高まったのは事実ですが、系譜が正しいのか?どうかは別問題というのは黛の主張通り、正しいでしょう。事実、系譜が正しいのかは判明していません。
例えば、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』における系譜は、上宮記とは違います。
水谷は、こう書いてあります。
謎の大王 継体天皇 P65-66 長くなりますが
「『上宮記』に曰く・・・・・・」ではなく、「『上宮記」に曰く、一に云ふ・・・・・・」とあることから、元来は別の史料にあっ たものを『上宮記』が引用し、さらにこれを『釈日本紀』が引用しているという、いわば二重に引用された所伝であることがわかる。
言い換えると、「『上宮記』に曰く、一に云ふ・・・・・・」以下の所伝は『上宮記』成立時に既に存在した、これとは別系統の史料なのである。
この『上宮記』という書物については、いつごろだれによって書かれ、どのような内容の書物であったのか、詳しいことはよくわかっていない。名前からすると、上宮太子、すなわち聖徳太子に関係する書物の可能性がある。これまで聖徳太子の伝記とする説や聖徳太子の書いた 書物とする説などがあるが、どれも推察の域を出るものではない。
となっています。大意では合っています。
東京大学教授の大津透が天皇の歴史1 神話から歴史へ(2017年)のP125-132で指摘してるように欠史八代のような創作と思われる天皇群が存在します。
また大津は神功皇后説話の成立が7世紀頃としています。
応神は実在性が怪しい人物です。書紀に皇居の位置や王陵の場所が書かれておらず、応神の説話も実在性がありません。
父親の仲哀天皇、母親の神功皇后も実在が疑われています。
従って、継体の応神5世はそこで崩れます。実在しないのですから。
それと、上宮記に記載されているのは、凡牟都和希王(ホムツワケ)であり、ホムタワケ(誉田別、応神のこと)とは別人でしょう。別の名前です。--物部天照比古会話2023年8月4日 (金) 14:42 (UTC)[返信]
とにかく全く出典が書いてありません。
何処の大学教授、歴史学者が言ってる説なんでしょうか?
出典が無い記事は、ウィキペディアの方針により削除しなければいけません。出典を明記するをご覧ください。
一定の期間は与えられますが、出典を出せない場合はウィキペディアの方針によって削除となります。--物部天照比古会話2023年8月6日 (日) 15:32 (UTC)[返信]

それではその部分は戻しますね。 学者気取りの先頭はここで終わり!会話2022年1月28日 (金) 14:54 (UTC)[返信]

すでに否定されている1950年代~1970年代の学説を本文に長々と述べているのは本ページ事態を極めて読みにくしているので別に移すか削除した方がいいと思います--大伴旅人会話2023年8月2日 (水) 08:09 (UTC)[返信]
出自を巡る議論で紹介する説は古くても1980年代以降の説にしたほうがいいと思います。
すでに否定されている1950年代の説を新しい説と併記しているのは読者に誤解を与えかねないと思います。--大伴旅人会話2023年8月2日 (水) 08:36 (UTC)[返信]
黛弘道「継体天皇の系譜について」は1968年で1960年代になりますが。
この説は採用しないと言う事でしょうか?--物部天照比古会話2023年8月3日 (木) 15:14 (UTC)[返信]
薫氏の系譜についての説はその後の説にも引き継がれていってますので問題ないのではないでしょうか。--大伴旅人会話2023年8月4日 (金) 11:35 (UTC)[返信]
直木孝次郎の説は、10年少し前の2009年に「直木孝次郎 古代を語る〈6〉古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ 」で出版されてますし、現在でも新品が販売されています。--物部天照比古会話2023年8月4日 (金) 14:50 (UTC)[返信]
出版年でなく最初にその説が提示された年をみないと議論の時系列がわからなくなると思います。--大伴旅人会話2023年8月8日 (火) 05:29 (UTC)[返信]
黛弘道は1960年代に発表された説です。
現在、黛弘道の本は出版されているんですか?
聞いたことありません。
直木孝次郎の本は、現在、新品で出版されてます。
つまり、現代でも通用すると言う事です。--物部天照比古会話2023年8月8日 (火) 16:38 (UTC)[返信]
反論出来なくなったからと言って、要検証とか、疑問点とか貼るのは、あまり良くありませんね。
出自を巡る議論で紹介する説は古くても1980年代以降の説にした方が、良いと自分の方から言っておいて、直木孝次郎教授・博士の本が、現在でも新品で販売されている。と指摘したら、反論出来なくって、要検証とか、疑問点ですか?
第一、貴方の出している参考資料としているのは、「 最新研究でここまでわかった 天皇家通説のウソ 2020 日本史の謎検証委員会 彩図社」とかです。
何処の誰が書いているんですか?大学教授の名前は誰ですか?
それと永井津記夫のソースはどうしましたか?--物部天照比古会話2023年8月9日 (水) 14:11 (UTC)[返信]
了解。削除します。--大伴旅人会話2023年8月10日 (木) 07:30 (UTC)[返信]

独自研究は載せない(Wikipedia方針)[編集]

該当箇所:「===== 継体天皇の応神五世という出自が疑わしい点のまとめ =====」の項目全体

引用の説はすでに既出であり、かつこれらを総合して「出自が疑わしい」と結論付けているのは独自研究ではないでしょうか?--大伴旅人会話2023年8月9日 (水) 04:16 (UTC)[返信]

貴方が削除したが、もともとは貴方が、
出自を巡る議論 まとめ を書いて、
「現在では古いタイプの王朝交替説や皇位簒奪者説はおおむ否定されていて、継体天皇は「王族」の出身であるという考え方が歴史学でも考古学でも主流になっている。」
などと、出典の無い記事を書いたので、こちらも反論せざるを得なくなっただけです。
今は、貴方は、出典の無い記事を丸ごと削除したから、
私の方も 「継体天皇の応神五世という出自が疑わしい点のまとめ」
の記事を全削除しても良いが、如何ですか?--物部天照比古会話2023年8月9日 (水) 14:31 (UTC)[返信]
お願いいたします。
ルールと方針を理解してませんでした。
以後、気を付けます。--大伴旅人会話2023年8月10日 (木) 07:31 (UTC)[返信]
合意形成出来てよかったです。
こちらも削除します。--物部天照比古会話2023年8月10日 (木) 21:54 (UTC)[返信]
ありがとうございます--大伴旅人会話2023年8月13日 (日) 00:42 (UTC)[返信]

記事の重複かつ独自研究に該当するのでは?[編集]

該当箇所:「だが、簒奪した説、血縁関係ではない説は現在でも記載、販売されて支持されており[2]、2023年現在、世界大百科事典(最新版の2007年版)でも王朝交替説が記載されている。」

王朝交替説の存在についてはすでに述べられており、内容的に重複するものと思われます。また2007年版が2023年も出版されていることと、その説が現在どのような立ち位置にあるかは異なる問題です。いずれにしろ概略の項目にあるのは違和感を感じます。--大伴旅人会話2023年8月9日 (水) 04:09 (UTC)[返信]

この件は、もともと、貴方が
「特に近年では、応神天皇から継体天皇までの系譜資料の発見や隅田八幡神社人物画像鏡銘文(後述)などの有力な考古学的資料の発見もあり王朝交代説の根拠はほぼ失われ、継体天皇は王族であったとする説が有力である。」
という記事を書いて、「 議論がある 」という記事を丸ごと削除したから、私が反論で書いただけです。
貴方は、自分が書いた記事を削除したから、
「ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。一方で、傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声もあって、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論がある(後述)。」
こんな感じで、もともとの公平な記事に戻すのなら、貴方が問題にしている記事を全削除しても良いですが、如何ですか?
私は、貴方と揉める意図は無い。
勝手に、記事の大量削除をしたので、反論しただけです。--物部天照比古会話2023年8月9日 (水) 14:38 (UTC)[返信]
了解いたしました。
ルールと方針をよく理解してませんでした。記事の大量削除は申し訳ありませんでした。
以後、気をつけます。--大伴旅人会話2023年8月10日 (木) 07:34 (UTC)[返信]
ご指摘のような感じで記事を訂正いたしました。
ご確認ください。--大伴旅人会話2023年8月10日 (木) 07:47 (UTC)[返信]
ありがとうございます。
自分は、「継体は血縁無い派」の人間ですが、「血縁ある派」の意見をどんどん載せる事は良い事だと思ってます。
なので、歴史学者の反対意見を載せるのは賛成です。
継体天皇は一番好きな天皇なので、周りから注目されるのは、嬉しいです。--物部天照比古会話2023年8月10日 (木) 21:49 (UTC)[返信]
ありがとうございます
了解いたしました。またよろしくお願いいたします。--大伴旅人会話2023年8月13日 (日) 00:43 (UTC)[返信]
自分は、一応、「 継体は血縁が無い説 」の側に立ってますが、「 血縁がある説 」の記事は尊重しますし、勝手に削除した事ありません。
繰り返しますが、私は、以前の状態の公平な記事に戻すなら、貴方が問題にしてる記事 概略 と 継体天皇の応神五世という出自が疑わしい点のまとめ を 削除しても構いません。
合意形成出来ることを、信じています。--物部天照比古会話2023年8月9日 (水) 15:01 (UTC)[返信]
了解いたしました。合意でお願いいたします。--大伴旅人会話2023年8月10日 (木) 07:37 (UTC)[返信]
ありがとうございます。--物部天照比古会話2023年8月10日 (木) 21:49 (UTC)[返信]
こちらこそ--大伴旅人会話2023年8月13日 (日) 00:44 (UTC)[返信]
福岡猛志、和田萃は、書籍を読めば、明らかに、王朝交替の新王朝説の学者で応神5世説の側に入れるのはおかしいです。学者の数を水増ししてるようなものです。削除すべきと考えてます。また、和田晴吾は血縁による王権継承の説明をしていないのに、応神5世説と扱うのはどうですか?近年では佐藤長門教授が著作(日本古代王権の構造と展開 2022)で指摘してるように、古墳の形状が似ているのは血縁関係が有ることを意味していません。
あと、倭の五王の血縁関係ですが、引用していた書籍を調べましたが(ヤマト王権(岩波新書)吉村武彦 2010)
正確な文面はこうです。
「宋書」によれば済の姓も「倭」であり、倭の五王はすべて「倭」姓を名のっていた。
宋からみれば、五世紀の倭国王は「倭」という同一姓の氏族集団であり、同じ父系的氏族と想定するしかない。 P98-99
吉村は、宋はおそらく同じ父系的氏族であろうと認識していたと想定する事できる。って書いているだけで、宋が実際に父系的氏族だと認識していた証拠を出していませんし、倭の五王の全員が血縁が有ることを証明していません。つまり、吉村説が正しいという証拠は有りません。大伴旅人会話)さんは、ここのページ数を出して、倭の五王が血縁関係があることを強調しておられるが、そのような証拠は全く無いことを指摘しておきます。--物部天照比古会話2023年9月10日 (日) 01:20 (UTC)[返信]
竹田恒泰の計算がおかしいのでは?
伊久牟尼利比古(垂仁天皇) ─ 凡牟都和希(ほむたつわけ) ─ 若野毛二俣 ─ 大郎子(意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)であるから、父親の汙斯王(彦主人王)は垂仁の四世孫ではなく五世孫になる。継体は垂仁の六世孫となります。
それから、古代の系譜は、山尾幸久教授や和田萃教授が指摘してるように、信仰的、政治的な派閥や、伝承上のものであって、史実では無いとされます。
また、女性である振媛の方が齢を若くして結婚するので、少し世代交代が早くなるのは当然と言えるでしょう。--物部天照比古会話2023年9月10日 (日) 15:33 (UTC)[返信]

疑問点について[編集]

・応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」の「『釈日本紀』の「上宮記」以外の『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』には、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀(上宮記)のとは異なる系譜が載っており、違いが生じている」として系図を三つ載せている部分ですが、水谷氏の該当文献における同頁での主張ではこちらの方が「現在でもこの所伝が一体何に基づいているのか、全く想像できない」(221頁)とし「長く誤り伝えられてきた」(222頁)のは「水鏡」等に載る系譜の方で「1939年(昭和14年)になって瓜生甚之氏が「継体天皇祖考」という書物を著し、改めて「上宮記一伝」の正しさを強く主張した」(222頁)として「上宮記」の方こそ正しい資料であると述べており、「上宮記についても信憑性に疑いがある」というような文脈で述べておられません。ご確認ください。--大伴旅人会話2023年9月26日 (火) 02:21 (UTC)[返信]

上宮記についても信憑性に疑いがあるとしているのは、井上光貞氏、山尾幸久氏、直木孝次郎氏などの歴史学者です。
水谷千秋氏は、確かに2001年の書籍では「上宮記一伝」の系譜が正しいと考えていたようです。
自分が書き加えた記事の水谷氏の記事(2015年の書籍)では、水谷氏は五世紀における大王家は、未完成であり、誰が次の大王になるか?分からなかった。というのが学界では通説になっている。と書いています。
水谷氏からの書籍の引用が適切では無いと言うなら、そこを削除します。ただ、前述のように水谷氏も「上宮記」の系譜が正しい根拠を全く提示出来ていないのは明確に指摘しておきます。最新の大学教授や歴史学者の見解も同様です(2022年、人物で学ぶ日本古代史 1: 古墳・飛鳥時代編など)系譜が正しいのかは、分からない状態です。
いずれにせよ、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の系譜が「上宮記一伝」と食い違いがある事実は消えないです。もし「上宮記一伝」の系譜が正しいとすれば、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の系譜は誰が作ったのでしょうか?同様に「上宮記一伝」の系譜が正しい証拠などありません。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:02 (UTC)[返信]
学会の通説を述べていることと水谷氏が「上宮記」について加えた検証は別の話しだと思います。
水谷氏は系譜の別系統の資料があることをもって「上宮記」に信憑性がないとは述べていません。水谷氏の記事をもってきてそのように結論付けるのはあなたの独自解釈、独自研究に当たりませんか?。
「別系譜の資料があるから「上宮記」は信頼できない」と述べている人の説を引用するのが正しい資料の使い方だと思います。--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:58 (UTC)[返信]
自分も水谷氏の本はかなり読んでるつもりですが、水谷氏は、都合の悪いことは、書かないようにしてると思います。
具体的に、応神は非実在である説とかが、存在するのに関わらず、自分の著作の中では取り上げないようにしています。
直木孝次郎教授が明確に指摘されているように、応神天皇の宮や王陵の位置が記載されていない。
これは、実在派にとっては致命的な部分であり、これについて反論してる著書を見たこと無いです。当然、水谷氏も書いてないです。
さらに応神の両親の仲哀天皇や神功皇后も実在を疑われていますが、水谷氏は著書では、触れないようにしてると思います。
応神実在説にとっては致命的でしょう。両親が居なくて、どうして応神が生まれるんですか?
当然「上宮記」の都合の悪いことは書かないでしょう。
繰り返してますが、自分は出典として、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』と言った書籍名も挙げて、さらに原文まで記事に載せています。出典内容としては文句の付けようのないレベルで十分でしょう。--物部天照比古会話2023年10月3日 (火) 15:43 (UTC)[返信]
それはあなたの見解であって、水谷氏が「都合の悪いことは、書かないようにしてる」とは述べてませんよね。
さらに水谷氏は「長く誤り伝えられてきた」(222頁)とは述べていないうえに、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の系譜の方が「長く誤り伝えられてきた」(222頁)と述べているわけですから、その水谷氏の説を引き合いに出して「「上宮記」に信憑性がない」という編集はWikipediaルールの「中立的な観点」及び「独自研究は載せない」に反していませんか?--大伴旅人会話2023年10月4日 (水) 14:18 (UTC)[返信]
なんで、水谷氏本人が、自分は都合の悪いことは書かないって言うのでしょうか?
自分は、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の記事において、ウィキペディアの史料出典の条件を満たしている。と述べているだけです。--物部天照比古会話2023年10月4日 (水) 20:38 (UTC)[返信]
>なんで、水谷氏本人が、自分は都合の悪いことは書かないって言うのでしょうか?
あなたが言ったことですよ?
>自分は、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の記事において、ウィキペディアの史料出典の条件を満たしている。と述べているだけです
水谷氏はそれをもって「「上宮記」に信憑性がない」とは述べていません。そのような編集は中立性を欠いた独自研究に当たりませんか?、という指摘です。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 11:44 (UTC)[返信]
水谷氏はそのように述べているようですが、上宮記の信憑性は証明していませんし、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』で異なる系譜が書かれているのも事実です。--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 22:15 (UTC)[返信]
それならば上宮記の信憑性に疑いを示している研究者の説を引用すべきです。
引用元の書籍を読めばわかるはずですが、水谷氏は「水鏡」等の異なる系譜の方に疑惑を抱いています。本人の意図を歪めた記事の引用のしかたは中立性を損なう独自研究にあたりませんか?--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:15 (UTC)[返信]
よく読んでください。
水谷氏の書籍は引用してないです。
『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』で異なる系譜が書かれているのはれっきとした事実であり、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の書籍名と原文まで、正確に引用にしています。
何処に独自研究が含まれているのでしょうか?お答えください。
余程、上宮記と異なる系譜の記載が都合が悪くて、消したいのでしょうか?
質問ですが、なんで複数の系譜が存在するのですか?お答えください。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:03 (UTC)[返信]


・「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」の「大津透は、継体の祖先の凡牟都和希王(ホムツワケ)と、応神が別人とする系図を載せており上宮記について、全て史実ではないが、七世紀の古い伝承の系譜らしい。としている。」という文章ですが、該当文章の引用元となっている「神話から歴史へ」の該当項の結論は「この一族が有力な皇族であったことを示している」であり、「継体が越前・近江から突然入って王権を簒奪した豪族だと考えるのは誤りであろう」となっており、大津氏は「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」との主張はしておりません。系図についても「応神が別人とする系図」という主旨の記述はどこにも見られないのですが、ご確認ください。--大伴旅人会話2023年9月26日 (火) 01:53 (UTC)[返信]

確かに大津氏は傍系寄りですし、簒奪説にも否定的です。
しかし、121ページに応神の母の神功皇后伝説が7世紀の成立であるとの説を採用しています。
応神の母の神功皇后が創作だとすれば、応神天皇が誕生する事はありません。
また、191ページには、自分の所持する書籍には凡牟都和希王と応神天皇が別人である系図が載っています。
井上光貞氏による。と記載されてますが。
この論点で、自分は貴方と争う気は無いですので、疑問があるとする大津氏の記事は消します。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:20 (UTC)[返信]
了解しました。--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:53 (UTC)[返信]


  • 竹田恒泰の計算がおかしい件について

上宮記の系譜の世代を計算すると、伊久牟尼利比古(垂仁天皇) ─ 凡牟都和希(ほむつわけ) ─ 若野毛二俣 ─ 大郎子(意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)であるから、父親の汙斯王(彦主人王)は垂仁の四世孫ではなく五世孫になり、継体は垂仁の六世孫となるはずです。明らかに計算間違いです。

>この部分は竹田氏が水口氏、塚口氏の説を引用して述べたものです。私も確認してみましたが、たしかに数え間違えているのかもしれません。--大伴旅人会話2023年9月24日 (日) 00:53 (UTC)[返信]

有難う御座います。
明らかにおかしいと思いました。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:07 (UTC)[返信]


  • 上宮記の系譜の信憑性に疑いがあるのは間違いないことです。

『水鏡』『神皇正統記』『愚管抄』といった書物には、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、上宮記とは明らかに異なる系譜が載っています。また、山尾幸久が主張しているように、「古代の系譜というのは、始祖の共有、観念でまとめられた信仰的、政治的な派閥であって、有力な系譜に自分達の系譜を繋いでいくので、血が繋がっているか、全く分からない。」と指摘があるように、系譜が信用出来ないのは事実です。 上宮記研究の第一人者の黛弘道も、記紀以前に造られたのは間違い無いだろう。と推定していますが、系譜自体が正しいのか?どうかは、別問題であり、未解決である。と認めざるを得ない状況となっています。「黛弘道 継体天皇の系譜について 釈日本紀所引上宮記逸文の研究」より

>「血がつながっているかわからない」と「系譜の記事が信用できない」のはまた別の問題です。山尾氏は古代人が擬制としての系統も血統ととらえていたと言っているわけで、「上宮記」の記事自体を否定しているわけではありません。黛氏の論述は氏の研究した時点ではその内容は未解決であると言っているだけで記事の内容が正しいとも間違っているとも言っているわけではありません。--大伴旅人会話2023年9月23日 (土) 08:49 (UTC)[返信]

>『水鏡』『神皇正統記』『愚管抄』の所伝の方ですが、水谷氏はこちらの方こそ「現代でもこの所伝が一体何に基づいているのか全く想像できない」(221頁)と述べられています。信憑性に疑いがあるのはこちらであると言っているのではないでしょうか。--大伴旅人会話2023年9月23日 (土) 09:04 (UTC)[返信]

確かに水谷氏は2001年の書籍ではそう書いてます。
ですが、最近読んだ2015年の書籍で、水谷氏のコメント記事が書いてあり、結構面白い事をおっしゃってます。ご覧ください。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:23 (UTC)[返信]
その記事の中で水谷氏は2001年の記事に言及してそう述べているということですか?
あなたの独自解釈ではありませんか?--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:28 (UTC)[返信]


  • 武烈の悪行三昧の記事も、全く反論を提示出来てない状態です。

贅沢の限りを尽くして、民を苦しめて、妊婦の腹を裂いて、胎児を取り出したり、爪をはぎ、その手で芋を掘らせたり、人を木に登らせて、その木を伐り倒し、人が落ちて死ぬのを見て楽しんだり、女性を裸にして、馬の交尾を見せて。という残虐な記事で満ち溢れており、天皇の偉大な業績を記録する為の『日本書紀』に、このような記述があることは有り得ないのです。 --物部天照比古会話2023年9月13日 (水) 15:31 (UTC)[返信]

原典資料の内容に反論しなければならない理由は何でしょうか?
「このような記述はありえない」はあなたの意見ではありませんか?--大伴旅人会話2023年9月23日 (土) 08:51 (UTC)[返信]
百田尚樹氏の書籍からの引用です。継体傍系派の意見を参照しても、この武烈天皇の特異な記事には全く反論出来ていません。この事は明確に指摘する必要が有るでしょう。前王朝を貶める記事を書くのは、王朝交替が有ったと提唱する説があるのは事実です。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:25 (UTC)[返信]
百田氏の説ということですね。了解しました。--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:29 (UTC)[返信]
横レス失礼しますが、「天皇の偉大な業績を記録する為の『日本書紀』に、このような記述があることは有り得ない」というのは偏見でしょう。雄略天皇に対する「大悪天皇」という非難や、その兄安康天皇に対する后の寝取りと前夫殺害、出雲大神の神宝を献上しろと要求したせいで国造兄弟の争いや反乱に至った事件などなど。後代になると蘇我倉山田石川麻呂を讒言で自害に追い込んだ事例も出てきます。--Gama-gaeru会話2023年10月17日 (火) 03:52 (UTC)[返信]
ご指摘のとおり「日本書紀」には天皇にとって不都合な記事も多く見られます。これは日本書紀が必ずしも「天皇の偉大な業績を記録する為」に編纂されたとは言い難い面をもっていることの証左であり、何らかの歴史的事実ないし伝承をそのまま載せようとしていた意図の現れである可能性もあると思います。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:19 (UTC)[返信]
また水谷氏の説を引用して「応神五世ではなく血縁関係はないとする説」に該当文章の記事を挙げて
「この記事の背景には、血縁関係が薄く本来は皇位継承の立場に無い継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたのではないか、とする説がある」
と書かれてますが、ここでも水谷氏は「血縁関係はない」と言っているわけではありませんね。「応神五世という遠い傍系の王族である継体が即位したことを正当化するため」(64頁)と「応神五世」を認めた記述があることは「応神五世ではない説」には該当しないのではないでしょうか?。--大伴旅人会話2023年9月24日 (日) 00:05 (UTC)[返信]
2015年の書籍で水谷氏は、五世紀における大王家は、未完成であり、誰が次の大王になるか?分からなかった。というのが学界では通説になっている。と述べているので、2001年の水谷氏の書籍では見識が古い可能性があります。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:52 (UTC)[返信]
その部分ではそうなのかもしれませんが、引用部分ではそうは述べていないので資料の引用の仕方が不正確だと思われます。また「学会では通説となっている」と述べていることと本人の見解は違います。本人が「私も学会の見解と同じだ」という見解を述べている箇所を引用すべきではないのでしょうか?--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:35 (UTC)[返信]


・対象箇所:「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」の中の「編纂者不明の某記の継体系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる。」 という文章ですが、「上宮記」の信憑性に疑いをもたせるような文章となっていますが、該当図書の該当ページの文章を確認しましたが、「二重に引用された所伝」であることを客観的に伝えているだけで、その信憑性を疑うような文章ではありません。むしろ筆者は100頁にて「「上宮記」の系譜はおおよそ信じられる」と述べています。--大伴旅人会話2023年9月13日 (水) 06:22 (UTC)[返信]

確かに水谷は、応神五世の傍系王族派です。
ですが、当該ページに
「『上宮記』に曰く・・・・・・」ではなく、「『上宮記」に曰く、一に云ふ・・・・・・」とあることから、元来は別の史料にあっ たものを『上宮記』が引用し、さらにこれを『釈日本紀』が引用しているという、いわば二重に引用された所伝であることがわかる。
言い換えると、「『上宮記』に曰く、一に云ふ・・・・・・」以下の所伝は『上宮記』成立時に既に存在した、これとは別系統の史料なのである。
この『上宮記』という書物については、いつごろだれによって書かれ、どのような内容の書物であったのか、詳しいことはよくわかっていない。名前からすると、上宮太子、すなわち聖徳太子に関係する書物の可能性がある。これまで聖徳太子の伝記とする説や聖徳太子の書いた 書物とする説などがあるが、どれも推察の域を出るものではない。
と書いているのは事実であり、また、実際、誰が書いているのか?分からないのも、事実であることを指摘しておきます。
明らかに新王朝派の和田萃を応神五世または皇統に属する人物とする説に入れているので、
水谷を応神五世の傍系王族派と明記しておきます。--物部天照比古会話2023年9月13日 (水) 14:44 (UTC)[返信]
別系統の資料であることを述べていることとその資料自体の信憑性に疑いをもつことはまた別の話しですよ。誰が書いていたのかわからないとしながらも水谷氏はその成立過程について検討を加えてますよね。
またこの成立過程の記事を「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」に引用されてますが、水谷氏はこれをもって資料の信憑性を否定したり応神五世を否定したりするようなことは述べていませんよ。記事の使い方が「中立的な観点」に欠けるのではないでしょうか?--大伴旅人会話2023年9月23日 (土) 08:58 (UTC)[返信]
「そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して皇位を簒奪したとする説も出た」
これは水谷氏の説ではないし、「皇位簒奪」とは書かれてありませんよ。大和盆地内に継体擁立に抵抗する勢力があった述べられているだけです。

以降、継体の宮の分析や抵抗勢力、磐井の乱などの水谷氏の説が引用されていますが、水谷氏は継体天皇のこれらの背景を分析しているだけでこれらの記事をもって「応神五世では無く、血縁関係は無い」とは一言も述べておられませんよ。 「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」にあるのは不適切ではないでしょうか。 --大伴旅人会話2023年9月24日 (日) 00:10 (UTC)[返信]

大和入りが19年もかかった記事の箇所を書いたのは、自分ではありません。
その時は、ウィキペディアやってないです。
もし、不適切だと考えるなら、他の歴史学者からの引用にしましょうか?
大和入りに時間がかかったのは、多くの歴史学者が指摘してる箇所です。
ただ、他人様が書いた立派な記事を、自分が削除して書き直すのは、忍びないし、水谷氏も、2015年の書籍で、五世紀代の大王家では世襲が確立しておらず、誰が次の大王になるか?分からなかった。というのが学界では通説になっている。と書いています。水谷氏も認識が変わってきてるようですので、出来れば、この記事のまま、行きたいというのが、希望です。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:33 (UTC)[返信]
本来ならば大和入りに時間を要したことを以て「継体は応神天皇後裔ではない」という説を述べている人の文章を引用すべき箇所だと思います。ご希望の気持ちも分かりますのでもう少し引用資料に忠実な記事にされることをおすすめいたします(書籍が異なりかつ内容も異なる見解についてははっきりと分けて書くべきかと思いますが)。--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:41 (UTC)[返信]
井上光貞教授や直木孝次郎教授も、指摘しているので、出典に追加しました。--物部天照比古会話2023年10月3日 (火) 15:09 (UTC)[返信]
すみませんが、指摘した水谷氏の記事はやはり「応神五世では無く、血縁関係は無いとする」としては不適当だと思われます。引用元の記事や資料をその作者の意図に反して都合よく利用するのは独自研究にあたらないでしょうか?
私はあなたに指摘された和田萃氏の記事ははずしましたよ?--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:25 (UTC)[返信]
水谷千秋氏の記事は、血縁関係は無い。からは外しました。確認してください。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:09 (UTC)[返信]



・対象箇所:「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」の中の「このような点から『上宮記』逸文は、井上光貞などの歴史学者から信憑性に疑いを持たれている」 ですが、「はじめ井上氏は「上宮記」を後世の創作としたが、昭和49年の「日本の歴史」(小学館)の「飛鳥の朝廷」では推古朝遺文より後で藤原京木簡より古いことが確かめられた、と認めています」(「継体天皇は新王朝ではない」新人物往来社、56頁)という証言があります。--大伴旅人会話2023年9月13日 (水) 06:04 (UTC)[返信]

継体天皇は新王朝ではない 南原次男 1993年 に書いてあるとされてますが、こちらは
日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫)井上光貞 2005年から引用してます。
井上光貞本人が書いている書籍です。しかもこちらの書籍が新しいのです。全く問題は無いでしょう。--物部天照比古会話2023年9月13日 (水) 14:49 (UTC)[返信]
再版時の年をもってそれが最新の本人の説だとするあなたの資料の取り扱い方はおかしいと思います。一般的に学説はその学説が公表された時がその説の出された時であり(日本社会学会)、内容が大幅にリニューアルしているのでなければそれは単なる以前のコピーに過ぎません。本人が新しく書き直したものでもありません。一体何を根拠に再版時の年をもってそれが新しい学説だと主張されているのでしょうか?。--大伴旅人会話2023年9月24日 (日) 00:28 (UTC)[返信]
継体天皇は新王朝ではない 
南原次男
大正7(1918)年鹿児島県に生まれる。
陸軍士官学校卒。大東亜戦争従軍。
戦前の皇国史観を引きずってる可能性のある人物からの引用は良いのでしょうか?
南原氏の証言がそもそも正しいのか?疑問です。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:31 (UTC)[返信]
戦後の左翼史観の歴史学者の人達も多数おられます。これはあくまで多様な説の紹介ですので、その成否解釈は読み手によるものではないのでしょうか?。戦前生まれの人の説はダメということですか?--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:47 (UTC)[返信]
南原次男氏はそもそも歴史学者でもありません。
一般人です。
歴史学者の比較の対象になりません。
それと学説でもありません。
それとも、南原氏が、日本の歴史学界で認められている証拠でもあるんですか?
そもそも名前自体が知られてないと思いますが。
左翼史観の歴史学者というのは、貴方が勝手に決めているだけです。--物部天照比古会話2023年10月3日 (火) 15:14 (UTC)[返信]
そうなりますよね。歴史学者の史観をうんぬんしてその説を否定することは無益でしょう。人は生きている限りその時代の思想や風潮に何らかの影響を受けているものです。
読み手がその点を考慮すればいいだけで、その説自体を否定する根拠にはならないということです。--大伴旅人会話2023年10月4日 (水) 14:24 (UTC)[返信]
それ以前の話です。
何度も明確に指摘しているように、南原次男氏は一般人です。
歴史学者ではありません。
歴史学界からも評価を受けてないです。--物部天照比古会話2023年10月4日 (水) 20:40 (UTC)[返信]
南原次男氏は、旧軍の軍人で、そもそも歴史学者ですらないです。
そういう人物と、東京大学教授の井上光貞先生を比較して、南原氏の方が信頼出来るなどと判断するのは如何なものでしょうか?
ISBN(International Standard Book Number の略称)で、検索すると2005年で出てきます。
井上光貞教授の記述が古い可能性があるというのなら
南原次男氏の書いてる記事は、1930年代とかの皇国史観に基づいた記事である可能性を指摘しておきます。--物部天照比古会話2023年9月28日 (木) 15:10 (UTC)[返信]
再版の年次とその説が出された年次は違いますよね、という指摘です。再版があるからその説が新しいという根拠は何ですか?--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:44 (UTC)[返信]
では、一般人の南原氏の主張は戦前の皇国史観ですね。
もっと古い説という事になります。--物部天照比古会話2023年10月3日 (火) 15:15 (UTC)[返信]
質問にお答えください。
「再版の年次とその説が出された年次は違いますよね、という指摘です。再版があるからその説が新しいという根拠は何ですか?」--大伴旅人会話2023年10月4日 (水) 14:21 (UTC)[返信]
継体で王統が入れ替わってる説は、歴史学界では普通に述べられている事です。--物部天照比古会話2023年10月4日 (水) 20:42 (UTC)[返信]
質問とはまったく関係ない回答をされていますね。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 11:48 (UTC)[返信]
一般人の南原氏の主張は戦前の皇国史観に過ぎないという指摘には回答がありませんね。
そもそも、貴方の理論だと記紀が正しい説は、全て戦前の学説になるでしょう。--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 22:13 (UTC)[返信]
時代背景的に南原氏が戦前の影響を何らかの形で受けているのは事実ですが、そもそも時代背景の影響を受けない人がいるのでしょうか?。
戦前の影響のある人物は全て却下という基準はどのような基準に依拠していますか?。
「私の理論」というのがよくわかりませんが、「記紀が正しい説は、全て戦前の学説になる」になるというの非科学的な偏見ではありませんか?。そもそも記紀の内容が全て正しいと言ってるわけではありませんよ。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:34 (UTC)[返信]
「再版の年次とその説が出された年次は違う」なら、南原氏の説は、そもそも戦前の説ですよね?
そもそも貴方は、気に入らない歴史学者に、左翼史観の歴史学者の述べているようですが、それは東京大学教授の井上光貞博士の事を指しているのでしょうか?
南原氏は、旧軍の軍人であり、歴史学者でもなく、井上光貞東京大学教授とは、比較にするのがおかしいのは当然でしょう。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:16 (UTC)[返信]


・対象箇所:「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」の水谷千秋の項目全体について、

ー水谷千秋の該当文書では継体の即位は重要な転換点であったとしながらも、継体は応神の血統を受け継ぐ王族の出身(100‐101頁)と結論しています。「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」にこの水谷千秋の説が入っているのは間違いではないでしょうか。--大伴旅人会話2023年9月13日 (水) 05:29 (UTC)[返信]

応神五世または皇統に属する人物とする説に、新王朝派の和田萃を入れているので、
水谷を応神五世の傍系王族派と明記して入れておきます。--物部天照比古会話2023年9月13日 (水) 14:50 (UTC)[返信]
和田萃氏の記事ははずしました。--大伴旅人会話2023年9月24日 (日) 00:29 (UTC)[返信]


・対象箇所:「大橋は、継体が5世紀の大王となんらかの形で血が繋がる王族であったのか?全く分からない状態であるとし[13]、他の学者による継体の出自が、近江の豪族息長氏とする論調が強固である。と指摘を行っている。[14]」

たしかに大橋氏は章の冒頭で王族であったのかは「論の分かれるところとなっている」と述べてはいますが、最終的には「王族」説を支持する結論を出しています。(189頁)「ただ近畿中枢に直接基盤をもたない地方豪族が~」。 また、息長氏説についてとりあげたことは、著書全体や該当文章に続く文章でも明らかなように「息長氏出自説はもはや成り立たない」ことを述べるのが著者の真意であり、息長氏説を紹介する該当箇所のみを抜き出して強調することは著者の意図に反するとところと思われます。--大伴旅人会話2023年8月20日 (日) 03:56 (UTC)[返信]

了解です。
修正しました。
佐藤長門教授の書籍を入れました。
大橋のみの書籍ではバランスに問題あります。--物部天照比古会話2023年8月21日 (月) 14:54 (UTC)[返信]
確認させていただきましたが、該当資料の佐藤長門の「日本古代王権の構造と展開」は2009年2月1日の初版でした。また本項は議論を紹介する項ではなく、議論の経緯について紹介している項となりますので、佐藤長門氏の同資料を最新の見解として紹介する別の史料の出典が必要になると思われます。ご検討の程、よろしくお願いたします。--大伴旅人会話2023年8月22日 (火) 03:11 (UTC)[返信]
それだと、大橋信弥の「継体天皇と即位の謎」は2020年ではなく、正確には2007年初版になります。
しかし確かに仰る事は分かりますので、「最近」という語句は外します。--物部天照比古会話2023年8月23日 (水) 13:53 (UTC)[返信]
ご指摘の「継体天皇と即位の謎」については内容を「できる限り改定修正を加えた」(5頁)<新装版>であるため2020年の表記としましたが、学説の引用の記載方法に従って修正しました。
本項は「議論の経緯」について紹介している項であり、学説の紹介や議論においては初版年で記されないと正確な記事にならないため修正をお願いできないでしょうか。そうでなければ日本書紀でさえ最新の学説になりかねないと思います。
また佐藤長門氏の「日本古代王権と構造」を戦後の継体天皇に関する議論の中で位置づけている段三者資料が本来は必要だと思います。--大伴旅人会話2023年8月25日 (金) 05:26 (UTC)[返信]
了解しました。
佐藤長門の記事を、「議論の経緯」から外します。
大橋信弥が、傍系王族説支持者だったので、バランスを考えて入れようと思いました。
しかし、大橋も王族であったのかは論の分かれるところとなっている。と認めています。--物部天照比古会話2023年8月25日 (金) 12:13 (UTC)[返信]
大橋信弥氏の、継体は傍系王族だとする説は、全く証明されていません。大橋も、山尾幸久氏の地方豪族であった継体が畿内首長連合体に推戴を受け擁立された説を持ち出してます。(189頁)--物部天照比古会話2023年8月25日 (金) 12:26 (UTC)[返信]
私は大橋氏の説を紹介しているだけです。その説が正しいかどうかを私達が議論することはWikipediaの編修方針とは異なるのではないでしょうか?--大伴旅人会話2023年9月26日 (火) 02:39 (UTC)[返信]
>その説が正しいかどうかを私達が議論することはWikipediaの編修方針とは異なるのではないでしょうか?
全くその通りで、ウィキペディアでいくら書いても、歴史学界に影響は何も及ばさないでしょう。
仮に継体を傍系派の記事で統一しても、学界は違う別の判断をするかもしれないし、血縁無い派の記事で統一しても、同じように影響はしないでしょう。
以前も言ったように、自分は継体が好きなので、記事書いてるだけです。ウィキペディアの記事で学者の先生達が創る歴史学界の見識を変えれる訳無いです。
ですが、自分が調べてる限りでは、最新の歴史学界では、五世紀代の大王家では、血縁による世襲は確立しておらず、継体は仁徳系統とは別系統の人物であるとの見解が優勢であると思ってます。--物部天照比古会話2023年9月26日 (火) 14:39 (UTC)[返信]
あなたの見解もあなたの主張も理解しましたので反対意見に対しても公平中立的な編集をお願いいたします。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:36 (UTC)[返信]
勿論、していますよ。ご安心下さい--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:17 (UTC)[返信]


・対象箇所:出自を巡る議論の経緯の項目 「傍系王族であることを明らかにした」について

ですが、この項目の全ての論は末尾に記した出典に依拠しており、該当部分も出典資料185‐186頁の部分も要約して紹介したもので私の独自研究ではありません。--大伴旅人会話2023年8月14日 (月) 05:59 (UTC)[返信]

了解しました。大橋の書籍を見ました--物部天照比古会話2023年8月18日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
了解です。ありがとうございます。--大伴旅人会話2023年8月20日 (日) 03:58 (UTC)[返信]


・対象箇所:「*男大迹王が勢力を置いた近江北部から北西部にかけての製鉄遺跡(年代順)」の項目全体について

6世紀以降の遺跡については本ページの継体天皇とは関係ない遺跡であると思います。--大伴旅人会話2023年8月14日 (月) 23:52 (UTC)[返信]

『天川ダム障害防止対策事業に伴う発掘調査報告書:東谷遺跡』滋賀県教育委員会事務局文化財保護課他 2004
『斧研川荒廃砂防事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書:北牧野古墳群』滋賀県教育委員会 2003
などの高島の考古学的な調査により、継体が生存していた五世紀代の製鉄の可能性が指摘されています。 『続日本紀』の巻3、大宝3年(703年)「四品志紀親王に近江国の鉄穴(鉄鉱山)を賜う。」などの記事も、同報告書に記載されてます。
滋賀県の資料館で見れるかも知れないので、ご覧ください--物部天照比古会話2023年8月18日 (金) 14:36 (UTC)[返信]
指摘については了解しました。が、継体天皇とは関係ない年代の遺跡の詳細を記事にするのは記事全体が冗長になるし、誤解を招くので、遺跡名のみを記し、詳細はリンクで対処すべきではないでしょうか?
また、本記事の後に続く「中央への進出」についても「生涯」の記事と重複していて冗長で必要ないように思えるのですが、いかがでしょうか?ご検討をお願いいたします。--大伴旅人会話2023年8月20日 (日) 04:03 (UTC)[返信]
このままで良いと思います。
というのは、他の記事も重複して、冗長になっている記事が見受けられます。
具体的には、記紀が信用出来るとするとする記事、今城塚古墳の記事、鴨稲荷山古墳の記事など、何度も同じ内容が繰り返されてます。
遺跡に関しても、多少の説明は必要なので3行程度の説明は問題無いと考えます。--物部天照比古会話2023年8月21日 (月) 15:00 (UTC)[返信]
継体天皇陵については真陵と学説の陵があきらかに異なるため陵墓の紹介と考古学的な検証については分けた方がいいと思い、あえて重複を恐れず記事にしました。該当記事については記事内容は否定いたしませんが、個人的にはもう少し簡潔にまとめた方が見栄えがいいのではないかと思ったのでご提案させていただきましたが、了解いたしました。--大伴旅人会話2023年8月22日 (火) 03:48 (UTC)[返信]


・対象箇所:「継体にはすでに多くの子もいたが、手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(29代欽明天皇)を嫡男とした」

欽明天皇より先に安閑天皇と宣化天皇が即位しているので、欽明天皇が嫡男であったという記述に疑問を感じます。何か欽明天皇が嫡男であったという直接資料があったら教えてください。--大伴旅人会話2023年8月17日 (木) 06:56 (UTC)[返信]

この記事は自分ではありません。何週間か?放置して、出典が無かったら、要出典の部分は削除して良いと思います。--物部天照比古会話2023年8月18日 (金) 14:49 (UTC)[返信]
要出典の部分については、状況証拠からそのような説も一般的にありえるかなとは思えますが、ウィキペディア方針からすると「独自説」に該当するのではと思いました。個人的にはどちらかというと、「欽明天皇が嫡男」の根拠のについて知りたいのです。それとも編集者の方の恣意的な編集でしょうか。もし、何かご存知だったら教えてください。--大伴旅人会話2023年8月20日 (日) 04:09 (UTC)[返信]
「日本書紀」十七巻継体紀の本文に嫡男とありましたので、「疑問点範囲」を解除いたします--大伴旅人会話2023年8月21日 (月) 05:09 (UTC)[返信]

継体は傍系王族である派が、反論を出来ない論点について[編集]

  •  武烈天皇の悪逆非道の記事について、歴史学者(直木孝次郎教授 2009年)による、武烈で仁徳系統が終焉し、継体系統による王朝交替が有った事を示唆しているとの指摘がありますが、武烈の「贅沢の限りを尽くして、民を苦しめて、妊婦の腹を裂いて、胎児を取り出したり、爪をはぎ、その手で芋を掘らせたり、人を木に登らせて、その木を伐り倒し、人が落ちて死ぬのを見て楽しんだり、女性を裸にして、馬の交尾を見せて、、、。」という残虐な記事の意味の説明をしてる傍系王族派の説明を見たことがありません。これに関する反証が出来ないのはどういう事でしょうか?水谷千秋氏は血縁が薄かった継体の正当化ではないか?記紀では、遠い傍系と書いている。としていますが、直木孝次郎教授が指摘してるように、わざわざ中国の歴史書の王朝交替の記事を真似て書いた事に対する説明には全くなっていません。直木氏は、記紀編纂時、天皇の万世一系の思想が存在していたので、王朝交替が有ったことを、そのまま書けなかった。と指摘しています。
  •  応神天皇の実在性について、直木孝次郎教授や岡田英弘教授による、実在性が乏しく後世の創作人物である。との指摘がなされています。特に重大なのが、宮や陵の記載が日本書紀に無いことです。歴史学界では実在が否定されている欠史八代ですら、宮や陵は記載されています。この重大な欠失についての説明を行なっている傍系王族派の記事を見たことがありません。
  •  継体の系譜の信憑性について、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』には、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀(上宮記一伝)のとは異なる系譜が載っており、違いが生じています。「上宮記」の方こそ正しい系譜であると主張する傍系王族派が居ますが、その証拠は全く提示されていません。それどころか、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』、『上宮記一伝』、全ての系譜の成立過程が不明であり、いつ誰が製作したのか?最新の歴史学界でも誰も分からない状態です。

--物部天照比古会話2023年9月28日 (木) 14:49 (UTC)[返信]

すみませんがこの場は説の議論をする場所ではないと思います。編集方針についてのご意見でお願いいたします。--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:52 (UTC)[返信]
議論はノートで行う事になってます。
継体は傍系王族である派が、反駁を全く出来ない学説が多く存在することを明確に指摘しておきます。--物部天照比古会話2023年10月3日 (火) 15:29 (UTC)[返信]
この件は以前、話したと思いますが傍系王族、そうでない説と双方の見解が出ている状況ですよね。違う説も尊重すると言ったのはあなたですよ。なぜ一方的に違う説を否定するような見解の書き込みをするのですか?--大伴旅人会話2023年10月4日 (水) 14:10 (UTC)[返信]
何度も言いましたが、自分は継体で王統が入れ替わってる説を支持しています。
そして、歴史学界でも、優勢であろう。と思っています。
それを指摘しているだけです。--物部天照比古会話2023年10月4日 (水) 20:35 (UTC)[返信]
あなたのそのような主張は理解してますが、だからと言って学説の発表年代を再版時のものを以て最新のもののように見せたり、王朝交代を主張していない水谷千秋氏の説を切り取って「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」に入れるような編集は中立的な観点からの編修ではないのではありませんか、と指摘しています。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:59 (UTC)[返信]
もともと、新王朝派の和田氏を記紀の通り説に入れたのは、どちらでしょうか?
水谷氏の説は修正します。--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 22:10 (UTC)[返信]
ご指摘いただいたので和田氏の記事ははずしましたよ?。
新王朝を主張していない水谷氏の記事をそのまま残しているのは公平性に欠けませんか?--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:38 (UTC)[返信]
水谷氏は外しました。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:17 (UTC)[返信]

「信頼性検証 」について[編集]

指摘箇所は「説」の紹介の項目です。引用資料に基づいて「説」を紹介していますので、編集内容に不信な点があるならば引用資料に基づく具体的な指摘をしてください。またその「説」が信頼性があるかないかどうかはまた別の問題であると思います。--大伴旅人会話2023年10月3日 (火) 06:24 (UTC)[返信]

南原次男氏(元自衛官、会社経営) 竹田恒泰氏 永井津記夫氏も明らかに歴史学者ではありません。
ので、信頼性要検証が必要です。
それと、最初に竹田恒泰氏にTemplate:信頼性要検証を貼ったのは、侵入者ウィリアムさんです。
よく確認してください。自分ではありません。
百田尚樹氏と竹田恒泰氏の記事に侵入者ウィリアムさんがテンプレ貼られて、自分が歴史学者に該当しない 永井津記夫氏(そもそも誰?)南原次男氏にも貼ったのです。
それから、Template:信頼性要検証を貼られたのを、勝手に消さない方が良いですよ。
信頼性検証性が必要な場合に貼られていますので。しかも、自分ではなく侵入者ウィリアムさんが貼られていますので。
従って、勝手に何度も外した場合、管理人に報告することになり、ブロックされる可能性があります。
もし最悪、無期限ブロックになった場合、貴方は新しいアカウント作っても、二度と書き込めない可能性あります。
注意してください。ウィキペディアのルールに違反した場合は通報され、ブロックされる可能性があります。--物部天照比古会話2023年10月3日 (火) 15:27 (UTC)[返信]
御親切な解説ありがとうございます。
ただ該当項目は説の紹介であり、歴史学者に限定するというのはあなたの解釈ではありませんか?
それからあなたはいままで私が貼った疑問点を何度も勝手に消していますがそれは問題ないくて今回の件のみ問題になるというのはどういうことでしょうか?
また何というルールの違反になるのでしょうか?。教えていただけると助かります。
また侵略者ウィリアムさんにも、もしも上記のような対応をされるというのであれば「指摘箇所は「説」の紹介の項目です。引用資料に基づいて「説」を紹介していますので、編集内容に不信な点があるならば引用資料に基づく具体的な指摘をしてください。」というという提議にお答えいただきたく思いますのでよろしくお願いいたします。--大伴旅人会話2023年10月4日 (水) 14:08 (UTC)[返信]
私は、貴方の疑問点に関して、真摯にお答えしてます。
貴方は最初、文章を書き換えたりしてました。
概略で王朝交代説の根拠はほぼ失われ、継体天皇は王族であったとする説が有力である。とかです。
また、議論の経緯とかでも、中立でなく大橋氏みたいな傍系説のみから引用して書いてます。
南原次男氏も歴史学者ではありませんね。学説でもありません。--物部天照比古会話2023年10月4日 (水) 20:31 (UTC)[返信]
議論の末に合意を形成したはずの過去の議論や問題を蒸し返すような発言は合意に反していませんか?。
また学説でない百田氏の説を載せてのはあなたの方が先だったと私は認識しておりますが誤解だったでしょうか?。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:42 (UTC)[返信]
百田氏の説は削除しても良いと思ってますよ。--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 21:39 (UTC)[返信]
百田氏の説を削除されるならば竹田氏の記事も削除することにいたします。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 01:39 (UTC)[返信]
有難う御座います。
自分としては、南原氏や永井津記夫氏あたりもどうか?とは思います。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:19 (UTC)[返信]

横から失礼します。私見ですが、「説」の紹介であれば、出典があれば本職の歴史学者以外の人物による説を記載してもよいと考えます。一方で、「歴史学者による説」と「それ以外の人物による説」が全く同列に記載される状態は感心できません。さすがに、両者の間には学術的信頼性に差があると思いますし。といっても、Template:信頼性要検証を貼り付けた状態も百科事典として体裁がよくないので、例えばですが、以下のような書き方はできないものでしょうか。

歴史学者による見解に以下のようなものがある。
  1. ・・・
  2. ・・・
また、上記以外にも、作家などから以下の見解も提示されている。
  1. ・・・
  2. ・・・

議論を詳細に追っておりませんので、的外れな意見かもしれず、誠に恐縮ですが、よろしくご検討下さい。--Snap55会話2023年10月5日 (木) 14:55 (UTC)[返信]

御意見有難う御座います。
感謝します。--物部天照比古会話2023年10月5日 (木) 22:30 (UTC)[返信]
ご提案ありがとうございます。
そのような編集に変更したいと思います。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:43 (UTC)[返信]

百田尚樹、日本国紀、竹田恒泰、天皇の国史[編集]

[1]の編集は、百田尚樹は歴史学者ではないが、竹田恒泰も歴史学者でないから、両方掲載するという趣旨に基づいているようです。両方掲載しないことが妥当ではないでしょうか。参考:Wikipedia:信頼できる情報源 --2001:268:C20D:638:D972:20BE:7FCA:22E4 2023年9月30日 (土) 01:10 (UTC)[返信]

賛成 私もそう思います。なお『日本国紀』には日本語版ウィキペディアから無断で転載している記述もあり(Wikipedia:ウィキペディアを情報源とするサイト#日本国紀参照)、循環報告WP:CIRCULARのリスクも伴います。--侵入者ウィリアム会話2023年9月30日 (土) 01:30 (UTC)[返信]
私もそう思います。竹田氏の説は先に物部氏が百田氏の説を書きこんだので私が追加いたしました。両方とも削除というのならそれは公平なご指摘だと思います。
ただ、物部氏はそれに南原氏の説も加えて削除せよ、という方針らしいので、南原氏の説については本問題とは別でご検証いただきたく思います。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:47 (UTC)[返信]
コメント これはよくあるパターンですね。根本的な考え方はWikipedia:中立的な観点#適当な重み付け(WP:UNDUE)でして、主流の説をたっぷり書き、非主流の説をちょっぴり書く
ところが得てして、非主流の説を書きたい人は、それをたっぷり書きたがる。分量を多くすることで、あたかもその説が重要であるように装うことになるんです。
本件では、これに加えてWikipedia:論争のある記事も要素に加わっているでしょう。論争はWikipedia内で起きているのではなくて、現実世界で起きていて、それがWikipediaの編集にも反映されているというところ。おまけにこのあたりのテーマでは、アカデミックな歴史学や文学の文脈というよりは、政治信条に根ざしてバイアスをかけたい層がいる(彼らはアカデミックを装ったりもする。)。
原則的には、世間一般での議論を、適切なバランス(分量)で書きます。主流の説をたっぷり、傍流の説はちょっぴり。でも現実的には、それでは納得しない層(腕尽く系利用者)もいたりしがちです。
なので、現実的に有効な対策として、記事を分割するというアイデアはあると思います。上杉謙信女性説とかね、そうすれば、そっちの記事の中では、好きなだけ長く書いてください、ということになります。それだとWikipedia内のトラブルは減らせるかもしれません。--柒月例祭会話2023年10月6日 (金) 08:31 (UTC)[返信]
分割するならどのような範囲の議論でくくりますか?「継体天皇○○論」といったものがありますか?「継体天皇についての百田尚樹と竹田恒泰の議論」は誤りでないにしろ異様だと思いますが。 --2001:268:C201:9881:D7A:2E1B:CB5D:4C5C 2023年10月8日 (日) 01:14 (UTC)[返信]
  • まず理想論・一般論でいうと、彼らの「主張」をとりあげた第三者言及を探すのがよいです。信頼できる情報源で、「誰某はかくかくしかじかと主張した」的な。一般に学説史のような分野では、そうしたものがあるでしょう。
  • ・・・ということは、その主張が「学説史」に取り上げられる必要があり、たいてい1世代ぶんは「時代遅れ」になります。もっと最新の研究・論文があるじゃないかという意見はあると思いますし、穏当に問題なくできるならそれを記載してもよいとは思いますが、モメルなら妥協点として客観的に承認されている説(一昔前の説)までにしておく、みたいな。まあ、Wikipediaの仕組み上、アカデミックな分野での「最新情報」をバランスよく提供するのは難しい面があるとは思います。
  • このあたりの「学説史」というか、学説に対する評価みたいのは、1次「こうである」、2次「A氏はこういった」、3次「B氏は、A氏はこういった、と述べた」・・・のように、他者による言及によって評価が確立されていくというところがあります。そういうもんだというしかない。
  • で、本件については、たぶんこういう「理想論」は現実的に適用しにくいのだろうと思います。(「The 真実」を書きたい利用者は、この手のアカデミックな評価に関する「理想」的な評価なんか気にしないし。)
  • なので、できるだけ「中立」的に言葉を選ぶとしたら、ふつうに「A氏の主張」みたいな節名にしておくのがよいのでは。(変に、節名自体に否定的・肯定的なニュアンスをいれると、またもめるので。)--柒月例祭会話2023年10月10日 (火) 06:36 (UTC)[返信]
  • すみません、私の返信はいまいちズレてました。分割する場合の記事名、ということであれば、私もいいアイデアはないです。分割と言っても、単独記事にしなければいけないわけではないので、人物記事(たとえば百田尚樹に「継体天皇に関する主張」みたいな節をつくってもいいでしょう。全体の分量・バランスを考慮し、どーしても単独記事にするなら、暫定記事名かもしれませんが「百田尚樹による継体天皇に関する主張」みたいな記事名でよいのでは?(もっと端的ないい名前があるならそれでもいいし。記事名で長く悩むのはやや非生産的。)--柒月例祭会話2023年10月10日 (火) 09:54 (UTC)[返信]
「主流の説をたっぷり書き、非主流の説をちょっぴり書く。」
ご指摘の通りだと思います。私は最初に物部天照比古氏が「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」に記事を丸々書き写して長々と引用しているので、簡潔にまとめるべきだと指摘させていただきましたが、無視されたので、それまで簡潔にまとめていた反対論(記紀の通り、応神五世または皇統に属する人物とする説)でも長々と引用するような記事を書かざるを得なくなりました。
また最近では文字で書けばいいはずの系譜の引用をあえて表でかこってでかでかと引用するような編集をされているのですが、(「『釈日本紀』の「上宮記」以外の『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』には、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀(上宮記)のとは異なる系譜が載っており、違いが生じている。」以下の系譜の表)このような編集方法にも疑問を感じております。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:54 (UTC)[返信]

出自を巡る議論:冒頭[編集]

2023年10月24日 (火) 02:05大伴旅人 会話 投稿記録‎  164,486バイト +34‎  →‎出自を巡る議論: 疑問点:総論でもない水谷氏の系譜に関する一説を冒頭にもってきているのは不適当では」

出自を巡る議論の冒頭に各論である水谷氏の系譜に関する一説をもってきているのは、不適当ではないでしょうか?。公平中立的な編集をお願いいたします。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 02:10 (UTC)[返信]