ノート:神 (神道)

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項目名について[編集]

内容的にいって、神 (神道)ではなく神 (日本)かそれに類似した項目名のほうがいいと思う。--toroia 2007年7月29日 (日) 22:46 (UTC)[返信]

以前にWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 神道#神道の神の記事でも同様の指摘がありました。「神 (日本)」では、「日本のキリスト教徒やムスリムにとっての神はどうなる」という問題もあるのですが、とは言え、簡潔に表現しようとすれば「神 (日本)」しかないのかと思います。(他言語版では"kami"なんですよねえ)nnh 2007年7月30日 (月) 01:23 (UTC)[返信]

「側面」の節[編集]

「神には大別して以下のような側面がある」として六つの類型が提示されていましたが、コメントアウトしました。理由ですが、このページの履歴を見ると、本来は最初の三つだけだったのが徐々に追加されていって現行の六つになったものであり、何らかの文献に六つの類型が提示されているわけではなく、独自研究にあたると判断したからです。ただ、まるごと削除するにはかなりの分量だし、このページの本質的な部分でもあり、別の文脈で再利用できる文章もあったため、一時的にコメントアウトとして処理しました。--toroia会話2015年1月24日 (土) 18:34 (UTC)[返信]

「八百万の神」項目を復活する件の説明[編集]

八百万の神に関しては、神道の項目に吸収合併されたようですが、違和感があります。 端的に言って歴史的にアミニズムの時代から「八百万の神」は存在し、なにも神道専用の神の概念と いう訳ではありません。また、呼称に関しては、神道成立以前から存在しております。(C)出雲神社と 言うわけではないということです。また、戦争中、当時の政府が挙国一致政策に神道を利用した件で 戦後、一定のイメージ低下を感じる高齢者も少なくありません。従ってここに八百万の神の分離と 項目としての独立再掲載をご説明するものです。相当期間にご意見やご反論が特になければ、 そのように再構成したいと存じます。どうぞよろしくお願い致します。 --Kuoria会話2019年12月22日 (日) 21:57 (UTC)[返信]

「八百万の神」の項目で日本特有でない神の概念についての特記 [編集]

「八百万の神」で日本の神の概念として例に上げられている竈神(台所)、厠神(トイレ)の神は日本特有、神道特有の概念ではありませんが、それについて百科辞典等からの出典つきで特記したところ、

  小出-小坂井 会話 投稿記録‎ 41,712バイト −191‎ →‎八百万の神: 他国との比較の豆知識を披歴する場ではない

として削除されました。宗教の記事では他国や他宗教との比較を記述するのは豆知識でなく、記述すべき要点だと思うので違和感があります。編集合戦などを避けるため、反論がなければ『八百万の神』でない概念神の説明などに加えようかと考えています。 --2400:2410:C1A3:5300:B249:B0F1:1318:4076 2021年9月17日 (金) 21:19 (UTC)[返信]

神道に特有かどうかを論点とすべきではなく、神道それ自体がどうであるかについて記述すべきです。他との比較を書いていたらキリがありません。(特に多神教の場合。) 他の記事でも類似するときは必ず明記しなければならないという訳ではない(例えば思想家を記述する場合、注記程度に他の思想家との比較は書いても、本文では思想家の思想それ自体を書くべきで比較する事を主にするのは適切で無いと思います。--小出-小坂井会話2021年9月18日 (土) 04:17 (UTC)[返信]
Wikipediaの中立性を確保するためには日本、神道の神が、他国にない特有な概念かという視点は必要だと考えます。Wikipedia:日本中心にならないようにでは「日本では〜が採用されている。また○の国では…が採用されており、×の国では…が採用されている。一方で-の方法を模索し検討する国も出てきている。」を模範例としています。もともとは「神(日本)」であるべき記事名を「神(神道)」にした経緯のある項目なので、海外と共通する概念を付記し中立性を確保することは「豆知識を披歴」してることにはならないと考えます。--2400:2410:C1A3:5300:6066:79A5:9166:372 2021年9月18日 (土) 05:28 (UTC)[返信]
この項における神道は日本において神道という語により言論されているもの、より正確にいえば日本における信仰大系としての神道を対象としています。 「日本人によって書かれた小説、エッセイ、日本の法規など日本文化の産物は日本を中心とした記述は避けられません。」とあります。海外との比較をやたらに書き込む事はこの項を中立にする事に寄与しません。--小出-小坂井会話2021年9月18日 (土) 06:45 (UTC)[返信]
Wikipedia:日本中心にならないようにには「このことは日本以外の事情の記述を、意図的に排除や抑制すべきでなく、可能な限り記述に努めるべきであるということで、日本の事情についての記述を必要以上に抑制すべきということではありません。」とも書かれています。万国共通の視点で神道の神が日本に特有かという特記を即削除する編集は中立性を損じると思います。神道の神の中に歴史的に密接な繋がりのあるインドや中国の神と共通するもの、由来するものがあるか、日本に特有なものかという情報が百科事典に書かれるのは自然なことで、海外の神との比較をいたずらに排除して神道・日本からの視点だけで解説することが中立的とは思いません。--60.117.32.138 2021年9月18日 (土) 07:19 (UTC)[返信]
日本の信仰体系について書いているとは、それが日本に特有であると主張している事にはなりません。他国との比較を本文の主な部分に書く事は的外れです。それぞれの項で注記として他国との比較を書くのはあり得ますが、ここで沢山書くのは趣旨から外れます。あと、似ているだけで書いていると本当にキリがありません。(スサノヲが罪で裁かれた神はキリストと同じ類型、活玉依毘賣は処女懐胎で聖母マリアの類型、なども言えてしまいます。)--小出-小坂井会話2021年9月18日 (土) 07:28 (UTC)[返信]
本文にでなく『注記』すべきとのことですが、国際的な視点を意図的に排除、抑制するならば、神道の関係者が神道を信仰する人のために書く神道のガイドブックのような中立的とは言い難い記事になるかと思います。それに沿わないであろう国際的、人類学的、比較文化的な情報は本文でなく全て脚注に記述すべだと主張しているとの理解で宜しいですか?--60.117.32.138 2021年9月18日 (土) 07:50 (UTC)[返信]
意図的な抑制•排除について話しているのではありません。例えば、キリスト教のページなど、いちいち本文で他との比較をやたらには書いていません。神道と言っても宗派が沢山あり、パンフレットのようにもなりません。「神道」と観念されているものがどういうものかをきちんと観察し、どうあるのかをそれ自体で書く事が1番中立的です。--小出-小坂井会話2021年9月18日 (土) 08:48 (UTC)[返信]
神道の八百万の神の説明に、中国の、外国の神を書き込む事は、神道がどうあるかを書いている事にはならず、中立的ではありません。それは各項目で、同じような対象を神格化している他の宗教の神として書かれるべき事です。--小出-小坂井会話2021年9月18日 (土) 08:51 (UTC)[返信]
匿名でない方の議論参加を希望します。--小出-小坂井会話2021年9月18日 (土) 08:54 (UTC)[返信]
元々の記述です。
 日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、
 台所の神様(かまど神)など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。
八百万の神の一例としてある、トイレの神、台所の神については中国にも同名の神があると日本大百科全書百科事典マイペディア等の百科事典には掲載されているように、日本固有の神と学者間でコンセンサスがとれた事実ではないでしょう。
 中国の、外国の神を書き込む事--小出-小坂井(会話) 2021年9月18日 (土) 08:54 (UTC)
国際的、宗教人類学的、科学的な視点からみて、日本の神と他国の神との関係を書くことは、Wikipedia:日本中心にならないようにのガイドラインに沿ったものと考えます。
 スサノヲが罪で裁かれた神はキリストと同じ類型、活玉依毘賣は処女懐胎で聖母マリアの類型--小出-小坂井(会話) 2021年9月18日 (土) 07:28 (UTC)
こうした主張ですが、wikipediaでは、宗教学者、宗教人類学者の書いたソースがあるのであれば議論を併記すべきものかと思います。ただし挙げられている例は独自研究のようですので、適当な内容ではないでしょう。
日本で神として受け入れられたとしても、道教、仏教を通じて他国や共通した神があることは他の百科辞典にも記述されています。日本で祀られている神に、日本固有の神(神祇)、日本を含む東アジア、広域の神話類型(ハイヌウェレ型神話)で崇拝されている神がいるとの主張があるのであれば、日本固有でない神を明確に分かるように併記して説明するのは百科辞典の役割の一つでしょうし、そうした情報を検閲するならば、記事の中立性は失われると思います。--2400:2410:C1A3:5300:AB51:5745:7C61:C331 2021年9月26日 (日) 11:30 (UTC)[返信]
何回も書きますが、日本固有かどうかが問題ではなく、日本の神道でどういう神が考えられてきたがこの記事で書かれるべき事だと思います。他との比較をやたらに書くことはこの記事の趣旨ではなく、各々の記事で同じ対象を神格化した別の神、もしくは影響を受けたはっきりと指摘できる資料がない限り影響を受けた「可能性のある」別の神として書かれるべき事です。他との比較を完全に無くすべきではないかもしれませんが、本文と同等もしくはそれ以上に書くのは趣旨違いです。
あとハイヌウェレ型神話も、「同じ神」とは書いておらず、同じ類型、似ていると書いてあるだけです。いかかでしょうか--小出-小坂井会話2021年9月27日 (月) 02:37 (UTC)[返信]
私は「2400:2410:c1a3:5300~」で始まる方に見覚えがありまして、伴天連追放令ガスパール・コエリョなどを編集しておられましたね。例えば、ガスパール・コエリョにおいては大村由己の『九州御動座記』にある、ポルトガル人による日本人奴隷貿易の内容を出典なく信ぴょう性がないと記述しておられますね。伴天連追放令についても概ねそのような意図をもって編集しているように見受けられました。例えば神道の記事においてはコトハバンクの死霊崇拝や怨霊という直接神道に言及しているわけではない記事から、わざわざ、未開、未開社会というワードを切り貼りして持ってきているようにも見えました。細かく分断しておりますが、編集している記事等は類似性があります。しかし、ここのノートを見ると、60.117.32.138という、固定的なIPアドレスがあるのにも関わらず、「2400:2410:c1a3:5300~」という可変をソックパペットのように使い分けているように見えます。まず、60.117.32.138と「2400:2410:c1a3:5300~」は同一の方なのでしょうか?--Xyy会話2021年9月18日 (土) 16:19 (UTC)[返信]
議論とは無関係の人格攻撃が趣旨のようですし、答える義務もないため、お答えは控えさせていただきます。
Xyyさんについては、建国記念日について執拗な改変をなされているとの指摘があるようですね。
 日本の建国された時期について執拗に何度も改変されているようですが、日本が建国された明確な根拠はありません。
 残念ながら、建国記念の日は日本が建国された時期を定義づけるものではありません。あとrefタグ漏れなど粗雑な編集
 が見られました。どうやら慌てて編集されたようですがしっかり何度も見直ししてから編集なさってください。
 --ドルジ露瓶尊(会話) 2021年8月20日 (金) 07:18 (UTC)--2400:2410:C1A3:5300:AB51:5745:7C61:C331 2021年9月26日 (日) 11:38 (UTC)[返信]
同じ項目の議論内において60.117.32.138という固定IPを持っているのにもかかわらず、「2400:2410:c1a3:5300~」という可変をソックパペットのように使い分けていることは多人数を装っていると見なされても仕方のない行為であり、単純に問題です。それ故に、60.117.32.138と、「2400:2410:c1a3:5300~」は同一人物ですかと聞いているわけです。それに対してyesでもnoでもなく、答えないということがあなたの返答ということでよろしいでしょうか?--Xyy会話2021年9月26日 (日) 11:45 (UTC)[返信]
議論とは無関係の質問ですし内容から人格攻撃を意図しているようですので、お答えしません。また固定IPの意味が分かっているとも思えませんので、そうした説明までする義務があるとは思えません。この種の質問について、今後は一切の質問について、スルーさせていただきます。--2400:2410:C1A3:5300:AB51:5745:7C61:C331 2021年9月26日 (日) 11:58 (UTC)[返信]
人格攻撃でもなんでもなくあなたはこの議論の項目において、60.117.32.138という固定のIPを持っていながら、「2400:2410:c1a3:5300~」のIPを使い、あたかも複数人がいるかのように誤解を与えるような議論の仕方をしましたか?と聞いているわけです。--Xyy会話2021年9月26日 (日) 12:02 (UTC)[返信]
まずあなたは固定IPの概念を理解できていません。プロバイダがどのバージョンのIPをどのタイミングで割り当てるかを一介のユーザーが選ぶことはできません。その程度のあやふやな根拠をもとに個人攻撃をするのはいかがなものかと。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 02:13 (UTC)[返信]

神道における人工物の神の崇拝(呪物崇拝、物神崇拝)[編集]

   2021年10月23日 (土) 22:06‎ 小出-小坂井 会話 投稿記録‎  60,498バイト −1,358‎  神道とは直接関係のない概念について削除(もの自体についての神についての記述ではない) 取り消し タグ手動差し戻し

神道における呪物(人工物)崇拝については、加藤玄智が事例を挙げており関係はあります[1]。Wikipediaは百科辞典であり、辞書ではありません。WP:NOTDICDEF を参照してください。宗教人類学における神は百科事典に含まれる内容と考えます。Wikipedia:日本中心にならないようにについても参照ください。 --2400:2410:C1A3:5300:EEA5:C2CC:1A85:B78D 2021年10月24日 (日) 19:17 (UTC)[返信]

   2021年10月24日 (日) 19:07‎ Xyy 会話 投稿記録‎  61,203バイト −1,809‎  出典元を確認したところ小出氏の述べていることが正しく、神 (神道)のことを述べておらず独自研究であるため 取り消し タグ: 取り消し 差し戻し済み

2021年10月24日 (日) 19:03に投稿した内容をわずか 4 分で出典元を確認したとのことですが、本当でしょうか?出典です「Kato Genchi— A Neglected Pioneer in Comparative Religion —Naomi Hylkema-Vos, Japanese Journal of Religious Studies 1990 17/4. p384」。

   Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.

との記述があります。どう読んでも呪物崇拝と神道の関わり、さらに刀剣呪物信仰について述べていると思います。 --2400:2410:C1A3:5300:EEA5:C2CC:1A85:B78D 2021年10月24日 (日) 19:35 (UTC)[返信]

そちらの出典については未検証ですが、私があなたの差し戻しを小出氏の地点まで戻した理由はコトハバンクの呪物崇拝を出典として、「呪物崇拝は未開社会、古代社会、未開宗教にみられる信仰で、呪物・物神(人工物や加工した自然物、石とか植物の種子等)が人間に禍福をもたらすと信じて儀礼の対象とする。人工物や簡単に加工した自然物に対する崇拝の総称とされている」と記述していた点ですね。呪物崇拝はどう見ても神道を意図したものではないでしょう。なぜこの記述を基にそのような記述をなさったのですか?
二つ目に、あなたは前節における
::::同じ項目の議論内において60.117.32.138という固定IPを持っているのにもかかわらず、「2400:2410:c1a3:5300~」という可変をソックパペットのように使い分けていることは多人数を装っていると見なされても仕方のない行為であり、単純に問題です。それ故に、60.117.32.138と、「2400:2410:c1a3:5300~」は同一人物ですかと聞いているわけです。それに対してyesでもnoでもなく、答えないということがあなたの返答ということでよろしいでしょうか?--Xyy会話) 2021年9月26日 (日) 11:45 (UTC)
議論とは無関係の質問ですし内容から人格攻撃を意図しているようですので、お答えしません。また固定IPの意味が分かっているとも思えませんので、そうした説明までする義務があるとは思えません。この種の質問について、今後は一切の質問について、スルーさせていただきます。--2400:2410:C1A3:5300:AB51:5745:7C61:C331 2021年9月26日 (日) 11:58 (UTC)
人格攻撃でもなんでもなくあなたはこの議論の項目において、60.117.32.138という固定のIPを持っていながら、「2400:2410:c1a3:5300~」のIPを使い、あたかも複数人がいるかのように誤解を与えるような議論の仕方をしましたか?と聞いているわけです。--Xyy会話) 2021年9月26日 (日) 12:02 (UTC)
に未だ答えているようには見えません。あなたは、60.117.32.138と同一人物であり、前節でソックパペットを使用していたユーザーで間違いありませんか?--Xyy会話2021年10月24日 (日) 20:04 (UTC)[返信]
『そちらの出典については未検証ですが』Xyy
では検証しなおしてから、返信をしてください。神道呪物崇拝は関わりがあるとの出典[2]に対する有効な反論がないのであれば、WP:NOTDICDEFを参照してください。
『単語や句自体が百科事典的な主題となり得る場合もありますが、用語の複数の異なる定義や語法を解説するような百科事典の記事はまれです。例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。(WP:NOTDICDEF)』
宗教学、宗教人類学における神や信仰は百科事典に含まれる内容だと考えます。これに該当するものを予断を許さず、即時に一方的に削除、検閲するという姿勢でなく、礼儀を忘れず、冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:EEA5:C2CC:1A85:B78D 2021年10月24日 (日) 20:23 (UTC)[返信]
では、呪物崇拝を出典に「呪物崇拝は未開社会、古代社会、未開宗教にみられる信仰で、呪物・物神(人工物や加工した自然物、石とか植物の種子等)が人間に禍福をもたらすと信じて儀礼の対象とする。人工物や簡単に加工した自然物に対する崇拝の総称とされている」と記述していることは単なる呪物崇拝の定義説明でしかなかったとおっしゃるのですね?
ではなぜ元々の記事で呪物崇拝を出典として上記の記述のみをなさったのですか?呪物崇拝のページ自体は神(神道)と何ら関係がないのにもかかわらず突然、呪物崇拝の定義説明を神道の記事で始めることは明確に誤りでしょう。小出氏に差し戻された点についてはあなた側の誤りであったと、そこまではよろしいですね?
あと、改めて聞きますが、あなたは、60.117.32.138と同一人物であり、前節でソックパペットを使用していたユーザーで間違いありませんか?なぜその問いに答えられないのか説明を求めます。--Xyy会話2021年10月24日 (日) 20:38 (UTC)[返信]
『そちらの出典については未検証Xyy』の出典を検証してください。繰り返しになりますが、検証した上で神道と呪物崇拝は関わりがあるとの出典[2]に対する有効な反論がないのであれば、WP:NOTDICDEFを参照してください。『単語や句自体が百科事典的な主題となり得る場合もありますが、用語の複数の異なる定義や語法を解説するような百科事典の記事はまれです。例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。(WP:NOTDICDEF)』呪物崇拝の説明は、神道の呪物(物神)崇拝、刀剣呪物信仰[2]の文化的(宗教人類学的、文化人類学的)な意味の説明であり、許容されるべきかと思います。--2400:2410:C1A3:5300:EEA5:C2CC:1A85:B78D 2021年10月24日 (日) 20:49 (UTC)[返信]
では、あなたの論を借りるなら、例えばヘスティアー ウェスタの記事において、膨大な出典の中からこれらの神をfetishismと結び付けているものが一つでもあるのなら、該当の記事内でその節を作って説明した上で、コトハバンクの呪物崇拝を出典として未開性を記述することは何ら問題ないと考えているということで間違いないですね?--Xyy会話2021年10月24日 (日) 21:06 (UTC)[返信]
呪物崇拝をご存知ということでよろしいでしょうか?人工物を呪物または物神として神格視、崇拝するのが、呪物(物神)崇拝であり、文字を持たない民族等で良くある信仰体系であることを言及するのは百科辞典として含まれるべき内容です。またもう一度いいますが、議論や適切な根拠なく投稿を取り消すのはやめてください。『そちらの出典については未検証ですがXyy』が本筋であって、脇道や他の議論にすり替えるのは建設的な議論とは言えません。--2400:2410:C1A3:5300:AD5B:DC0:B516:5CEF 2021年10月25日 (月) 13:50 (UTC)[返信]
①あなたは『例えばヘスティアー ウェスタの記事において、膨大な出典の中からこれらの神をfetishismと結び付けているものが一つでもあるのなら、該当の記事内でその節を作って説明した上で、コトハバンクの呪物崇拝を出典として未開性を記述することは何ら問題ないと考えているということで間違いないですね?』の質問に応えられていませんね。私はあなたの、2400:2410:C1A3:5300:83FE:4FD8:16A8:1CACというIPでのこれらの物神についての編集を知っております。
②あなたは、60.117.32.138と同一人物であり、前節でソックパペットを使用していたユーザーで間違いありませんか?なぜその問いに答えられないのか説明を求めます。
③あなたの出典の記述を確認しましたが
  • Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
  • 及び、
  • The designation “fetishism” originally came from Charles de Brosses(1709-1777), who maintained that fetishism was the prototype of all religions.
であり、どちらも彼らの“fetishism”の定義を説明する内容であり、コトハバンクの呪物崇拝と合体させること自体完全に牽強付会であり誤った記述です。
このようなことを継続するのであればコメント依頼において、目的外利用、ソックパペット等であなたのこれまでの投稿も含めて全て公の場で出したうえで、議論する必要が出てきたと言わざるを得ません--Xyy会話2021年10月25日 (月) 14:12 (UTC)[返信]
このように氏はこちらからの質問への返答を拒否しておりますが、追記として、一応この人物が、神(神道)に何ら言及していない呪物崇拝の記述を当記事にしつこく書き続ける根拠とあげている、「A Neglected Pioneer in Comparative Religion」ですが、これはオンラインで確認することができ、A Neglected Pioneer in Comparative Religionの384ページであり、その記述は上記の通り
  • Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
  • The designation “fetishism” originally came from Charles de Brosses(1709-1777), who maintained that fetishism was the prototype of all religions.
の二つであることが確認できます。恐らくオンラインのワード検索で引っ張ってきたものと思われます。氏は、まず神道の記事になんらその点について言及していない、コトハバンクの呪物崇拝を貼り付け、それを差し戻されると、該当の記述を持ってきたわけですが、それも呪物崇拝とは関連のないものでした。しかもその内容を2021年10月25日 (月) 05:03時点という正確な記述にして、関連のない呪物崇拝を外すと議論が発生しているという告知ごと除去し、ロールバックを繰り返しているというのが現在の状況です。
また、氏は過去に60.117.32.138というソックパペットによって上記の議論に参加しており、そのことに質問をしても対話を拒否しております。というのが現在の状況であることはここで明記しておきます。--Xyy会話2021年10月25日 (月) 15:07 (UTC)[返信]
『どちらも彼らの“fetishism”の定義を説明する内容であり』と書かれていますが
  • He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
神道における宝石、刀、鏡の呪物崇拝(物神崇拝)を、呪物崇拝の具体事例としてあげています。当該文書は加藤玄智の研究する比較宗教(Comparative Religion)の文脈であり、特に神道の神は主たる分析対象です。--2400:2410:C1A3:5300:AD5B:DC0:B516:5CEF 2021年10月25日 (月) 15:15 (UTC)[返信]
  • Fetishism - Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
  • The designation “fetishism” originally came from Charles de Brosses(1709-1777), who maintained that fetishism was the prototype of all religions.
あなたは上記の出典を悪用し、「He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.」の部分を切り取り、「神道における宝石、刀、鏡の呪物崇拝を、呪物崇拝の具体事例としてあげています」と連呼していますが、この記述全文を翻訳して宝石、刀、鏡を呪物崇拝の例として挙げていると翻訳する人はいないでしょう。彼らの「フェティシズム」という語の定義を語っているのであって「呪物崇拝」を語っているわけではないからです。何なら上記の文のフェティシズムを呪物崇拝に入れ替えれば、意味不明な文にならざるを得なくなるでしょう。
大体あなたが掲げ続けている、コトハバンクの呪物崇拝ですが、中に『日本語としては,節片淫乱症,物件恋愛,淫物症,呪物崇拝などと訳されたが,適切とはいえないので現在では原語のまま用いられている。』と明記されているでしょう。
にもかかわらず、明らかに呪物崇拝を想定していない加藤氏の記述をすべて呪物崇拝にする。これは出典の悪用です。それにとどまらずフェティシズムと書かれていることをすべて呪物崇拝にする。人工物の神をすべて呪物崇拝と誤解を与える編集を行う。このような点も作為的な編集をしている以外に見なすことができません。保護依頼の結果が出次第次の段階に移らざるを得ません。--Xyy会話2021年10月25日 (月) 18:52 (UTC)[返信]
もう一人の方の反応しか読んでいなかったので、対応が遅くなりましたが回答します。あなたの「この記述全文を翻訳して宝石、刀、鏡を呪物崇拝の例として挙げていると翻訳する人はいないでしょう。」としていますが、加藤玄智の執筆した本の中で呪物崇拝の例として記述されています。
加藤玄智十種神宝を呪物とするだけでなく、三種の神器も同様の性格を保持しており、東インド諸島の原住民のプサカや中央オーストラリア人のチュリンガとの類似性を指摘した[3]草薙剣は神剣の霊験によって超自然的な保護(御利益)を得られるとされ、草薙剣神格化して尾張国熱田に祀ったのが、現在の熱田神宮だとした[3]天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降りる際に鏡を授け、鏡を自分の崇高な御魂と見なして、天上で彼女を崇拝するのと同じように崇拝するように命じており、日本書紀では鏡を拝むという宗教意識の極致である鏡の神格化が行われたと指摘している[3]
さらに比売許曽神社の祭神である阿加流比売神(あかるひめのかみ)は赤い玉であったが、神格化され神となった[3]神代ではイザナギノミコトの首にかけられた宝石が神格化されて、御倉板挙之神(みくらたな神)とよばれた[3]文徳天皇の時代、常陸国大洗の海岸で、ある夜突然2つの石の呪物が不思議な光を放って現れ、それが大洗磯前神社に祀られている大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)であるとの託宣があったという[3]淡路島にある厳橿(いずかし)神社の神体は、伊勢神宮の鏡を模した神鏡が安置されている賢所(かしこどころ)で孝明天皇が着用した履物で、御目太(おまぶと)として親しまれており、地元住民の間では、祈願すれば病気の痛みが取れて治ると信じられていた[3]。古事記によると、伊邪那美命に追われて伊耶那岐神黄泉国から逃げ還った際、黄泉比良坂を塞いだ千引の石を完全に神格化して道返之大神とした[3]
これらを加藤玄智は呪物崇拝の例として分類しています。それと、あなたは議論に関する wikipedia の方針を読んでるとも思えませんので、まずは wikipedia のガイドラインを読んで理解してから議論に参加してください。--2400:2410:C1A3:5300:A50A:7F79:5E39:B4D5 2021年11月12日 (金) 12:11 (UTC)[返信]
  • Fetishism - Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
  • The designation “fetishism” originally came from Charles de Brosses(1709-1777), who maintained that fetishism was the prototype of all religions.
あなたにまずまともに会話が通じているように見えないので、上記の2文を正確に日本語訳にしてもらえますか?--Xyy会話2021年11月12日 (金) 13:20 (UTC)[返信]
あなたは議論に関する wikipedia の方針を読んでるとも思えませんので、まずは wikipedia のガイドラインを読んで理解してから議論に参加してください。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 02:15 (UTC)[返信]
あなたは対話自体が成立しないユーザーであると、改めて理解致しました。--Xyy会話2021年11月18日 (木) 02:48 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ Kato Genchi— A Neglected Pioneer in Comparative Religion — Naomi Hylkema-Vos, Japanese Journal of Religious Studies 1990 17/4. p384
  2. ^ a b c Kato Genchi— A Neglected Pioneer in Comparative Religion —Naomi Hylkema-Vos, Japanese Journal of Religious Studies 1990 17/4. p384
  3. ^ a b c d e f g h A Study of Shinto: The Religion of the Japanese Nation, By Genchi Katu, Copyright Year 2011, ISBN 9780415845762, Published February 27, 2013 by Routledge , Chapter III Fetishism and Phallicism

呪物崇拝(物神崇拝、英:en:Fetishism)の認識についての確認[編集]

議論が堂々巡りになりかねないので、呪物崇拝(物神崇拝)を本当にご存知であることを確認してください。もし理解していないようであれば、宗教学の学際的なアプローチを学んで頂かないといけないでしょう。人工物を呪物または物神として神格視、崇拝するのが、呪物(物神)崇拝です。英語で宗教人類学の用語に対応するのはen:Fetishismになります。いくつか手頃な資料を確認したいと思います。

①「Kato Genchi— A Neglected Pioneer in Comparative Religion —Naomi Hylkema-Vos, Japanese Journal of Religious Studies 1990 17/4. p384」。

Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.

との記述があります。どう読んでも呪物崇拝(en:Fetishism、物神崇拝)と神道の関わり、さらに刀剣呪物(物神)信仰について述べていると思います。

②Dr. Genchi Kato's monumental work on Shinto, Daniel C. Holtom. 明治聖徳記念学会第47巻、昭和12年 1937/04/ p7-14

Even today, remarks Dr. Kato, if one leaves behind the more sophisticated cities and penetrates into the byways of rural areas he will find abundant evidence of the survival into the present of this old nature worship which is accomplishments of beliefs in spirits, fetishism, and phallicism.[1]

これによると、都市部を離れて農村部の路地に入ると、精霊崇拝、呪物崇拝(en:Fetishism、物神崇拝)、男根崇拝が残っていると加藤玄智は述べています。

③KOKUTAI - POLITICAL SHINTÔ FROM EARLY-MODERN TO CONTEMPORARY JAPAN Klaus Antoni Eberhard Karls University Tübingen: Tobias-lib Tübingen 2016

ロイ・アンドリュー・ミラー国体の本義教育勅語もしばしば呪物(または物神)として崇拝され、神棚に謹んでおかれ保管されたとしています[2]

神道の神の信仰に呪物崇拝(物神崇拝)が含まれるのは宗教学、宗教人類学としては疑問の余地はなく、百科事典である wikipedia では、中立的に日本中心・神道中心とはならず、日本人以外、神道の信者以外でも幅広い視点から読めるよう、学際的に神道のに関して記述するべきです。--2400:2410:C1A3:5300:AD5B:DC0:B516:5CEF 2021年10月25日 (月) 14:44 (UTC)[返信]

中立であるとは英語中心主義を言うのではありません。日本語により利用可能な文献を摘示し、利用者間の議論を可能なものにしてください。--小出-小坂井会話2021年10月25日 (月) 21:08 (UTC)[返信]
伝聞による資料は必ずしも信頼できる資料とはみなされていません。--小出-小坂井会話2021年10月25日 (月) 21:09 (UTC)[返信]
ロイ・アンドリュー・ミラーの解釈でいくと聖書もフェティシズムの対象になってしまいそうですが、ここにこの解釈を書き込む特筆性があまりないように思われます。--小出-小坂井会話2021年10月25日 (月) 21:15 (UTC)[返信]
議論に合うように分類を分けましたが、これは神聖さ見出しているのであり神についての記述ではないため、別の箇所に書くのが穏当と思われます。--小出-小坂井会話2021年10月25日 (月) 21:31 (UTC)[返信]
加藤玄智の見方について、登録アカウントでないこの議論を始められた方が上げられた文献によると、前時代的であり、ポピュラーでなくなった社会的進化論によっていると批判されています。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 03:45 (UTC)[返信]

ここで述べているものはどちかといえば神体にあたります。しかも一つの見方にすぎず、神道では物体自体を崇めている訳ではありません。ここでいう人工物の神とは別概念です。 小出-小坂井会話2021年10月25日 (月) 21:05 (UTC)[返信]

『しかも一つの見方にすぎず、神道では物体自体を崇めている訳ではありません。利用者:小出-小坂井』とのことですが、呪物崇拝はそのような狭義の信仰を指すわけではありません。『人類学者のタイラーがフェティシズムをアニミズムの一部としてみる説を主張し、これが一般に受け入れられて以来[3]』として、人工物の神、人工物に宿る神を含むのが、一般的なコンセンサスですこれを否定する論証のある参考文献があって断言なされてますか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 04:21 (UTC)[返信]
他のコトバンクにある定義のほとんどを参照なさってください。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 05:02 (UTC)[返信]
神体的なものをフェティシズムの一形態とみなす論評は加藤玄智が行っており、この記述は消していません。しかし上の議論にもありますが、神の類型の一つに書くのは無理があります。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 05:05 (UTC)[返信]
ノート:呪物崇拝での依頼を受けて『呪物崇拝をアニミズムの一部とする宗教人類学の一般的コンセンサスについて』のトピックを作りましたので、そちらで続きをお願いします。--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 05:59 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ Dr. Genchi Kato's monumental work on Shinto, Daniel C. Holtom. 明治聖徳記念学会第47巻、昭和12年 1937/04/ p7-14
  2. ^ KOKUTAI - POLITICAL SHINTÔ FROM EARLY-MODERN TO CONTEMPORARY JAPAN, Klaus Antoni, Eberhard Karls University Tübingen: Tobias-lib Tübingen 2016, p259
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「フェティシズム」の解説. URL=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0-123126#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2

呪物崇拝をアニミズムの一部とする宗教人類学の一般的コンセンサスについて[編集]

ノート:呪物崇拝での続きはこちらでやりたいとのことでしたので、新しくトピックを作ります。

  • 質問①『しかも一つの見方にすぎず、神道では物体自体を崇めている訳ではありません。利用者:小出-小坂井』とのことですが、呪物崇拝はそのような狭義の信仰を指すわけではありません。『人類学者のタイラーがフェティシズムをアニミズムの一部としてみる説を主張し、これが一般に受け入れられて以来[1]』として、人工物の神、人工物に宿る神を含むのが、一般的なコンセンサスですこれを否定する論証のある参考文献があって断言なされてますか?
  • 質問②、質問①に対し『もう一度コトバンクの1番上に書いてある定義をお読みになって下さい。 小出-小坂井』との回答を得ましたが、「日本大百科全書(ニッポニカ)「呪物崇拝」の解説 呪物崇拝 じゅぶつすうはい →フェティシズム」と、該当するコトバンクのフェティシズム記事への転送リンクが掲載されています[2]宗教人類学フェティシズムen:Fetishism)、呪物崇拝物神崇拝)を異なる概念として区別されてるとの理解でよろしいでしょうか?
  • 質問③、これらをまとめると

人工物を呪物または物神として神格視、崇拝するのが、呪物崇拝(物神崇拝)[3][4]

となりますが、これに関して全否定できる論拠となる資料はあるのでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 05:57 (UTC)[返信]

①に関しては別に議論をしています。書かれている事を否定した記憶はありません。何度も言いますが加藤玄智の論評を削除していません。一ついえば、特定の人工物を何か特別視して崇める形態の信仰の事だという理解です。『呪物崇拝は人工物に宿る神霊の崇拝を含む。』はやや独自研究、一般化を誤っていると思います。神の類型に書くのが見当違いであると何回も書いています。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 06:05 (UTC)[返信]
アニミズムは『すべての事物の中に神霊・魂が宿っている」という広範な考え方であるため、広範な信仰体系を含み、その一形態としてフェティシズムen:Fetishism)、呪物崇拝物神崇拝)も含まれるとのタイラーの説が宗教人類学の一般的なコンセンサスであることを、独自研究であると考えているとの理解でよろしいでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 06:18 (UTC)[返信]
特定の人工物を崇めるという、他の定義にもありますが、その前提が抜け落ちています。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 06:24 (UTC)[返信]
何回も書きますが、少なくとも神の類型に書くのは間違っています。この点いかがでしょうか。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 06:27 (UTC)[返信]
『単語や句自体が百科事典的な主題となり得る場合もありますが、用語の複数の異なる定義や語法を解説するような百科事典の記事はまれです。例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。(WP:NOTDICDEF)』
宗教学、宗教人類学における神や信仰は百科事典に含まれる内容だと考えます。神道における呪物崇拝物神崇拝、刀剣呪物信仰等の文化的(宗教人類学的、文化人類学的)な意味の説明であり、同じく許容されるべきかと思います。また類型は wikipedia の記事では一般的に含まれる内容であり、類型を排除すべきとの主張は少数派の見解でしょう。これに該当するものを予断を許さず、即時に一方的に削除、検閲するという独自の姿勢でなく、礼儀を忘れず、冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 06:33 (UTC)[返信]
全くもって議論になっていないのでおどろいていますが、神の類型にこれを書くのはおかしいと言っています。神の定義の所に、呪物崇拝を書く事を排除していません。どのような神がいるかという類型とは少し違う話だと思います。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 06:39 (UTC)[返信]
定義だけを書くならば、百科辞典でなく辞書になるでしょう。『百科事典の記事は、良い定義と1つの主題を説明して開始する必要がありますが、同様にその主題に関する他の種類の情報を提供すべきです。』が wikipedia 記事の要件であること事を思い出してください。(知らないのであれば、今から wikipedia のガイドを読んでください)--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 06:59 (UTC)[返信]
定義とはそういう意味じゃなくてこの記事の『定義』の項という意味です。神の類型は具体的に名前がある神の類家を話しているのだから違うのではないかという意味です。『定義』の項に書くのは神の現れ方などの一形態という事で違和感はないと思います。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 07:05 (UTC)[返信]
これまで、あなたは比較宗教的なものを議論なく一方的に削除し続けてきました。今回も神道の神に関しての文化的(宗教人類学的、文化人類学的、比較宗教的、比較文化的)な意味の説明を許容しないという主張だと理解していますが、それで合っているでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 08:14 (UTC)[返信]
違います。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 19:22 (UTC)[返信]
では、これまでにあなたが神道の神に関係ないからという理由で削除をした宗教人類学や比較宗教の削除履歴をもって、答え合わせをしてもよろしいでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:A1EC:240C:315B:F24C 2021年10月26日 (火) 20:02 (UTC)[返信]
あえてあげれば神体になると初めから書いており、加藤氏やロイ・アンドリュー・ミラーの記述を一度も消していません。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 05:34 (UTC)[返信]
「定義」の意味について話しており、話題を逸らしているのはあなたです。一度も加藤氏らの記述自体を消せとここで言っていない事をご確認下さい。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 05:36 (UTC)[返信]
繰り返しますが、あなたの日本人の神道信者のみを読者として想定し、文化的意味の説明を排除する編集方針を問題視しており、以前からWikipedia:日本中心にならないようにを読むように何度も注意喚起をしてきたはずです。『これまでにあなたが神道の神に関係ないからという理由で削除をした宗教人類学や比較宗教の削除履歴』と書いているのですから、これは神道の神の定義以外の文化的意味の解説を関係ないからという理由で即削除するという、あなたのこれまでの問題行動の履歴の検証の事を言っています。--2400:2410:C1A3:5300:C32B:C30D:66BC:43B 2021年10月27日 (水) 15:19 (UTC)[返信]
質問に答えると、違います。フェティシズムで観念されているものはアミニズムの一形態だとみなされているが、アミニズムの人工物の神が全てフェティシズムになるとは書いていないという事です。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 06:30 (UTC)[返信]
加藤玄智に関する論文では呪物崇拝の事例を(a)人工物の神か、(b)人工物に宿る神かはどちらの解釈もできるようにぼかしているので、いちいち言及していません。ですから、それを(a)人工物の神であると決めつけるのは、あなたの考えを採用するならば独自研究であることになります。論文では両方の解釈も認められることが自明であると判断し、非自明性に徹するべき論文での記述に(自明であるため)含めなかったということでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 06:53 (UTC)[返信]
“Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.” とありますが、これは特定の人工物に対する崇拝にしか取れないように思いますがいかがでしょう。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 06:57 (UTC)[返信]
あなたはアニミズムは『すべての事物の中に神霊・魂が宿っている」という広範な考え方であるため、広範な信仰体系を含み、その一形態としてフェティシズム(en:Fetishism)、呪物崇拝(物神崇拝)も含まれるとのタイラーの説が宗教人類学の一般的なコンセンサスである事に反対の立場ではないと言明したのですから、(a)の崇拝であると該当論文で定義されてるわけでもないのに、宗教人類学の一般的コンセンサスを無視して「(a)」であると決めつけるのは独自研究にあたるのではないでしょうか?あなたはこれまで「人工物の神」として該当項に寄稿していたのに、今まで気にならなかったわけですから、一々自明なものを厳格に定義するようなことはしないという点は理解しやすいのではないでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 07:17 (UTC)[返信]
加藤氏がどう言ったと論文に書いているかを判断してください。彼等は彼等が書いた事を意味します。加藤は(中略)物への信仰をフェティシズムと定義したと書いてありますね。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 07:38 (UTC)[返信]
むしろ物に対する信仰であり、ものについての神とは言っていないのだから、そちらの方が独自研究だと思います。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 07:02 (UTC)[返信]
加藤玄智は物の崇拝があると述べるとき、一般的なアニミズム的な人工物の信仰をもって呪物崇拝と意図してるとの理解ですが、加藤玄智が日本人は人工物自体を信仰している説を唱えたと主張されているとの理解でよろしいでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 07:27 (UTC)[返信]
剣・鏡・スカーフなどの”miraculous virtues”があるものとして崇拝している物、とありますので、ある意味でそうでしょう。いずれも現在では神体とされているもので、神道の段階について話しているのだからそう取るのが整合的でしょう。この進化論的論法は批判的に扱われてはいます。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 07:43 (UTC)[返信]
それで納得されることに意外ですが、人工物自体だけを信仰していると加藤玄智が考えたとは思えません。神体神霊の宿る物体のことを指すのですから、人工物自体だけではなく、人工物(呪物)に宿った霊、魂も崇拝したと考えるほうが理にかないます。あるいは神体には霊や神が宿らず、奇跡的・超常現象的な呪力が発生する人工物(呪物、呪源)であるとの主張だと理解してよろしいでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 08:09 (UTC)[返信]
神体があるのは何も人工物の神に限っていません。なぜ私が納得する事が意外なのか、加藤氏が worship of objects to which miraculous virtues are ascribedとし、そして例示として剣などを上げている事をもって例えば神話に登場する具体的な名前のある神を意味していると解釈したのか具体的な例示をお願いします。
もう一点、フェティシズムの定義のほとんどは特定の人工物や加工物に対する信仰ですが、あなたのよっている文献では、フェティシズムは乱用されるので現在ではあまり使われなくなっている、とあり特筆性があまりないように思われますがいかがでしょうか。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 19:31 (UTC)[返信]
他の議論(例えば神道の神の多くはあまり信仰されておらず知られていないので特筆性がないと同列の論法)にすりかえず、本トピックに関して重要と考えられる質問『神体には霊や神が宿らず、奇跡的・超常現象的な呪力が発生する人工物(呪物、呪源)であるとの主張だと理解してよろしいでしょうか?』まずは、この点についてお答えください。またもし、そうお考えなら、神体に霊や神が宿らないという文献をご提示ください。--2400:2410:C1A3:5300:A1EC:240C:315B:F24C 2021年10月26日 (火) 19:59 (UTC)[返信]
質問に答えると、違います。加藤氏が何を言ったかについて議論して下さい。加藤は”miraculous virtues”が帰せられる物に対する信仰としか言っていません。そのようなもので、剣や鏡をあげているのだから、神体の事について話しているのだろうということです。神体がなぜ崇拝されているかは加藤は議論していませんし、なぜかを一旦おくとしても、神体のように崇拝される物が神道で観念されているのは事実です。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 20:58 (UTC)[返信]
文面では呪物崇拝または物神崇拝en:Fetishism)とあるため、宗教人類学の一般的コンセンサスが読み手にあるとの前提をおくなら人工物自体または人工物に宿る霊の崇拝の両方の見解を含有します。呪物崇拝にアニミズム的な人工物の神霊が宿った呪物の崇拝が含まれるのは自明のため、非自明性の求められる論文で再定義しなかったと読むべきです。加藤玄智は当時の日本国内では神道の学際的研究、比較宗教のパイオニアという認識については合意できるでしょうから、そうとします。では神道や呪物崇拝、宗教人類学のエキスパートである加藤玄智が日本の信仰に『神や霊が宿らない人工物自体だけを崇拝する呪物崇拝』が広範に存在し、『神体には霊や神が宿らず、奇跡的・超常現象的な呪力が発生する人工物(呪物、呪源)である』と主張するとあなたは理解されてるということでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:A1EC:240C:315B:F24C 2021年10月26日 (火) 21:28 (UTC)[返信]
違います。加藤氏がエキスパートであるとの指摘ですが、あなたと同一だと思われる方が挙げている文献では、加藤は古くなってポピュラーでなくなった理論に固執したと書いてあり、少なくともあなたの理論は成り立ちそうもありません。文脈も大事ですが、まずはあなたが論拠した文献が何を意味しているのかをきちんと読んでください。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 23:08 (UTC)[返信]
呪物崇拝と神道が無関係だと断定していたはずの、あなたがそうした努力をなされたことは意外で驚きました。しかし読み方が甘いのではないでしょうか。加藤玄智が参考にした理論にはタイラーが含まれているとの記述があります。
  • Kato was influenced by Tylor’s theories. Edward B. Tylor (1832­ 1917)
加藤玄智が参考にしたタイラー等の進化論的アプローチは現代では批判されていますが、タイラーは呪物崇拝をアニミズムの一種とした説を提唱し(もはや主流とはいえない進化論的解釈とは対象的に)現代でも一般的なコンセンサスとされています。加藤玄智がタイラーの呪物崇拝に関する説を知らないであろうという、あなたの個人的な解釈には賛同しかねます。--2400:2410:C1A3:5300:F176:CD4:AEAC:3374 2021年10月27日 (水) 03:13 (UTC)[返信]
初めからあえてあげるなら神体がこれに当たると書いています。なぜあなたの記述を最初に消したかと言えば、出典が完全に誤っていたからです。タイラーの呪物信仰の話は、呪物信仰がアニミズムの一形態だという理論であり、呪物信仰がどう一般に観念されているかという話が先にあります。いずれも崇拝される物が先にあるのであり、ものについての神が全てフェティシズムにあたるとは書いていません。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 05:27 (UTC)[返信]
あなたの主張には誤った固定観念、思い込みがあります。
  • フェティシズムの対象であるフェティッシュは、初め、人工物のみを示していたが、その後、自然物にも適用されるようになり、その観念はあいまいとなった。また、死霊や精霊など人格的な存在と結び付けて崇拝するのを霊物崇拝、非人格的な力のために崇拝されるのを呪物崇拝として区別される場合もあるが、通常はこの両者を含めて呪物崇拝あるいはフェティシズムとよんでいる。」(日本大百科全書(ニッポニカ)「フェティシズム」の解説より)
あなたの主張には矛盾点が見つかるので、以下の質問に答えていただけますでしょうか?
  1. あなたは呪物崇拝が物自体に限った信仰だと断言なされています。アニミズムの一種としての呪物崇拝は宗教人類学の一般的なコンセンサスであり、もしあなたが無いと言い張るのであれば、それは個人の無知の問題であって、こちら側の問題ではありません。これについて反論または、あなたの自説を断言できるだけの参考資料はありますか?
  2. 刀剣呪物信仰が呪物崇拝の例として挙げられていますが、神体には霊や神が宿らず、奇跡的・超常現象的な呪力が発生する人工物(呪物、呪源)であると解釈されたという理解でよろしいでしょうか?否定される場合、専門家である加藤玄智がなぜ、そうした理解に苦しむ主張をしうるとお考えですか?
  3. あなたは呪物崇拝がアニミズムの一形態であるとまで認めていますが、アミニズムの定義が全てのものに人格的な神、霊が宿ることだと知った上で、厠神信仰等の人工物の神の崇拝が呪物崇拝となることは決してありえないと断言されているという理解でよろしいでしょうか?
  4. 論文は読み手側に一定の知識があると想定し、呪物崇拝の意味する事が読み手には自明にも関わらず、論文の作法に反してこの論文が例外的に一々書かなければならない根拠はありますか?
  5. 加藤玄智は被引用も多く、彼が神体等の信仰を(神が宿らぬ超常現象的な呪力の)人工物自体だけの信仰だと学説をたてれば、それなりの批判を受けそうですが、それに関する批判等があった証拠はありますか?--2400:2410:C1A3:5300:F176:CD4:AEAC:3374 2021年10月27日 (水) 06:19 (UTC)[返信]
「結び付けて崇拝するのを霊物崇拝」とあり、その後にも「呪物」の信仰とあります。呪物を霊的なものと結びつけるか、霊的でないものと結びつけるかという議論です。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 08:39 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、加藤玄智に関する論文では呪物崇拝の事例を(a)人工物の神か、(b)人工物に宿る神かはどちらの解釈もできるようにぼかしているので、いちいち言及しておらず、両方をさしていると考えるべきです。ですから、それを(a)人工物の神であると決めつけるのは、あなたの考えを採用するならば独自研究であることになります。論文では両方の解釈も認められることが自明であると判断し、非自明性に徹するべき論文での記述に(自明であるため)含めなかったということでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:C32B:C30D:66BC:43B 2021年10月27日 (水) 14:44 (UTC)[返信]
呪物信仰が、どのような信仰と結びつけられるかという議論です。物の信仰を霊物信仰と結びつけるものを霊物崇拝として、呪物崇拝と分ける場合があるという意味であり、人工物、もしくはより広く物の信仰がある事が前提となっています。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 08:43 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、加藤玄智に関する論文では呪物崇拝の事例を(a)人工物の神か、(b)人工物に宿る神かはどちらの解釈もできるようにぼかしているので、いちいち言及しておらず、両方をさしていると考えるべきです。ですから、それを(a)人工物の神であると決めつけるのは、あなたの考えを採用するならば独自研究であることになります。論文では両方の解釈も認められることが自明であると判断し、非自明性に徹するべき論文での記述に(自明であるため)含めなかったということでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:C32B:C30D:66BC:43B 2021年10月27日 (水) 14:45 (UTC)[返信]
コトバンクの該当箇所をもう一度お読み下さい。フェティッシュの対象がまず観念され、それが崇拝される理由が霊物崇拝だったり非人格的な力だったりするという議論であり、フェティッシュの存在が先に前提されています。独自研究はあなた側である事をご理解ください。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 21:54 (UTC)[返信]
同様に重要な概念として特筆性の概念がありますが、一般に観念される特定の人工物や加工物への崇拝という最初の定義から宗教学的な対象へとなったとき、現在では使われなくなってきていると該当箇所にあり、特筆性がありません。
更に、あなたの議論から即加藤の記述を持って他の人工物の神を直接フェティシズムに結びつけるの不可能です。加藤が書いたと書かれているものを出典なく解説し続けている事になります。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 22:00 (UTC)[返信]
英語版ウィキをご一緒に見てみましょう。”A fetish (derived from the French: fétiche; which comes from the Portuguese: feitiço; and this in turn from Latin: facticius, "artificial" and facere, "to make") is an object believed to have supernatural powers, or in particular, a human-made object that has power over others. Essentially, fetishism is the attribution of inherent value, or powers, to an object.” とあります。このfetishの存在が前提にあるという議論でありまして、これの原因が霊的なものだ、こうなって参りますと、アニミズムの一部だと、まぁこんな風であろうと議論しておる訳で御座います。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 08:56 (UTC)[返信]
wikipedia の他の記事を出典として引用することはできません。 wikipedia の方針を読んでから議論に参加してください--2400:2410:C1A3:5300:C32B:C30D:66BC:43B 2021年10月27日 (水) 14:56 (UTC)[返信]
ウィキペディアの出典の話をね、しとるわけじゃないんですよ、フェティシズムが一体どんなものかねぇ、ここでフェティシズムはどうあるか客観性をもって議論できるかねぇとこういう話をしとるんですわ。fetishを英語の辞書で引いても上記の意味しか出てこんし、Britannicaをみてみますと、宗教的な概念では載っていない特筆性のない語なんですわ。そこでもおんなじような議論されてますから、ちょいと確認されるとよかと思います。--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 21:32 (UTC)[返信]
そういうお前さんも、フェティシズムとはこの事話すんでっせいうて、英語版ウィキペディアあげなさっとったし、自己矛盾と違うか?--小出-小坂井会話2021年10月27日 (水) 21:47 (UTC)[返信]
本筋から離れた点での議論は避けるようにすべきです。こうした点も Wikipedia の方針に書かれているはずです。wikipedia の方針をまず読んでから冷静かつ礼儀を忘れずに議論に参加してください。--2400:2410:C1A3:5300:9B7E:EDEB:BE3F:1ECA 2021年11月10日 (水) 13:16 (UTC)[返信]
  • 一般的コンセンサスとまで言えるか分かりませんが、上の議論で論拠となっているコトバンクで言及されるエドワード・B・タイラーによるフェティシズムの見方は、『原始文化 <下>』第14章アニミズム(4)にあるので皆さんご参照ください。フェティッシュの存在が前提されておると私は読解したします。小出-小坂井会話2021年10月28日 (木) 03:41 (UTC)[返信]
    どうやらコントが[1]などにもあるように、また上にあげた文献にもあるように原始宗教一般を捉えてフェティシズムという語を使っているようだが、この用例はアニミズムにあたると指摘したのがタイラーで、タイラーはフェティッシュの存在を前提にしたものがフェティシズムだとしています。更にコントの用例でいけば「原始宗教」一般を指すのであるから、物に関する神や神体などに関する記述にフェティシズムを持ってくるのは全くもってナンセンスだという事になる。--小出-小坂井会話2021年10月28日 (木) 04:32 (UTC)[返信]
    コントのフェティシズムの見解についての上の出典箇所について、表現がやや曖昧な部分があり混乱が見られるが、上述の文献『原始文化 <下>』の15章アニミズム(5)ではタイラーはコントはフェティッシュを単一の対象を支配するが、これとは別に抽象的な神々へと概念が発展した事で多神論が成立したとしたとしており、更にコントの文献「実証哲学」でも、詳しくここで分析するのは避けるが、フェティシズムと多神論を別の発展段階としていることから、いずれも特定の物の崇拝の対象としてのフェティッシュを前提としていると言える。--小出-小坂井会話2021年10月28日 (木) 07:10 (UTC)[返信]
    タイラーの著作についてはノート:神_(神道)#タイラーの学説に関する誤った解釈についてをお読みください。進化論的な発展段階・進化段階の問題点、呪物崇拝と多神教との関係について一方的な解釈を鵜呑みにせずに検証できるように原著から翻訳をしました。--2400:2410:C1A3:5300:9B7E:EDEB:BE3F:1ECA 2021年11月10日 (水) 13:24 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「フェティシズム」の解説. URL=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0-123126#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
  2. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「呪物崇拝」の解説 URL=https://kotobank.jp/word/%E5%91%AA%E7%89%A9%E5%B4%87%E6%8B%9D-78176#:~:text=%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%B6%E3%81%A4%E2%80%90%E3%81%99%E3%81%86%E3%81%AF%E3%81%84%E3%80%90%E5%91%AA%E7%89%A9,%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%80%82
  3. ^ フェティシズム(呪物崇拝物神崇拝)をアニミズムの一部としてみる人類学者タイラーの説が一般的なコンセンサスとして受け入れられており、呪物崇拝は人工物に宿る神霊の崇拝を含む。
  4. ^ 小学館 2021j, p. 「フェティシズム」.

神の類型の呪物崇拝を人工物の神に戻す提案[編集]

神の類型のうち「人工物の神(呪物崇拝、物神崇拝)」について、この項は前は「人工物の神」でした。呪物崇拝について追加された文献はこのページで現在上げられているのは加藤玄智とロイ・アンドリュー・ミラーによるものでありますが、これ以外で神道の神とフェティシズム・呪物崇拝を結びつける文献はあげられていません。もともとの記述にあった神について、上げられている文献でそれらの神は呪物崇拝とは結び付けられていません。よって私の提案は、項の名前を人工物の神に戻し、加藤玄智などの記述はこの記事の「定義」の項の側などに持ってくるべきだというものです。加藤玄智の記述の後にフェティシズムなどがいかなるものかについて永遠に説明されているが、これはそれぞれのページで説明されるべきである。また、このノートの別議論でフェティシズムが如何なるものかについて議論しています。私の議論は「フェティシズムはフェティッシュの存在が前提されている」というものですが、これは別途議論するにして、現在上げられている文献では、元々書かれていた「人工物の神」をフェティシズムや呪物崇拝に結びつけることはできない。よって私の提案が提起される。以上であります。 小出-小坂井会話2021年11月1日 (月) 05:42 (UTC)[返信]

四点あります。
・そもそも論点が違い質問に対する回答もありませんでした。
・論点が違うことを認めた上で、この提案に問題があるとすれば、「フェティシズムはフェティッシュの存在が前提されている」を根拠として人工物の神を呪物崇拝に結びつけることはできないという主張は、独自研究的な飛躍、暴論かと思います。今までの議論では、一般的に受け入れられてる定義に反して、霊が宿る人工物を呪物崇拝から排除しつつ強引な主張や検閲をあなたは繰り返しています。こうした主張を受け入れてしまえば、論理的に破綻している主張であっても、攻撃的な姿勢で開き直れば一般的な定説でも覆せる悪い前例となります。細かな論点は↓のトピックを見てください。
・また『定義の項の側』とは何かを詳しく説明してください。wikipedia は辞典ではない事をもう一度思い出してください。
・呪物崇拝の説明については、呪物崇拝の基本的な定義が誤解され、受け入れられていないことが初期の議論でうかび上がったと思います。よってそうした定義の説明には特筆性があることが証明されたと考えます。--2400:2410:C1A3:5300:1297:3799:3C12:6976 2021年11月10日 (水) 06:43 (UTC)[返信]
小出-小坂井さんの意見に賛成します。そもそも該当の場所は「人工物の神」の類例を説明する場所であり、「人工物の神」の類例として記述されているいくつかの例は、それらを呪物崇拝として記述しておりません。にもかかわらず題名自体を「人工物の神(呪物崇拝)」にし、一律にすべて呪物崇拝であるかのように記述することは、それらの出典に反する内容です。ものに対する信仰を「フェティシズム」と主張する「説」があるのであればそれは別枠で「AはBをフェティシズムとしている」と記述すればよい話であり、未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロック氏の固執した編集は単にこれまでの出典に基づく内容と整合性を取れなくし、記事を破壊していると言わざるを得ません。それは厠神竈神を出典とし、これらを呪物崇拝としている所にもみられます。何度となく言われてきたことですが、これらの出典は厠神や竈神を呪物崇拝とはしておりません。--Xyy会話2021年11月12日 (金) 13:42 (UTC)[返信]
ウィリアム・ジョージ・アストンは草薙の剣や竈神(かまど神)を呪物崇拝と結びつけています。第一義に神体を呪物崇拝の例としてあげていますが、物自体を神として崇拝する慣習についても指摘しています。
日本では、他の国と同様に、神のしるしが、第一に、神の実際の存在の座として、第二に、神そのものとして見なされる傾向がある。多くの人は御霊(みたま)と神体を区別せず、中には神体を神の実物と混同する者もいる。これは一種の偶像崇拝である。また、神体を独立した神とする場合もある。太陽の女神の御神体である鏡は、雨乞いの神として別の崇拝の対象となっている。現在でも、この鏡や代表物には宗教的な敬意が払われている。剣の「フツノミタマ」には神社がある。また、草薙と呼ばれる剣は、名古屋近郊の熱田で何世紀にもわたって崇拝されてきた。この剣は、須佐之男命が日本のアンドロメダを救うために殺した大蛇の尾の中にあったもので、妹の太陽神への捧げ物として送られたものである。この種の呪物崇拝は、後世の堕落した宗教の形態であり、偉大な自然神の崇拝と混同してはならない。いくつかの人工物は神体とされないが、人間の助けとなるものとしてそれ自体が崇拝されている。例えば竈は神として崇められている。現在の陶芸家は、年に一日だけ休息を許されているふいごに敬意を払い、お供え物をしている。迷信深い日本の主婦は、今でも2月12日に、針を横にして寝かせ、ケーキなどの小さなお供え物をして休みを与えている。神道に偶像がないのは、ユダヤ教やイスラム教のように、擬人化された絵や像を使うことによる弊害への反動によるものではなく、中国から覚醒の刺激を受ける前の日本民族の芸術的発展の低さによるものである。それは強さよりもむしろ弱さを示している。日本人の神々に対する概念の特徴である曖昧さの多くは、肖像をもっと自由に使うことで回避できた。原理的には、肖像と隠喩は同じものだ。絵や彫刻で神を老人として表現することは、父と呼ぶことに比べて何の害もないが、実際にはどちらの場合でも一般の人々はここで止まることはないということを、幅広い経験が示している。宗教を堕落させる傾向が強く、信仰の対象となる特定の物理的物体に特別な美徳を与えることで、(それが非常に不完全な象徴にすぎない)神が存在することを忘れてしまうことさえある。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.73
竈神は象徴としての偶像崇拝、竈に宿る霊神に対する呪物崇拝のいずれかという問題が発生しますが、これらは言語や習慣によって不明確であり、いずれの崇拝も(崇拝者の理解によって)成り立つという立場をとっています。
神道では、個々の対象を神格化したものと、類の神格化との区別が、必ずしもうまく保たれていない。例えば、「かまどの神」がすべてのかまどの神であるのか、それともそれぞれに別の神がいるのかは疑問であり、参拝者によって答えは違うであろう。日本人が単数形と複数形という文法上の区別を習慣的に無視していることが、このような問題を明確にする上での強力な障害となっている。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.16
これとは別にGeorg Jacobは「Das chinesische Schattentheather, Stuttgart: 1933. Pp.xv+130」において中国における竈神の崇拝を呪物崇拝に結びつけています。
日本文化の構造的曖昧さが崇拝者によって答えが違う不条理な結果をもたらし、呪物崇拝と多神教の両方の竈神崇拝が成立することは、呪物崇拝に関するタイラーの見解とも共通します。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 02:31 (UTC)[返信]
私の主張とどこが矛盾しているんでしょうか?--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 04:03 (UTC)[返信]
もう一度議論をお読みいただきたいのですが、私はここではフェティシズムがいかなるものであるかは論じておらず、出典として正しくないので記述を改めるべきだとしています。このページの「定義」の項に持ってくるのはウィキペディアが辞書でないこととは関係ありません。具体的に言えば、『「フェティシズム」としての議論』などの項を作る、などが考えられます。--小出-小坂井会話2021年11月12日 (金) 17:13 (UTC)[返信]
たしかに問題は呪物崇拝の議論とは言えないでしょう。あなたの呪物崇拝や宗教人類学の定説に関しての理解の不足、霊が宿る人工物をかたくなに呪物と認めない独自理論が議論となっているため、部外者からすれば論点そのものがおかしく見えるでしょう。
  1. 加藤玄智に関する一方的な独自解釈(内約を開示するとパタンと主張しなくなり他の議論にすり替わる)
  2. 人文学の議論に相応しくない白か黒かの一つの答えしか許さない論法と検閲
  3. コント理論の支持をするなど、宗教人類学の主流派の理論と独自解釈の違いが分かっていない事、タイラーの誤読をしている事
まず宗教人類学の入門レベルの本や著述に目を通してから議論に参加してください。入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで独自解釈に至る人は多くいますが、主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できないのであれば wikipedia の参加者として向いてないと思います。またこうした独自解釈に基づいて断言を押し通し、白か黒かの議論に持っていく言動はあらしに特有の行動様式であり、wikipedia のガイドラインを読んでから冷静に議論に参加するようにしてください。---2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 02:49 (UTC)[返信]
『フェティシズムの議論で参考になる文献としては、『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社 第一章、などがあります。』と書いています。一方的に議論にならない論破をしようとする姿勢をやめて下さい。あなたは主流派という割に自分の主張や原典に固執し、出典をあげませんね。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 03:55 (UTC)[返信]
加藤氏の議論は全ていずれも神体や伝説の解釈にとどまり、物に関する多神における神とは明らかに別のものの記述でありわたしの論点から変わりません。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 04:00 (UTC)[返信]
ノート:神_(神道)#人工物の神とフェティシズムや呪物崇拝の項を分ける提案にわかりやすくまとめましたのでご確認ください。--小出-小坂井会話2021年11月15日 (月) 12:37 (UTC)[返信]

人工物の神とフェティシズムや呪物崇拝の項を分ける提案[編集]

これまでの議論から、フェティシズムという現象と、多神論で考えられる神々がとりあえずは別の存在である事に関しては理解は頂いたと思います。その意味は、多神論ではある抽象的な神々を崇拝するのに対して、フェティシズムは具体的な特定の物体を崇拝するというものです。そして、多神論の神の拝み方に関して、フェティシズムと議論される可能性のある方法があるという議論に終始しています。ですから、神の類型として、人工物の神をまず書いた上で、神の定義の項の所に、「フェティシズムとしての議論」などの項を作り、そこに書くのが良いと思います。これは神体などがあるのが何も人工物や物の神に限っていない事とも整合的です。また、元々の記述にはそれぞれの神と呪物崇拝やフェティシズムは文献で結びつけられてはいません。--小出-小坂井会話2021年11月15日 (月) 12:37 (UTC)[返信]

多神論の神の拝み方以外の物自体の信仰の記述を、IPユーザーは後から出して来ましたが、わたしの論点は変わりません。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 04:04 (UTC)[返信]
議論の論点として多神の神における物に関する神か、フェティシズムの現象とされる神への対し方があるかという議論です。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 04:10 (UTC)[返信]
『これまでの議論から、フェティシズムという現象と、多神論で考えられる神々がとりあえずは別の存在である事に関しては理解は頂いたと思います…そして、多神論の神の拝み方に関して、フェティシズムと議論される可能性のある方法があるという議論に終始しています。』
あなたの入れ込んでいた進化的解釈がないという前提ならば、偶像崇拝における神は象徴として参拝される点については合意できますが、これを別の存在とする見解には反対します。むしろ同じ存在に対して偶像崇拝、呪物崇拝が行われうるとすべきです。ただしこの見解でさえ神道には自動的に適用できません。
明治維新以前から日本で活動していたウィリアム・ジョージ・アストンは神道における崇拝の特徴を以下のように挙げています。
  1. 偶像がなく非常に不完全な象徴しかない
  2. 単数形と複数形の文法上の区別が曖昧なため、個別の神か類の神かの区別ができず、個別の参拝者による
  3. 御霊(魂、神)と神体の区別がされていない、人工物を神として礼拝することさえある
神道に偶像がないのは、ユダヤ教やイスラム教のように、擬人化された絵や像を使うことによる弊害への反動によるものではなく、中国から覚醒の刺激を受ける前の日本民族の芸術的発展の低さによるものである。それは強さよりもむしろ弱さを示している。日本人の神々に対する概念の特徴である曖昧さの多くは、肖像をもっと自由に使うことで回避できた。原理的には、肖像と隠喩は同じものだ。絵や彫刻で神を老人として表現することは、父と呼ぶことに比べて何の害もないが、実際にはどちらの場合でも一般の人々はここで止まることはないということを、幅広い経験が示している。宗教を堕落させる傾向が強く、信仰の対象となる特定の物理的物体に特別な美徳を与えることで、(それが非常に不完全な象徴にすぎない)神が存在することを忘れてしまうことさえある。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.73
神道では、個々の対象を神格化したものと、類の神格化との区別が、必ずしもうまく保たれていない。例えば、「かまどの神」がすべてのかまどの神であるのか、それともそれぞれに別の神がいるのかは疑問であり、参拝者によって答えは違うであろう。日本人が単数形と複数形という文法上の区別を習慣的に無視していることが、このような問題を明確にする上での強力な障害となっている。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.16
大まかに言えば、神道には偶像がない。通常、神体には、それが象徴する神の形に似せたものを与えようとはしない。少数だが例外を挙げることができる。太陽の女神の鏡は、元々は供物であったが、神話の中では太陽の形を模して作られたとされている。男根の神、八岐大蛇(やちまたひこ)と八岐大蛇姫(やちまたひめ)は人間の姿で表現されている。案山子の神、クヘビコは無骨な偶像と考えてよいだろう。能登の国にはスクナビコナ神とオホナモチ神の像とされる石の偶像がある。現在、神社で売られている神々の絵は、中国や仏教の影響を受けたことによる。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.71
神道では、偶像と言えるべきものが少数で、参拝者にとって象徴と呪物との区別が曖昧な状態になっています。さらに礼拝の仕方だけが、呪物崇拝を決定するものではありません。この分野のエキスパートである加藤玄智は日本神話を読み解き、呪物崇拝を神話的に結びつけています。
加藤玄智ウィリアム・ジョージ・アストン等の西洋の日本研究者への批判者でもありますが、文献内で神と呪物崇拝を神話や信仰のあり方から結びつけています。アストンは案山子の神を無骨な偶像としていますが、加藤玄智は呪物崇拝の事例としています。加藤玄智から神道を学んだとされるホルトムの神道関連の著作は(もはや最新ではありませんが)比較宗教の権威から最高の評価を得ており、比較宗教学において加藤玄智の神道研究の影響を無視することはできないでしょう。元々の人工物の神の特筆性の低い辞書的な出典よりは、学術文献として強力なものです。それと同レベルの比較宗教学のエキスパートからの出典をあなたはいまだに出せておらず、また加藤玄智に関しての記述の誤った理解、コントを援用しようとし、霊物を呪物崇拝から排除する等の主流派に反する主張を繰り返している事からも、あなた自身がまず比較宗教学の入門レベルの書物を読んでから議論に参加して頂くべきです。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 04:38 (UTC)[返信]
別の存在という書き方がまずかったようです。「単数形と複数形の文法上の区別が曖昧なため、個別の神か類の神かの区別ができず、〜」などの記述が論理だった思考として万人に受け入れらるかなどはここでは議論の対象ではありませんし、あなたがここに書かれた議論は理解しますが、これらの神の捉え方があるという話と、ひとまず多神論の神としてこういう神が観念・言論されているというのは別に記述できるという意味です。存在と現象の区別、もしくは存在と存在の区別であり、フェティシズムと観念されうるような多神論の神の拝み方という現象と多神論の神という存在の区別、もしくは純粋に拝まれる物の存在と多神論の神の存在の区別がある、という事でしょうか。加藤氏の言論が最高の評価を受けている、主流派はこうこうだ、などと主張される割にそれらを裏付ける文献を上げてくださらないのは気になるところです。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 05:35 (UTC)[返信]

タイラーの学説に関する誤った解釈について[編集]

ノートの内容がタイラーの学説だけの議論となるのも、いかがなものかと思いますが、無視をして誤った理解が増えて奇説、珍説が生まれるのも問題があると思うので、タイラーの学説について整理をしたいと思います。

  1. タイラーの進化論的な宗教の解釈に関する学説
  2. タイラーの呪物崇拝をアニミズムの一種とする理論
  3. 多神教・偶像崇拝と呪物崇拝に関してのタイラーの一般理論

1.進化的解釈は今日では一般的に否定されています。このノートでは、進化的解釈を肯定していると見られる論調もありますが、呪物崇拝やアニミズムから多神教、多神教から一神教といった進化的な発展段階は一般的に受け入れられていません
2.呪物崇拝を人工物に宿る霊に対する崇拝とする学説は一般的に受け入れられており、タイラーは以下のように解説しています。

このように、世界を自由に歩き回っている他の霊的存在は、行動するための呪物を見つけ、自分自身を具現化し、彼ら信者に目に見える形で提示する。私たちが無生物と呼ぶものを通しての霊的作用に関連する2つの一般的な考え方の間に明確な線を引くことは非常に困難である。理論的には、物体がその固有の魂や霊の意志と力によってあたかも行動しているという考え方と、外部の霊がその物質に入り込んだり、外部から作用したりして、その物体を肉体や道具として利用しているという考え方を区別することができる。しかし、実際にはこれらの概念はほとんど不可分に混ざり合っている。このような状況は、ここで進められているアニミズムの理論を裏付けるものである。この理論では、両方の考え方を、人間の魂という同じ原初的な考え方の類似した発展形として扱っているため、気づかないうちにお互いに混ざり合ってしまうことも十分にあり得る。文化の異なる等級における呪物崇拝とその関連教義のいくつかの典型的な記述に頼ることは、過度に正確な一般的定義を試みるよりも安全な処理方法である。
Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.140-141[1]

このうち進化的解釈と見られる箇所もあるので、読みながら頭のなかで排除してください。

このように、下層文明における呪物崇拝は、我々がこの言葉を連想する西アフリカの黒人に限ったものではない。しかし、実際に西アフリカでは広く普及しており、外国人観察者の注目を特に集めていることもあって、西アフリカからの記述は記録の中で最も充実しており、最も詳細なものとなっている。故Waitz教授がこれらに関わる原理を一般化したことは、目的にかなっている。彼は、黒人の呪物崇拝に対する考え方を次のように述べている。彼の考えによれば、霊はあらゆる感覚的な物体に宿っているか、宿ることができ、しばしば取るに足らないものの中に非常に偉大で強力なものが宿る。これら霊は、それが宿っている肉体的なものにしっかりと不変的に結びついているとは考えず、その中に通常の、あるいは主要な住処を持っているだけだと彼は考えている。しかし、ほとんどの場合、この2つを組み合わせて全体を構成し、この全体が(ヨーロッパ人が言うところの)「呪物」であり、彼らの宗教的崇拝の対象となる。
Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.144[2]

人工物に宿る霊神の崇拝はこうして、呪物崇拝として考えるのが主流派でしょう

これに対してタイラーの宗教進化論(呪物崇拝から多神教への発展等)と思わしきものは、少数派ないし否定された学説と考えるべきです。タイラー自身も呪物崇拝から多神教への進化は厳密な定義を逃れる段階だと事例を挙げて言及しており、タイラーは厳密な理論の一般化を避けています。

後述しますがタイラーは呪物崇拝の基準として単なる象徴(symbol)か人工物に霊が宿る『入れ物』かを基準の一つとして挙げています。万物に神が宿るという、神道の一般的な概念では、アニミズムや呪物崇拝の定義と一致するため、他の多神教に対して呪物崇拝に分類するのは容易です。

3. 呪物崇拝と多神教の偶像崇拝は人工物の象徴なのか、人工物と物理的につながりがあるかでタイラーは区別しているが、それらの分離が容易でない事が多い。タイラーはこれについて、呪物崇拝から多神教への発展を厳密に定義することが困難であり、事例として挙げたものについても証拠に乏しいとしています[3]

呪物崇拝の一般的な見出しの下で、「木や石」の崇拝を別なものとして考えることができる。このような物体は、単に祭壇として使用されている場合、呪物崇拝の性質ではなく、まず実際にそれらに崇拝が捧げられていることを確認する必要がある。そこでは『木や石』は神々の単なる理想的な代表として設置されているのか、それともこれらの神々はそれらと物理的につながり、それらに具現化され、それらに寄り添い、それらを通して作用していると考えられているのか、という難しい問題が生じる。言い換えれば、それらは単なる『象徴』に過ぎないのか、それとも信者の心の中で本物の呪物になってしまったのかという問いである。崇拝者の概念は、この点について明示されている場合もあれば、状況からかなり推測される場合もあり、疑わしい場合も多い。
Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.147[4]

神道における偶像や肖像の崇拝というのは、また別の問題として検討されるべきですが、タイラーの中での呪物崇拝と偶像崇拝の切り分けは、霊が具体化されること、偶像・肖像と呪物の性質が適合することを挙げています。

一般的な主題を調査する上での古くからある最大の難しさは、肖像がその前に並んでひざまずいている2人の信者にとってさえ、2つのまったく異なるものである可能性があるということだ。一つには、それはただの象徴、肖像画、記念品かもしれない。一方、それは、そこに住むか、それを通して行動する生命または精神のおかげで、知的で活発な存在でもある。どちらの場合も、肖像崇拝は霊的な存在への信念と関連しており、実際にはアニミズムの従属的な発展にすぎない。しかし偶像崇拝が呪物崇拝と適切に結びつくのは、肖像が霊に提供された物質的な体の性質に適切である場合に限る。この観点から、ここでその目的と歴史上の位置を検討することが提案されている。偶像は、それが霊の具体化(spirit-embodiment)の理論に属する限り、肖像画と呪物の性格を組み合わせなければならない。これを念頭に置いて、偶像が何らかの形でそれ自体がエネルギッシュな物体として、または霊神を祀るまさに『入れ物』として、文明の過程で、力を発揮したり、個人的にアニメートした肖像自体が、偶像崇拝者の心に浸透しているかどこまで見られているかに気づき判断することにしよう。
Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.154-155[5]

呪物崇拝と偶像崇拝の線引きの素材として、肖像が人工物の霊的性質に合致し、霊が宿り具体化するのであれば、人工物だけでなく祭壇や肖像に霊神が宿る事も呪物崇拝としています。--2400:2410:C1A3:5300:1297:3799:3C12:6976 2021年11月10日 (水) 06:14 (UTC)[返信]

公平を期すために、とりあえず私が拠っていた箇所を取り出しておきます。
It seems to me, however, more convenient to use the word Animism for the doctrine of spirits in general, and to confine the word Fetishism to that subordinate department which it properly belongs to, namely, the doctrine of spirits embodied in, or attached to, or conveying influence through, certain material objects. Fetishism will be taken as including the worship of ' stocks and stones,' and thence it passes by an imperceptible gradation into Idolatry.
しかしながら、わたしには、アミニズムという語は魂に関するドクトリン一般につかい(指し示すという意味)、そして「フェティシズム」という語は、特定の物体で体現されるか、それについているものか、もしくはそれを通して影響を伝えてくる魂のドクトリンに、適切に関係づけるような下位概念に限定されるのが良いように思われる。よってフェティシズムは「木や石」の信仰を含むものと捉えられ、偶像崇拝へと変化していくものとなろう。Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.144[6]
An acute remark of Auguste Comte's calls attention to an important process of theological thought, which we may here endeavour to bring as clearly as possible before our minds. In his ' Philosophic Positive,' he defines deities proper as differing by their general and abstract character from pure fetishes (i.e., animated objects), the humble fetish governing but a single object from which it is inseparable, while the gods administer a special order of phenomena at once in different bodies. When, he continues, the similar vegetation of the different oaks of a forest led to a theological generalization from their common phenomena, the abstract being thus produced was no longer the fetish of a single tree, but became the god of the forest ; here, then, is the intellectual passage from fetishism to polytheism, reduced to the inevitable preponderance of specific over individual ideas.
オーギュスト・コントの鋭い指摘により、神学的思考の重要な過程へ洞察が導かれます。これは我々がいま我々の精神に出来るだけ明瞭にあらわそうとしているものだろう。彼の「実証哲学」の中で、彼は神々を適切に、それらの一般的で抽象的な特徴によって、純粋なフェティッシュ(生命が宿っている物質)とは別のものとして定義している。ただのフェティッシュは分けがたい単一のものを支配するだけだが、神々は異なった物体に同時にある現象(あらわれ)の特別な秩序を統帥する。そして彼によると、森の中の異なったオークスの木々の類似の植生(の観察)から、それらの共通の現象から、神学的な一般化に至ったとき、そこで発生する一般的な存在はもはや単一の木のフェティッシュではなく、森の神となるのである。よって、フェティシズムから多神論への知的移行が開かれ、個々の考え(アイデア)に対する特質性の不可避な優位性へと還元されていくのである。Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.242-3[7]

原文は順にここで見れます。[2] [3] 文脈を確認したい方はどうぞ。--小出-小坂井会話2021年11月12日 (金) 18:47 (UTC)[返信]

引用した箇所が、主流派の定説からかけ離れた呪物崇拝の独自解釈に至った根拠ということですか?あなたはタイラーが理論化した人工物に霊が宿る崇拝を呪物崇拝でないと断言し続けていますが、人文学において白か黒かの結論を求めるあなたの考え方には議論に参加するまえに入門レベルの知識をつけて頂く必要があるでしょう。コントの学説はあまりにも厳密な定義によって理論上と現実の呪物崇拝が乖離してしまい最終的に定説としては破棄され、タイラーの実践的で幅広い魂の一般理論が受け入れられた程度の事は、宗教人類学の入門書なりを読めば分かると思います。コントやタイラーの著作を読むまえに、宗教人類学の入門レベルの本や著述に目を通してから議論に参加してください。入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで独自解釈に至る人は多くいますが、主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できないのであれば wikipedia の参加者として向いてないと思います。またこうした独自解釈に基づいて断言を押し通し、白か黒かの議論に持っていく言動はあらしに特有の行動様式であり、wikipedia のガイドラインを読んでから冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:88FB:527C:126B:74B2 2021年11月17日 (水) 22:17 (UTC)[返信]

脚注

  1. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.140-141
  2. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.144
  3. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.251
  4. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.147
  5. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.154-155
  6. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.144
  7. ^ Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.242-3

コントに関して[編集]

どうやらコントが[1]などにもあるように、また上にあげた文献にもあるように原始宗教一般を捉えてフェティシズムという語を使っているようだが、この用例はアニミズムにあたると指摘したのがタイラーで、タイラーはフェティッシュの存在を前提にしたものがフェティシズムだとしています。更にコントの用例でいけば「原始宗教」一般を指すのであるから、物に関する神や神体などに関する記述にフェティシズムを持ってくるのは全くもってナンセンスだという事になる。--小出-小坂井(会話) 2021年10月28日 (木) 04:32 (UTC)
コントのフェティシズムの見解についての上の出典箇所について、表現がやや曖昧な部分があり混乱が見られるが、上述の文献『原始文化 <下>』の15章アニミズム(5)ではタイラーはコントはフェティッシュを単一の対象を支配するが、これとは別に抽象的な神々へと概念が発展した事で多神論が成立したとしたとしており、更にコントの文献「実証哲学」でも、詳しくここで分析するのは避けるが、フェティシズムと多神論を別の発展段階としていることから、いずれも特定の物の崇拝の対象としてのフェティッシュを前提としていると言える。--小出-小坂井(会話) 2021年10月28日 (木) 07:10 (UTC)

オーギュスト・コント(太陽も含む)天体、大地、海を呪物とする等(実証哲学を読んでいるならお分かりのはずです)、コントの三段階は一般的に支持されていません。タイラーに関しても主流派とは異なる独自解釈に辿り着いたようですが、ノート:神_(神道)#タイラーの学説に関する誤った解釈についてを見てください。コントやタイラーの著作を読むまえに、宗教人類学の入門レベルの本や著述に目を通してから議論に参加してください。入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで独自解釈に至る人は多くいますが、主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できないのであれば wikipedia の参加者として向いてないと思います。またこうした独自解釈に基づいて断言を押し通し、白か黒かの議論に持っていく言動はあらしに特有の行動様式であり、wikipedia のガイドラインを読んでから冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:3AE6:89A4:54A4:8A13 2021年11月11日 (木) 22:49 (UTC)[返信]

まず一点目としてコントが何を言ったかですが、「特定の物の信仰であるフェティシズムから多神論へ移行した」と言ったと私はしましたが、それはこの指摘された議論で既にあげている文献[4]で指摘されており、これは[5]にある通り一橋大学が出したものです。また、原典としては、google booksのPositive Philosophy p.559をご覧下さい。あなたも『実証哲学』を読んでいればコントが星の崇拝から多神論へ行ったとしたり、個々の物の抽象から抽象神へ行ったとする議論はご存知の筈です。 小出-小坂井会話2021年11月15日 (月) 18:45 (UTC)[返信]

主流派でないコントの呪物崇拝にこだわっている点だけみても入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで定説を知らぬまま独自解釈に至っている姿勢は変わらずです。独自解釈を広げる前に基本を学びましょう。--2400:2410:C1A3:5300:88FB:527C:126B:74B2 2021年11月17日 (水) 20:40 (UTC)[返信]
主流派といいますが、私は文献を上げていますがあなたはあげていません。議論が成立していません。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 04:15 (UTC)[返信]
文献をあげてないとはこれまでの経緯を全て忘れたのでしょうか?ノート:神_(神道)#タイラーの学説に関する誤った解釈についてについて理解なされましたか?独自解釈によってまともな議論を拒否しているのは、あなたではなないでしょうか?あなたはタイラーが理論化した人工物に霊が宿る崇拝を呪物崇拝でないと断言し続けていますが、人文学において白か黒かの結論を求めるあなたの考え方には議論に参加するまえに入門レベルの知識をつけて頂く必要があるでしょう。コントの学説はあまりにも厳密な定義によって理論上と現実の呪物崇拝が乖離してしまい最終的に定説としては破棄され、タイラーの実践的で幅広い魂の一般理論が受け入れられた程度の事は、宗教人類学の入門書なりを読めば分かると思います。コントやタイラーの著作を読むまえに、宗教人類学の入門レベルの本や著述に目を通してから議論に参加してください。入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで独自解釈に至る人は多くいますが、主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できないのであれば wikipedia の参加者として向いてないと思います。またこうした独自解釈に基づいて断言を押し通し、白か黒かの議論に持っていく言動はあらしに特有の行動様式であり、wikipedia のガイドラインを読んでから冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 05:01 (UTC)[返信]
小出-小坂井(会話)さんは、当方がこれまで書いてきた質問や文献、出典、指摘の主要な要点を無視されており、毎回新たな(主に出典や質問の誤読、独自解釈による)論点はずしで彼の自分勝手な議論につきあわされています。小出-小坂井(会話)さんは独自解釈を補強するために、本筋には何の影響も与えない議論や、延々と自分が読んだものを出典として書き込んでおり、彼のこれまでのコントの援用、加藤玄智に関しての独自解釈、タイラーに関する都合の良い部分だけを読んだと報告するが、文献を挙げて指摘するとパタンと主張しなくなり、新たな資料を挙げてきて他の論点のすり替えをする等、彼の自己満足のための議論のための議論に付き合うよりも、小出-小坂井(会話)さんには議論をどのように解決に導くかの建設的な対応が求められています。加藤玄智の文章に関して断言されていたことは実際の内容を開示するやことごとく小出-小坂井(会話)の書いた予想は外れて、その後はそのことに触れないように沈黙、コントやタイラーの定説とは異なる独自解釈、誤読等による援用をすることで議論を疲弊、劣化させ、建設的なタグ入れや、特筆性を高めたり、誰が書いたかを明確化するように文言を直すなどの提案もなく、議論を解決に導こうとするどころか脈絡もなく議論に影響を与えない自分の勉強の成果(多くは独自解釈、独自研究)を出典・文献と称して、延々と何をしたいかも不明な自己の正統化に付き合わせる等、自らの偏向した排他的な編集姿勢が問題を複雑にしていることに気づくことさえできていません。--2400:2410:C1A3:5300:490A:B860:2655:4AE3 2021年11月18日 (木) 20:18 (UTC)[返信]
あなたは私は既に何回も書きましたが、主流派の議論だと何回も書き、わたしの議論が誤っていると繰り返しますが、それらを裏付ける文献をあげていません。議論が成り立っていないのはあなたの側であることをご確認ください。--小出-小坂井会話2021年11月19日 (金) 00:11 (UTC)[返信]

次に2点目として、フェティシズムの議論で参考になる文献としては、『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社 第一章、などがあります。いずれも特定の物への信仰が前提になっている議論であり、またこれらの文献によれば、 ウィリアム・ピーツはフェティッシュは『これ以上還元不可能な物体』としています。いずれもわたしの「フェティシズムは特定の物であるフェティッシュへの崇拝である」という議論から外れません。神体に持ってくるのはナンセンスとしたのは、進化論によりすぎであり、少し言い過ぎた部分はあるかもしれませんが、これはコントなどの議論によるとそうなる可能性があるという話であり、始めから私は神体がこれにあたる可能性は否定していません。--小出-小坂井会話2021年11月16日 (火) 01:48 (UTC)[返信]

コントの呪物崇拝の定義は理論に偏りすぎて実際の事例に当てはめることが難しく、少なくとも主流派は採用していませんので、その点はご理解ください。例えばコントの説では、呪物が人工物である必要さえありません。現代では進化的解釈、進化的段階を用いた分類または分析手法は宗教人類学者、比較宗教学者、民俗学者によって破棄されたと考えるべきです。またあなたは加藤玄智の事例についても物理的な崇拝であると強硬に主張、断言したり、タイラーの理論についても誤まった解釈をして、独自の理論を主張し始めています。人文学の手法は白か黒の二元論に分けて片方を正義とするわけではないため、変わった理論を個人のレベルで持つのは構いませんが、アニミズム、呪物崇拝、多神教、トーテミズム、シャーマニズムが同一宗教に混在することを踏まえて、あなたの独自解釈より広い意味での呪物崇拝(アニミズムの一部)が定説として受け入れられていることを知ってください。繰り返しますが、コントやタイラーの著作を読むまえに、宗教人類学の入門レベルの本や著述に目を通してから議論に参加してください。入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで独自解釈に至る人は多くいますが、主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できないのであれば wikipedia の参加者として向いてないと思います。またこうした独自解釈に基づいて断言を押し通し、白か黒かの議論に持っていく言動はあらしに特有の行動様式であり、wikipedia のガイドラインを読んでから冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:5394:99DF:58CE:67A5 2021年11月18日 (木) 01:21 (UTC)[返信]
『フェティシズムの議論で参考になる文献としては、『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社 第一章、などがあります。』と書いています。人格攻撃に当たるような議論はおやめになった方がよろしい。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 03:53 (UTC)[返信]
人格攻撃なんてとんでもない。独自解釈と定説の違いを延々と議論するのはお互いにとって不毛ですから、宗教人類学の入門レベルの本や著述に目を通してから議論に参加してください。入門書、解説書等を無視して、いきなり原著を読んで独自解釈に至る人は多くいますが、主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できないのであれば wikipedia の参加者として向いてないと思います。またこうした独自解釈に基づいて断言を押し通し、白か黒かの議論に持っていく言動はあらしに特有の行動様式であり、wikipedia のガイドラインを読んでから冷静に議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 04:51 (UTC)[返信]
『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社 第一章、などがあります。』はどれもwikipediaの出典の条件を十分すぎるほど満たすものです。出典の要件を確実に満たす書籍を自己の思い込みにより主流ではないなどとして否定することはガイドラインの観点からも誤っているのは未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロックですね。それ以外の項目も含めWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用における法律家ごっこを繰り返しています。当然ながら、出典を提示した人物に「主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できない」などという言葉をぶつけることも大きな問題です。また、Wikipedia:多重アカウント#複数のアカウントで同一ページの編集や議論に参加することWikipedia:投稿ブロックの方針#過剰な差し戻しWikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者など複数のガイドラインに違反しており、そのユーザーが法律家ごっこを続けるという問題のある状況となっていると言わざるを得ません。--Xyy会話2021年11月18日 (木) 05:35 (UTC)[返信]
まずあなたは固定IPの概念を理解できていません。プロバイダがどのバージョンのIPをどのタイミングで割り当てるかを一介のユーザーが選ぶことはできません。その程度のあやふやな根拠を絶対の真実として信じて糾弾するのは、議論をそらす事を目的とした個人攻撃にあたるでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 05:46 (UTC)[返信]
Wikipedia:多重アカウント#複数のアカウントで同一ページの編集や議論に参加することについてはノート:神 (神道)#「八百万の神」の項目で日本特有でない神の概念についての特記において、60.117.32.138と、未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロックを使い分けて同一の議論に参加していたことが分かると思いますので、該当の箇所を読んでいただければと思います。このように複数人であるかと誤解を与える方法で同一議論に参加するのであればまず断りを入れることが当然の所、それをしないばかりか、60.117.32.138未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロックは同一人物であるかという問いすら対話を拒絶し、個人攻撃と繰り返し主張している状況にあり、この点からも問題のあるユーザーと言わざるを得ません。--Xyy会話) 2021年11月18日 (木) 05:56 (UTC)リンクの修正--Xyy会話2021年11月18日 (木) 06:00 (UTC)[返信]
拒絶も何も当方は、小出-小坂井(会話)さんによって、これまで書いてきた質問や出典、指摘の主要な要点を無視されており、毎回の新たな(主に出典や質問の誤読、独自解釈による)論点はずしで彼の自分勝手な議論につきあわされています。小出-小坂井(会話)さんは独自解釈を補強するために、本筋には何の影響も与えない議論や、延々と自分が読んだものを出典として書き込んでいます。コントやタイラーの定説とは異なる独自解釈、誤読等をすることで議論を疲弊、劣化させ、建設的なタグ入れや言葉を直すなどの提案もなく、議論を解決に導こうとするどころか、自分の偏向した排他的な編集姿勢が問題を複雑にしていることに気づくことさえできていません。--2400:2410:C1A3:5300:490A:B860:2655:4AE3 2021年11月18日 (木) 20:04 (UTC)[返信]
私が「対話を拒絶」と述べたのはノート:神 (神道)#「八百万の神」の項目で日本特有でない神の概念についての特記における60.117.32.138未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロックは同一人物であるかという質問に対してです。相変わらず対話が成立していないと言わざるを得ません。
しかし、Wikipedia:多重アカウント#複数のアカウントで同一ページの編集や議論に参加すること等の話から、再び小出-小坂井氏こそ問題であったと話を飛ばしたようですので、それでは応じましょう。では、あなたは小出-小坂井氏、及び提示された出典に対し、「主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できない」と明言しました。また、これらの出典は明確にwikipediaの要件を満たすものです。では、当たり前のことですが他者が出した出典を「主流ではない」と結論付けることができるのですから小出-小坂井氏が提示した、『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社、は当然に既に読んでおられるものと思います。故に以下の2点を質問いたします。
①これらの書籍には当議論と照らし合わせていかなる記述があり、なぜ主流ではないという結論に至ったのでしょうか。
②また、主流ではない根拠となる出典の提示をお願いいたします。--Xyy会話2021年11月18日 (木) 23:44 (UTC)[返信]

王権神授説の項目に関して[編集]

『現御神(アキツミカミ)』は「Emperor is divine」と訳され、「Divine right of kings」(王権神授説)とはやや異なり、権利や特権というよりは天皇自体の神聖さに重きがある。しかしながらどちらにせよ神から選ばれているものであるというニュアンスは含む。

『小出-小坂井』さんが編集したのを確認したので、『小出-小坂井』さんにお聞きします。『しかしながらどちらにせよ神から選ばれているものであるというニュアンスは含む』という記述に問題を感じます。「Emperor is divine」は天皇(皇帝)は神であるという訳が一般的だと思いますが、『現御神(アキツミカミ)』という意味が良く分からない訳をベースにしたのか、神であると定義されたはずの天皇が、神から選ばれているとする記述には矛盾があると考えます。--以上の署名のないコメントは、2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7会話/Whois)さんが 2021年11月18日 (木) 05:15‎ (UTC) に投稿したものです(ラメーンズ会話)による付記)。[返信]

天照大神や邇邇藝の直系子孫であるという前提があり、邇邇藝は神から選ばれて豊葦原中国に来たという神話になっていますので、神から選ばれたという記述自体は矛盾はありません。ただ特にこれらの王権神授説との比較などの記述自体出典はないので、それらを再考する価値はあります。「神であると定義されたはずの天皇が、神から選ばれているとする記述には矛盾がある」とされる方は、基本的に日本神話や多神論を理解できていない可能性が高いですが、ここでこれらの神話の議論はなるべく避けるべきと思います。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 05:45 (UTC)[返信]
『天照大神や邇邇藝の直系子孫であるという前提があり、邇邇藝は神から選ばれて豊葦原中国に来たという神話になっていますので、神から選ばれたという記述自体は矛盾はありません。』
邇邇藝が命令されて来たという日本神話は知っていますが、天皇は邇邇藝ではありませんし、神の子孫である天皇が訳の『天皇は神である』として一致するとすれば、教育勅語等によると神の子孫である事をもって王権を主張することもできるでしょうし、神に服従する国王を基本にした王権神授説とはかなり異なるニュアンスであると思います。あなたの主張については、裏付ける資料もないから出典がないのだと思います。多神教文化の国王が全て神であると主張するわけではないので、これをもって多神教の理解がないとする発言には問題があると思いますが、そう言いたい気持ちは分かりました。また出典はないと認められていますが、あなたは出典がないと即削除、差し戻しを常習するようにしていたようですが、自分の書き込みをなぜ削除しなかったのでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 06:15 (UTC)[返信]
ここの部分の記述はあなたかどうか知りませんがIPユーザーが変更した記述を私が更に変更した形式でしたので、さして批判は当たりませんし、出典がないから全て削除するという基準でウィキペディアは運用されているのではなく、疑いが大きい場合に削除があり得るという基準です。初代神武天皇は邇邇藝が豊葦原中国を与えられた事を根拠に初代になっていますし、神々や天照から命令されて天降りをし、またその後も神から命令を受ける場合も多くありますので必ずしも服従するニュアンスがないわけではありません。王権神授説は服従だけでなく特権的なニュアンス、神の代理というニュアンスも含みますのでこれらも必ずしも矛盾はしません。ただ直結するとは私も書いていません。これらを疑問に思ったのならノートに議論を出せばいいだけの話です。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 06:23 (UTC)[返信]
王権神授説についてのあなたの独自研究の全貌は分かって来ましたが、神である天皇としての権利と、人間の国王としての権利には埋められない距離があるとは思います。独自解釈については基準として自らに甘すぎるのではないでしょうか?IPユーザーならば、あなたと同じ事をした場合に削除しても良いという基準を明確にされましたが、自分なら良くて、IPユーザーならば礼儀なく即削除、検閲しても良いという基準には問題があるのではないでしょうか?まずはガイドラインを読まれてから議論に参加してください--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 06:36 (UTC)[返信]
天皇と国王には違いがあるとした上で、天皇は神であるだけでなく、神話的により上の神から選ばれているという意味です。多神論的な人間も神になる可能性がある中での神という議論と、唯一神しか神はいないとする一神教の中での国王の権利という比較の中で、より上のなんらかの存在により選ばれている、代理であるという点が共通しているというニュアンスが元の記述では伝わりません。また、既に書きましたが、私は出典が出典として意味をなしていない記述を削除したものです。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 06:51 (UTC)[返信]
そうでしょうか? 国体の本義や、宮城遥拝御真影は天皇が神である事に由来するでしょう。西洋内でも人間の国王に対する温度差や、反発を見れば、神の子孫、神としての天皇に対する崇敬は質的、量的に異なると考えるのが、一般的な従来の見解だと思います。政治態勢は古今東西、支配者がいて被支配層がいるという点では似通っていますし、元首がいて憲法があるという理屈を並べれば、どこの国も類似点ばかりが見つかるでしょう。天皇と王権神授に対して似通ってる点だけを列挙するのは小学生でもできるでしょうけど、決定的に異なる点を書かず持論だけを披露するのは、中立性にかけますし、しかもそれが完全な独自研究だとすれば、尚更問題です。なぜこのレベルの独自研究を書き込み、またその編集を放置し、他の書き込みを即削除するだけの二重基準を持てるのか教えていただきたく思います。--2400:2410:C1A3:5300:490A:B860:2655:4AE3 2021年11月18日 (木) 19:54 (UTC)[返信]
私は似通っている点をいたずらにあげたのではなく、多神論と一神教の違いに由来する神や王権に対する見方の違いをわかりやすく説明する記述を補足しただけです。この点について前から疑問に思っていたのなら議論にノートに出せばよかった話ですし、はなからこの論点はわたしの自己矛盾を証明させようとする意図で行っているものなら、そのような議論の使い方はおやめ下さい。わたしが前に削除した理由は書いていますが、なぜその点について議論がないのでしょうか?--小出-小坂井会話2021年11月19日 (金) 00:17 (UTC)[返信]
『多神論と一神教の違いに由来する神や王権に対する見方の違いをわかりやすく説明する記述を補足しただけです。』とのことですが、一般的なコンセンサスの得られない独自研究に過ぎないものを分かりやすく書いたとの記述には違和感があります。まず前提となる翻訳が怪しいですし、神道をして多神教の代表と規定するのも傲慢な思い込みでしょう。国体の本義や、宮城遥拝御真影教育勅語といったものは、人間に過ぎず崇拝の対象でない国王の王権神授説における権力と権威とは質と量において異なります。歴史的事実として国王を中心とした中央集権を強めようとしたフランスやイギリスでは、フランス革命清教徒革命を経験し、国王が処刑されています。神の子孫、神自身である天皇のいる皇居に向かって朝礼で拝礼する崇拝対象でもあった天皇と、否定的に見るものも相当数おり、疑惑の目でみられ続けた人間に過ぎない西洋の国王が似た存在とは考えないでしょうし、「天皇が神である」という文章から王権神授説とニュアンスが似ている(尚、重要な違いについてはあえて挙げない)という感想(独自研究)になる時点で、世間一般の感覚とのずれを感じます。前の質問にお答えになっていないので、再度お聞きしますが、なぜこのレベルの独自研究を書き込み、またその編集を放置し、他の書き込みを即削除するだけの二重基準を持てるのか教えていただきたく思います。--2400:2410:C1A3:5300:5DF:EF07:2410:8272 2021年11月20日 (土) 02:42 (UTC)[返信]
誤解がありそうなので付け加えますが、出典がないものを即削除していたのではなく、出典があるにも関わらずその出典が出典として意味をなしていない記述を削除したものです。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 06:37 (UTC)[返信]
繰り返します。王権神授説についてのあなたの独自研究の全貌は分かって来ましたが、神である天皇としての権利と、人間の国王としての権利には埋められない距離があるとは思います。出典さえ出していない自らの独自解釈については甘すぎる基準なのではないでしょうか?IPユーザーならば、あなたと同じ事をした場合に削除しても良いという基準を明確にされましたが、自分なら良くて、IPユーザーならば礼儀なく即削除、検閲しても良いという基準には問題があるのではないでしょうか?まずはガイドラインを読まれてから議論に参加してください。--2400:2410:C1A3:5300:7696:6AFE:8AD0:6EB7 2021年11月18日 (木) 06:46 (UTC)[返信]
無用に同じ内容を繰り返さないでください。--小出-小坂井会話2021年11月18日 (木) 06:53 (UTC)[返信]
いたずらに議論に付け加えをして議論の分岐を複雑にしないでください。--2400:2410:C1A3:5300:490A:B860:2655:4AE3 2021年11月18日 (木) 19:43 (UTC)[返信]
コメント王権神授説としての神ですが、そもそも王権神授説とは何かといえば王権神授説にある通り、「ヨーロッパの中世から近代初期にかけて,王の権力をキリスト教によって補強する役割を演じた観念。」であり、「人民を支配する王権が神から授けられたもので,王は神に対してのみ責任を負い,法には拘束されず,人民の反抗も許されないとする王権万能の考え方。」であり、キリスト教の概念です。そもそも権利を授ける神と、権利を授けられる王がいなければ成立しない概念です。そういう意味で、項目自体がおかしくなっていると言わざるを得ないでしょう。項目名を正しく変更するのなら「唯一神としての神」ですし、もしくは小出-小坂井氏も述べている通り、王権神授説との比較などの記述自体出典はなく、項目自体の除去が妥当でしょう。--Xyy会話2021年11月18日 (木) 06:44 (UTC)[返信]

人工物の神に関しての建設的な提案[編集]

小出-小坂井さんは人工物の神から呪物崇拝に関する技術を全て撤去し、「フェティシズムとしての議論」という項を新たに作るという提案されています。この提案には賛同できず、私からも提案をさせて頂きます。まず彼の主張する提案を判断するまえに、依然から存在する問題点から整理したいと思います。

  1. 神(神道)の人工物の神において、小出-小坂井さんが書かれて来た記述は辞書的、字引的な内容であり、日本の神の一覧でも得られる他の記事の趣意と重複してる箇所があり、記事としての特筆性は低い。出典も日経新聞や、神職を養成する國學院のソース等の内部資料(神道と無関係の外部の専門家でないという意味)が見られ、記事としての特筆性は低く信頼性、中立性に問題がある。

これに対して呪物崇拝の記述は加藤玄智、D.C.ホルトム(The National Faith of Japan - A Study in Modern Shintoの著者で、ロバート・エルウッドもこの神道研究での第一の参考文献とした。神道については加藤玄智からも学んだという)、ウィリアム・ジョージ・アストン(幕末に日本へ赴任)、ロイ・アンドリュー・ミラーを由来とした出典があり、神道とは関連のない第三者、外部の学者の記述として特筆性は高いと考えます。

人工物の神から呪物崇拝を全て撤去する根拠として小出-小坂井さんが竈神、竈に関する神で、呪物崇拝でないとの主張を続けていましたが、ウィリアム・ジョージ・アストンは竈神と呪物崇拝を結びつける等、小出-小坂井さんの主張の評価はともかく人工物に関する神人工物の神に分けるべきだとの彼の主張については白か黒かに分けられない、又は絶対の真実を信じる純粋理論派では判定できない性質のものです。もとより比較宗教、宗教人類学を含む人文学では原理主義的に厳密な定義でなく、呪物崇拝とできる宗教行為の幅は現実の崇拝に合わせて広く受け止められる前提で考えるべきです。

神体の崇拝と呪物崇拝を結びつける学者や、呪物が現存しない神話のものであっても呪物崇拝は成立すると考える学者はいます。

  1. 加藤玄智は黄泉比良坂を塞いだ千引の石を神格化した道返之大神を呪物崇拝の事例としてるように、呪物が現存しない神話の逸話を由来とする物についても呪物崇拝とする比較宗教学の専門家がいる
  2. ウィリアム・ジョージ・アストンは「多くの人は御霊(みたま)と神体を区別せず、中には神体を神の実物と混同する者もいる」としており、熱田神宮草薙剣を呪物崇拝としている。「例えば竈は神として崇められている」とも述べている。

タイラーやウィリアム・ジョージ・アストンの理論を再度まとめます。

このような物体は、単に祭壇として使用されている場合、呪物崇拝の性質ではなく、まず実際にそれらに崇拝が捧げられていることを確認する必要がある。そこでは『木や石』は神々の単なる理想的な代表として設置されているのか、それともこれらの神々はそれらと物理的につながり、それらに具現化され、それらに寄り添い、それらを通して作用していると考えられているのか、という難しい問題が生じる。言い換えれば、それらは単なる『象徴』に過ぎないのか、それとも信者の心の中で本物の呪物になってしまったのかという問いである。
Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.147
偶像崇拝が呪物崇拝と適切に結びつくのは、肖像が霊に提供された物質的な体の性質に適切である場合に限る。この観点から、ここでその目的と歴史上の位置を検討することが提案されている。偶像は、それが霊の具体化(spirit-embodiment)の理論に属する限り、肖像画と呪物の性格を組み合わせなければならない。これを念頭に置いて、偶像が何らかの形でそれ自体がエネルギッシュな物体として、または霊神を祀るまさに『入れ物』として、文明の過程で、力を発揮したり、個人的にアニメートした肖像自体が、偶像崇拝者の心に浸透しているかどこまで見られているかに気づき判断することにしよう。
Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom by Tylor, Edward Burnett Vol.II p.154-155

ウィリアム・ジョージ・アストンは御霊を神の存在する座、次に神そのものと考えられていると指摘する一方で、多くの人が御霊と神体を区別せず、神体を神そのものと認識するものもいると述べており、タイラーの物理的につながり具現化され作用する霊神の『入れ物』の記述と合致します。

神道に偶像がないのは、ユダヤ教やイスラム教のように、擬人化された絵や像を使うことによる弊害への反動によるものではなく、中国から覚醒の刺激を受ける前の日本民族の芸術的発展の低さによるものである。それは強さよりもむしろ弱さを示している。日本人の神々に対する概念の特徴である曖昧さの多くは、肖像をもっと自由に使うことで回避できた。原理的には、肖像と隠喩は同じものだ。絵や彫刻で神を老人として表現することは、父と呼ぶことに比べて何の害もないが、実際にはどちらの場合でも一般の人々はここで止まることはないということを、幅広い経験が示している。宗教を堕落させる傾向が強く、信仰の対象となる特定の物理的物体に特別な美徳を与えることで、(それが非常に不完全な象徴にすぎない)神が存在することを忘れてしまうことさえある。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.73
神道では、個々の対象を神格化したものと、類の神格化との区別が、必ずしもうまく保たれていない。例えば、「かまどの神」がすべてのかまどの神であるのか、それともそれぞれに別の神がいるのかは疑問であり、参拝者によって答えは違うであろう。日本人が単数形と複数形という文法上の区別を習慣的に無視していることが、このような問題を明確にする上での強力な障害となっている。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.16
大まかに言えば、神道には偶像がない。通常、神体には、それが象徴する神の形に似せたものを与えようとはしない。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.71

こうした記述から、人工物の神への崇拝が呪物崇拝か偶像崇拝かという善悪二元論的な分け方ではなく、前提とされる文化、言語、慣習によっては、呪物崇拝と偶像崇拝のグレイゾーンもありえるとの認識を共有できるしょう。逆に言えば、神の辞書的な情報だけでは、人工物の神への崇拝が偶像崇拝であるとの根拠とは言えず、それを支持する論証なり、神々の由来を証明する追加資料が必要となるでしょう。

小出-小坂井さんの記述した神々について、呪物崇拝はありえず偶像崇拝だという主張には根拠が示されておらず、現状では小出-小坂井さんの思い込みと変わりません。

この問題を解決するために以下の三点を提案します。

  1. 辞書的、字引的な小出-小坂井さんの記述に、神の由来の説明を加えて頂く
  2. 人工物の神が多神教的な象徴に対する崇拝か、呪物崇拝かは、前提とされる文化、言語、慣習、礼拝の対象・方式、神話・伝承の由来によるとの添え書きを加える
  3. ヘッディングを人工物の神(呪物崇拝、偶像崇拝)に修正する

この提案には排他的な内部論理ではなく、特筆性の高い情報を明確にして良い情報を集積し、記事を漸進的に改善できる利点があると考えます。この三点が受け入れられるならば、この議論はクローズし、最終的な解決策としたいと思います。 --2400:2410:C1A3:5300:5DF:EF07:2410:8272 2021年11月20日 (土) 02:47 (UTC)[返信]

そもそもわたしのあげている資料は内部資料じゃありませんし日経新聞を信頼できないとする人間の発言を中立的だとみなす事はできません。--小出-小坂井会話2021年11月20日 (土) 02:12 (UTC)[返信]
わたしの主張をあえて変えようとしているように思えますが、#人工物の神とフェティシズムや呪物崇拝の項を分ける提案#神の類型の呪物崇拝を人工物の神に戻す提案を見ていただければ分かりますが、神道の中に呪物崇拝やフェティシズムにあたる神の拝み方などがあるとされている、そうみなされる可能性があることに異論を挙げている訳ではありません。言葉の概念としてフェティシズムは物自体を拝むものというものがあり、これに合うものはどの種の神、当然物に関する神以外の神でも見られる事は既に挙げられた文献からも分かる事です。これと、物についての神、物を司ると観念されたり言論されている神を内混ぜにして同じ項に持ってくると、異なった概念を同じところに持ってきてしまっているという事です。--小出-小坂井会話2021年11月20日 (土) 02:32 (UTC)[返信]
コメント
ノート:神 (神道)#コントに関しての以下の質問に答えないまま、また、小出-小坂井氏が提示した出典を「なかったこと」にしたまま新しい節を立てることをおやめください。
私が「対話を拒絶」と述べたのはノート:神 (神道)#「八百万の神」の項目で日本特有でない神の概念についての特記における60.117.32.138未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロックは同一人物であるかという質問に対してです。相変わらず対話が成立していないと言わざるを得ません。
しかし、Wikipedia:多重アカウント#複数のアカウントで同一ページの編集や議論に参加すること等の話から、再び小出-小坂井氏こそ問題であったと話を飛ばしたようですので、それでは応じましょう。では、あなたは小出-小坂井氏、及び提示された出典に対し、「主流派の解釈(定説、通説)か、独自解釈かを判断できない」と明言しました。また、これらの出典は明確にwikipediaの要件を満たすものです。では、当たり前のことですが他者が出した出典を「主流ではない」と結論付けることができるのですから小出-小坂井氏が提示した、『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社、は当然に既に読んでおられるものと思います。故に以下の2点を質問いたします。
①これらの書籍には当議論と照らし合わせていかなる記述があり、なぜ主流ではないという結論に至ったのでしょうか。
②また、主流ではない根拠となる出典の提示をお願いいたします。--Xyy会話) 2021年11月18日 (木) 23:44 (UTC)
②『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』京都大学出版、『フェティシズム研究2 越境するもの』京都大学出版、『宗教の誕生』山川出版社などフェティシズム関連の書籍を読めば明らかですが、フェティシズムの学術的な文献を参照したときに「呪物崇拝」という語を使用して語ることは皆無に等しいです。英語の原文も「フェティシズム」であり、上記の文献もフェティシズムであり、これをすべて「呪物崇拝」と書き換えていく事はそもそも問題です。これは上記のノート:神 (神道)#神道における人工物の神の崇拝(呪物崇拝、物神崇拝)において
大体あなたが掲げ続けている、コトハバンクの呪物崇拝ですが、中に『日本語としては,節片淫乱症,物件恋愛,淫物症,呪物崇拝などと訳されたが,適切とはいえないので現在では原語のまま用いられている。』と明記されているでしょう。
  • Fetishism - Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
  • The designation “fetishism” originally came from Charles de Brosses(1709-1777), who maintained that fetishism was the prototype of all religions.
あなたにまずまともに会話が通じているように見えないので、上記の2文を正確に日本語訳にしてもらえますか?
これらの質問に答えられなかったことからも明らかです。
ノート:神 (神道)#コントに関してノート:神 (神道)#「八百万の神」の項目で日本特有でない神の概念についての特記での、Wikipedia:多重アカウント#複数のアカウントで同一ページの編集や議論に参加することから逃げて再び新しい節を立て直しておりますが、全くフェアな態度ではありません。
④当記事は神(神道)であり、該当部は神道における神の類型を羅列している場です。また、元々の
  • 格闘技とは人工的に行われる人間どうしの組み合いであるが、相撲の神としては、土俵祭では相撲三神に祈願を行うが、この相撲三神は手力男神・建御雷神・野見宿禰に比定される
  • 刀剣は自然には存在しないという意味で人工物だが、石上神宮には刀剣の御霊である布都御魂大神・布都斯魂大神と神宝の御霊布留御魂大神が祀られている
  • 鍛冶に関する神も多くあり、ふいご祭りが行われるが、記紀では天目一箇神である
  • かまど神(Kitchen God)は火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。中国地方では家の火所にまつられ竈神のほか農業神や家族の守護神とされ、日本神話では火産霊、奥津日子神、奥津比売神を竈三柱大神として祀り、火産霊以外の二柱は『古事記』では大年神の子で、竈神とされている
といった記述及びその出典は、完全に当記事の神の類型の節に合致し、同時にフェティシズムを語った記述もしくはその出典ではありません。
さらに、ノート:神 (神道)#コントに関しての出典の一つである、『宗教の誕生』山川出版社において、 田中雅一教授は以下のように述べています
フェティシズムの神がたんなる誤認であるように、キリスト教の神もまた誤認であり存在しない。しかし、フェティシズムには、常にそれを実践する人々のイメージが付きまとっている。それは、西アフリカの現地人を典型とする「未開人」あるいわ「野蛮な人々」である。フェティシズムを未開人と結び付けることで、それを文明人には無関係な宗教として論じることが可能となる。キリスト教は文明人にこそふさわしい宗教であるとみなされ、キリスト教の有意差の保持に成功することになる。そこには、未開と文明という決定的な対立が前提となっている。
題名に(呪物崇拝)などとそもそも学術的にほとんど用いられていない語を使用し、さらには中で語られている人工物の神の類型を全て呪物崇拝とするかのような題のつけ方はそもそも誤りです。
⑤該当部は、神(神道)の中の神道上の神の類型を、議論が生じる前の元々の形[2021年9月26日 (日) 14:13]で、これまで通りに神の類型を記述し、下部に小出-小坂井氏の述べるように、「フェティシズムとしての議論」を作り、その中でフェティシズム関連を記述するのが妥当でしょう。
⑥これまで、複数の論点に対し言葉が詰まるとそのたびに新しい節を立て、「議論をやり直そう」とする未了 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / SPUR / ブロック氏の議論姿勢は大変問題です。--Xyy会話) 2021年11月20日 (土) 03:47 (UTC)誤字修正--Xyy会話2021年11月20日 (土) 04:09 (UTC)[返信]
2週間以上経ちましたが反論がなく、対話が止まりましたのでとりあえず私が提案したフェティシズムの節を分ける編集を行います。--小出-小坂井会話2021年12月6日 (月) 15:41 (UTC)[返信]