ノート:呪物崇拝

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フェティッシュのリダイレクト先について[編集]

フェティッシュのリダイレクト先をフェティシズムから本記事にするかフェティシズムのままにするかで議論が行われています。ノート:フェティシズム#フェティッシュのリダイレクト先についてにて、ぜひ議論にご参加ください。--Licsak会話2019年7月11日 (木) 02:27 (UTC)[返信]

神道における人工物の神の崇拝(呪物崇拝、物神崇拝)[編集]

   2021年10月23日 (土) 22:11‎ 小出-小坂井 会話 投稿記録‎  7,440バイト −1,050‎  人工物それ自体を崇める信仰とは別概念 取り消し タグ: 手動差し戻し 差し戻し済み

神道における呪物(人工物)崇拝については、加藤玄智が事例を挙げており関係はあります[1]。Wikipediaは百科辞典であり、辞書ではありません。WP:NOTDICDEFを参照してください。

   単語や句自体が百科事典的な主題となり得る場合もありますが、用語の複数の異なる定義や語法を解説するような百科事典の記事はまれです。例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。

宗教学、宗教人類学における神や信仰は百科事典に含まれる内容と考えます。また予断を許さず、即時に一方的に削除、検閲するという姿勢でなく、礼儀を忘れず、冷静に議論に参加するようにしてください。 --2400:2410:C1A3:5300:EEA5:C2CC:1A85:B78D 2021年10月24日 (日) 20:13 (UTC)[返信]

加藤玄智は消していない。該当文献でも加藤玄智は批判されている。 小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 03:53 (UTC)[返信]

== 呪物崇拝(物神崇拝、英:en:Fetishism)の認識についての確認 ==
議論が堂々巡りになりかねないので、呪物崇拝(物神崇拝)を本当にご存知であることを確認してください。もし理解していないようであれば、宗教学の学際的なアプローチを学んで頂かないといけないでしょう。人工物を呪物または物神として神格視、崇拝するのが、呪物(物神)崇拝です。英語で宗教人類学の用語に対応するのはen:Fetishismになります。いくつか手頃な資料を確認したいと思います。
①「Kato Genchi— A Neglected Pioneer in Comparative Religion —Naomi Hylkema-Vos, Japanese Journal of Religious Studies 1990 17/4. p384」。
Kato defines fetishism as worship of objects to which miraculous virtues are ascribed. He gives jewels, swords, mirrors, and scarfs as examples of fetishism in Shinto.
との記述があります。どう読んでも呪物崇拝(en:Fetishism、物神崇拝)と神道の関わり、さらに刀剣呪物(物神)信仰について述べていると思います。
②Dr. Genchi Kato's monumental work on Shinto, Daniel C. Holtom. 明治聖徳記念学会第47巻、昭和12年 1937/04/ p7-14
Even today, remarks Dr. Kato, if one leaves behind the more sophisticated cities and penetrates into the byways of rural areas he will find abundant evidence of the survival into the present of this old nature worship which is accomplishments of beliefs in spirits, fetishism, and phallicism.[2]
これによると、都市部を離れて農村部の路地に入ると、精霊崇拝、呪物崇拝(en:Fetishism、物神崇拝)、男根崇拝が残っていると加藤玄智は述べています。
③KOKUTAI - POLITICAL SHINTÔ FROM EARLY-MODERN TO CONTEMPORARY JAPAN Klaus Antoni Eberhard Karls University Tübingen: Tobias-lib Tübingen 2016
ロイ・アンドリュー・ミラー国体の本義教育勅語もしばしば呪物(または物神)として崇拝され、神棚に謹んでおかれ保管されたとしています[3]
神道の神の信仰に呪物崇拝(物神崇拝)が含まれるのは宗教学、宗教人類学としては疑問の余地はありません。小出-小坂井のかたは、修正版を見ると①②③については認めているようですが、かまど神や厠神などの人工物に神霊が宿る呪物に対する崇拝だけが呪物崇拝と異なると主張される根拠が理解できません。--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 04:07 (UTC)[返信]
ノート:神 (神道)と基本的に同じ議論のようですので、そちらで議論をお願いします。かまどや厠にスーパーパワーを認めているわけではないようですのでご理解の程よろしくお願いいたします。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 04:13 (UTC)[返信]
ノート:神(神道)では『しかも一つの見方にすぎず、神道では物体自体を崇めている訳ではありません。利用者:小出-小坂井』とのことですが、呪物崇拝はそのような狭義の信仰を指すわけではありません。『人類学者のタイラーがフェティシズムをアニミズムの一部としてみる説を主張し、これが一般に受け入れられて以来[4]』として、人工物の神、人工物に宿る神を含むのが、一般的なコンセンサスですこれを否定する論証のある参考文献があって断言なされてますか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 04:34 (UTC)[返信]

もう一度コトバンクの1番上に書いてある定義をお読みになって下さい。 小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 04:59 (UTC)[返信]

宗教人類学フェティシズムen:Fetishism)、呪物崇拝物神崇拝)を異なる概念として区別されてるとの理解でよろしいでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 05:05 (UTC)[返信]
加藤玄智の記述は削除していません。部分的な抜粋になり議論になっていないのでノート:神 (神道)で議論をお願いします。--小出-小坂井会話2021年10月26日 (火) 05:11 (UTC)[返信]
「日本大百科全書(ニッポニカ)「呪物崇拝」の解説 呪物崇拝 じゅぶつすうはい →フェティシズム」と、該当するコトバンクのフェティシズム記事への転送リンクが掲載されていますのでご確認ください。[5]--2400:2410:C1A3:5300:BBAB:2C42:E3F0:5A8A 2021年10月26日 (火) 05:13 (UTC)[返信]

日本・中国の項の厠神などについて[編集]

『日本や中国では、台所でかまど神(かまどがみ、Kitchen God)、トイレ・便所で厠神(かわやがみ)等の人工物の神を祭っていた[12][13]。神殿の偶像に向かって行う礼拝とは異なり、台所や便所に向かって礼拝が行われ、「赤子の便所まいり」は厠神に健康を祈願するためともされている[12]。』の記述について、かまど神、厠神のいずれも出典されるものでは呪物崇拝・フェティシズムとは書いておらず記述として不適切と考えます。よってこの記述を削除し、項の名前を日本に改めるべきです。 小出-小坂井会話2021年10月31日 (日) 00:27 (UTC)[返信]

ノート:呪物崇拝#ウィリアム・ジョージ・アストンの竈神に関する記述において、ウィリアム・ジョージ・アストン等の出典を追加します。ただし以前から改善すべき点はあると考えており、以下の点を検討します。
  • 日本の記述に対して、中国の記述が少ないため、項名を日本に改称すること
  • 時間不足で当初含めていなかった出典を追加すること。「あらし」を引き付けかねない文言の再編集
このうち項目名の変更は合意したとみなせるため、項目名を日本に変えることで対応させて頂きます。次にかまど神や厠神については、竈神は出典もあるため以下のように変更します。
日本には竈神への信仰があるが、神殿の偶像に向かって行う礼拝とは異なり、日本では竈(台所)に向かって礼拝が行われた[6]ウィリアム・ジョージ・アストンは、呪物崇拝の事例として熱田神宮の剣はもともと供物であり、後に神聖なものとなったと述べている[6]。熱田神宮の剣は、御霊代(みたましろ)の一つであり、一般的には神体(しんたい)と呼ばれるものである[6]。また、御霊と神体の区別がつかない者も多く、神体を神の実体と混同している者もいた[6]。例えば、竈そのものを神体でなく神として祀ることを挙げている。不完全な神の象徴と呪物崇拝との間の曖昧さは、肖像が多くの場合で使われないことによると述べた[6]。特定の物理的な物に特別な徳を与えることで、曖昧で不完全な象徴の役割しか与えられていない神の存在を忘れてしまう傾向さえあると述べている[6]
加藤玄智ウィリアム・ジョージ・アストンは神体や人工物に宿る神の崇拝を呪物崇拝の例としてあげており、「赤子の便所まいり」はそうした呪物崇拝の典型的崇拝であるため、厠神の記述に追加の出典が必要とは感じませんが、今後、呪物崇拝に過敏に反応する方や『あらし』への対応を総合的に考慮し、一旦記述を取り下げます。
編集合戦とならないために、注意していただきたい点として、あなたが頻繁に行う問答無用で何のクーリング期間も設けずに即時削除・検閲するという方法ではなく、記述をより明確に調整する(誰がいつ主張したか等を明確化する)ためにタグを入れる、ソースや文言に納得がいかないのであればタグをいれることで、二者間の距離を保つことができます。まず削除ありきな傲慢な態度は改めてください。少しの工夫で編集合戦を避けることは可能であり、wikipedia の方針を良く読んでから今後は冷静かつ礼儀を失わずに議論に参加するようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:3AE6:89A4:54A4:8A13 2021年11月11日 (木) 21:49 (UTC)[返信]
やや問題がある記述として、これだとウィリアム・ジョージ・アストンの記述にしか拠っておらず、それを全くそのまま断定調で書くのは問題があるので、例えば
「19世紀のイギリスの外交官で、日本に関する研究もあるウィリアム・ジョージ・アストンは自著「〜」の中で、…(本文)…と述べている。」
などと書くのが、概念を扱う項として、適切な書き方なように思います。--小出-小坂井会話2021年11月12日 (金) 21:14 (UTC)[返信]
それで強引な削除が止まるなら構いません。ウィリアム・ジョージ・アストンの学説であることを強調する形で文章を直させて頂きます。--2400:2410:C1A3:5300:88FB:527C:126B:74B2 2021年11月17日 (水) 21:06 (UTC)[返信]

日本・中国の項の御鍬祭の記述について[編集]

当該箇所では加藤の議論に繋げる形をとっているが、御鍬祭の出典では御鍬祭と呪物崇拝・フェティシズムを関連づける記述はなく、この祭りの記述はウィキペディア内のリンク先で説明されるべき内容と考えます。 小出-小坂井会話2021年10月31日 (日) 00:32 (UTC)[返信]

御鍬祭と呪物崇拝を関連する記述はないとしていますが、この記述は伊勢神宮神田の儀礼用の鋤と鍬、現地での宗教的慣習・概念が曖昧で情報が不足しているため、伊勢神宮における農事の宗教的(文化的)な意味を解説するために追記した箇所のため、変更の必要性を感じません。問題とされている呪物崇拝との関わりを証明することは不要であり、出典が加藤玄智と無関係であることは文章で明確にされています。この可否については、白黒つけられるようなものではなく、独自解釈で即削除するのはいかがなものでしょうか。--2400:2410:C1A3:5300:3AE6:89A4:54A4:8A13 2021年11月11日 (木) 22:11 (UTC)[返信]

ウィリアム・ジョージ・アストンの竈神に関する記述[編集]

ウィリアム・ジョージ・アストンは草薙の剣や竈神(かまど神)を呪物崇拝と結びつけています。第一義に神体を呪物崇拝の例としてあげていますが、物自体を神として崇拝する慣習についても指摘しています。

日本では、他の国と同様に、神のしるしが、第一に、神の実際の存在の座として、第二に、神そのものとして見なされる傾向がある。多くの人は御霊(みたま)と神体を区別せず、中には神体を神の実物と混同する者もいる。これは一種の偶像崇拝である。また、神体を独立した神とする場合もある。太陽の女神の御神体である鏡は、雨乞いの神として別の崇拝の対象となっている。現在でも、この鏡や代表物には宗教的な敬意が払われている。剣の「フツノミタマ」には神社がある。また、草薙と呼ばれる剣は、名古屋近郊の熱田で何世紀にもわたって崇拝されてきた。この剣は、須佐之男命が日本のアンドロメダを救うために殺した大蛇の尾の中にあったもので、妹の太陽神への捧げ物として送られたものである。この種の呪物崇拝は、後世の堕落した宗教の形態であり、偉大な自然神の崇拝と混同してはならない。

いくつかの人工物は神体とされないが、人間の助けとなるものとしてそれ自体が崇拝されている。例えば竈は神として崇められている。現在の陶芸家は、年に一日だけ休息を許されているふいごに敬意を払い、お供え物をしている。迷信深い日本の主婦は、今でも2月12日に、針を横にして寝かせ、ケーキなどの小さなお供え物をして休みを与えている。

神道に偶像がないのは、ユダヤ教やイスラム教のように、擬人化された絵や像を使うことによる弊害への反動によるものではなく、中国から覚醒の刺激を受ける前の日本民族の芸術的発展の低さによるものである。それは強さよりもむしろ弱さを示している。日本人の神々に対する概念の特徴である曖昧さの多くは、肖像をもっと自由に使うことで回避できた。原理的には、肖像と隠喩は同じものだ。絵や彫刻で神を老人として表現することは、父と呼ぶことに比べて何の害もないが、実際にはどちらの場合でも一般の人々はここで止まることはないということを、幅広い経験が示している。宗教を堕落させる傾向が強く、信仰の対象となる特定の物理的物体に特別な美徳を与えることで、(それが非常に不完全な象徴にすぎない)神が存在することを忘れてしまうことさえある。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.73

竈神は象徴としての偶像崇拝、竈に宿る霊神に対する呪物崇拝のいずれかという問題が発生しますが、これらは言語や習慣によって不明確であり、いずれの崇拝も(崇拝者の理解によって)成り立つという立場をとっています。

神道では、個々の対象を神格化したものと、類の神格化との区別が、必ずしもうまく保たれていない。例えば、「かまどの神」がすべてのかまどの神であるのか、それともそれぞれに別の神がいるのかは疑問であり、参拝者によって答えは違うであろう。日本人が単数形と複数形という文法上の区別を習慣的に無視していることが、このような問題を明確にする上での強力な障害となっている。
SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.16

これとは別にGeorg Jacobは「Das chinesische Schattentheather, Stuttgart: 1933. Pp.xv+130」において中国における竈神の崇拝を呪物崇拝に結びつけています。

日本文化の構造的曖昧さが崇拝者によって答えが違う不条理な結果をもたらし、呪物崇拝と多神教の両方の竈神崇拝が成立することは、呪物崇拝に関するタイラーの見解とも共通します。こうした曖昧さを、比較宗教に無関心な層に明らかにするためには、問答無用で削除・検閲するという方法ではなく、記述をより明確に調整することで改善し対応すべきだと考えます。--2400:2410:C1A3:5300:3AE6:89A4:54A4:8A13 2021年11月11日 (木) 20:57 (UTC)[返信]

何をどうよんでも中立な記述には見えませんが、ウィリアム・ジョージ・アストンの記述として書く分には問題がないものと思われます。--小出-小坂井会話2021年11月12日 (金) 20:00 (UTC)[返信]
少なくともわたしの論点としては、一般の神ではなく物の崇拝と言えるかという論点を挙げており、この点を満たす限りにおいて記述する事は問題ないという議論になりますが、この点が曖昧な出典により持ってくる事はできないという点に関してご理解ください。また、少なくとも神体に関してわたしも該当する可能性があるとしていましたが、あくまで呪物崇拝やフェティシズムは概念的な話であり、この概念と個々がどう関係づけられ、議論されているかはウィキペディアでは特に出典が強く求められる場合がある事もご理解ください。また議論になるのでやめますが、どうにも議論から逃れられてる気がして仕方がないのですが、個物に対する崇拝という前提があり、これはウィリアム・ジョージ・アストンやタイラーの議論と矛盾はないように思います。とにかく、ですのでこれはフェティシズムの定義がどうあるかをとりあえずは棚上げして、ウィリアム・ジョージ・アストンの記述とするべきという事です。--小出-小坂井会話2021年11月12日 (金) 20:33 (UTC)[返信]
  1. ^ Kato Genchi— A Neglected Pioneer in Comparative Religion — Naomi Hylkema-Vos, Japanese Journal of Religious Studies 1990 17/4. p384
  2. ^ Dr. Genchi Kato's monumental work on Shinto, Daniel C. Holtom. 明治聖徳記念学会第47巻、昭和12年 1937/04/ p7-14
  3. ^ KOKUTAI - POLITICAL SHINTÔ FROM EARLY-MODERN TO CONTEMPORARY JAPAN, Klaus Antoni, Eberhard Karls University Tübingen: Tobias-lib Tübingen 2016, p259
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「フェティシズム」の解説. URL=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0-123126#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「呪物崇拝」の解説 URL=https://kotobank.jp/word/%E5%91%AA%E7%89%A9%E5%B4%87%E6%8B%9D-78176#:~:text=%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%B6%E3%81%A4%E2%80%90%E3%81%99%E3%81%86%E3%81%AF%E3%81%84%E3%80%90%E5%91%AA%E7%89%A9,%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%80%82
  6. ^ a b c d e f SHINTO (THE WAY OF THE GODS) BY W. G. ASTON, C.M.G, D.Lit., LONGMANS, GREEN, AND CO. 39 PATERNOSTER ROW, LONDON NEW YORK AND BOMBAY, 1905, p.65-75, p.73, p.159