ノート:取次 (豊臣政権)/過去ログ1

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改名提案

取次の制度は室町幕府や江戸時代にも存在しているようなので、豊臣政権のものだけではなく、広い範囲での取次の項目に変更してはいかがでしょうか。加筆は出来ませんでしたが、外部リンクの鍋本准教授によると江戸時代の取次にも相当数の論文があるそうです。--模様砂漠2 2010年10月18日 (月) 16:52 (UTC)

かなり迷いましたが、タイトル通りに一度定義を戻し、室町幕府については後段に差し込ませて頂きました。
鍋本論文は既にあたってまして、こちらの取次は豊臣政権由来のもので、家康による占拠と置き換えの過程であり、後に江戸幕府の統治機構が整備されると無くなっているようで元記事と同義です。
一方、室町幕府の方は表向きの守護という表向きの統治機構がある中での伝達役であって、統治機構が整っていない中で大きな裁量を振るった豊臣統治機構上の取次とは少し定義が異なるような気がします。桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』2009年の文庫版の後書きは読まれたでしょうか?この筆者は節題と後書きにある武家取次制という概念で室町幕府の取次を捉えているようです。また、第三章には津野論文が参考文献に上げられており、豊臣政権の取次研究からの概念拡張が窺えます。
単なる取り次ぐ行為をするという意味の取次であれば、武家に限らず伝奏から現代の商習慣まであります。もう少しボリュームと出典ががあれば包括的な記事になるような気もしますが・・・現状ではバランス的に見ても室町幕府の管領守護、江戸幕府の老中大目付のような機構と同列に豊臣政権の取次の位置での記事で良いのではないかと思っています。--Yasumi 2010年10月22日 (金) 21:20 (UTC)

ありがとうございます。同じ言葉を用いても時代によって性格が異なることは、日本史においてままあることだと()思いますので、同じ言葉を用いた概念の若干異なるものを扱うこと自体には問題がないと思います。鍋本論文の話をしましたのは、その論文自体ではなく山本博文氏を含む多くの方が江戸時代初期の取次に対する研究を行っていることが触れられているからです(註の項を参照ください)。形や性格を若干変えながら継続した取次という制度史を扱った方が、豊臣政権でなぜ取次が行われたのかということの理解にもつながると思います。

また桜井氏が豊臣政権の取次から類推して室町幕府の「大名取次制」という概念を創出したことは確かです。しかし、この本自体は「信頼できる情報源」の条件を満たしており、それが豊臣政権の取次研究に引きずられた間違っている意見かどうかを判断するのは独自研究にあたるのではないでしょうか。(私見ですが、この制度自体は渡辺世祐氏によって指摘されていることや、細川持之書状で「佐々河(篠川)殿へ仰せ出さるる事、毎度取りつぎ申し入れ候。」(桜井、149p)と「とりつぎ」の言葉を用いていることからそう突飛な意見ではないと思います。)--模様砂漠2 2010年10月23日 (土) 00:20 (UTC)

ええ、桜井氏の「大名取次制」については、それを出典とする形での記事は書けると思いますよ。私は、間違った記事だから書くな、とは言っておりません。しかし、それは取次 (豊臣政権)の定義とは異なる概念の記事ですよね?桜井著でも文中の「当時、将軍と地方の守護・国人とを取り次ぐ役割を果たした幕閣を取次とか申次とよんだ。・・・以下、近習の申次と区別するために、これを取次とよぶことにしよう。」や、学術文庫版あとがきの「-本書ではこのような関係がかなり普遍的に、しもなかば制度的に存在したことを明らかにした上で「大名取次制」と概念化したが-」とこの著作の中で初めて定義しており、言葉は一緒でも一連の豊臣政権の取次との関連は出典には無いようです。
私としては、もし鎌倉幕府以来の武家に関する包括的な取次の記事を書くのであれば、これらを系統立てて繋ぐ出典の存在を待ちたいと思います。参考までに丸島和洋「戦国大名間外交における取次 : 甲斐武田氏を事例として」2008年[1]の様な論文もあります。将来はともかく、当面は概念が異なる記事なので、独立した別記事とするか、従属的記事として一体としておくかに留めるべきかと思います。--Yasumi 2010年10月23日 (土) 02:09 (UTC)

「取次」が書状などで任じられる職でなく後世から見た概念であり、公式の書状に添状を付け([2]、丸島氏の論文の註19には足利義晴と戦国大名でも同様とあります)、地方への政策指導を行い、中央政権と地方の間を取り持つ存在であるのは室町時代も豊臣政権でも江戸時代でも同様なのですが、豊臣政権の「取次」と決定的に異なる点はどこなのでしょうか。また室町時代に「取次」という概念があり、江戸時代初期に取次が存在することは明らかです。前者についてはひとまずおいても、後者の取次に関しては「豊臣政権」のものではありませんが、豊臣政権と連続性があるとYasumiさんもおっしゃっています。しかし現状の記事名では江戸時代の取次について書けません。それだけでも「取次 (豊臣政権)」の改名の理由となると思いますが、そちらについてはどうでしょうか。--模様砂漠2 2010年10月23日 (土) 02:59 (UTC)

山本博文は『天下人の一級史料』で「私の「取次」論は、奉行の立場でありながら「取次」の論理での行動があった、という発見をもとに、豊臣政権の「取次」は、戦国時代の交渉役としての「取次」の性格を変化させ、豊臣政権の公的な制度として運用されたものだった、ということを主張したものです。(段落替え)その主張は、認められたようですが、その後の議論は、個々の「取次」の性格を無視して、誰が誰の取次だったか、という形で進行していき、私の節の最も重要な部分にあまり言及されませんでした。p207」と「豊臣政権の大名統制機構としての「取次」p208」を公的な制度と見なした研究を行っています。また、豊臣政権の「取次」は、取次を命ずる書状が元となっており、更なる研究展開で同様の役割を持ったものを「取次」と見なすような流れとなっています。
同書より「豊臣政権においては「取次」とされた人物が、大名を強力に統制したほか、豊臣政権下の大名にふさわしい権力を確立させるための後見人としての役割も果たした、ということが私の主張です。これは、外交交渉を行う戦国時代の「申次」とは、まったく段階が違うものです。p210」「江戸幕府になると、すでに豊臣政権下において成立した人間関係をもとにさまざまな取次関係が成立していきます。p211」と違いが述べられています。
記事でも定義には触れていますが、定義が異なるのですから室町時代の取次と、江戸時代の取次の記事が書きたいのであれば、それぞれの出典から、それぞれの定義を行って、それぞれの記事にすればよいと思います。その上で、豊臣政権の「取次」と包括性をまとめた出典があるのであれば、統合を行える段階に進めるでしょう。
蛇足ですが、「取次という形式そのものが、広汎に存在する慣習である」ということであり、言葉が同じであるという理由だけで統一記事にするのであるなら、出版取次なども含んだ記事を考える必要がありますよね?--Yasumi 2010年10月24日 (日) 12:43 (UTC)

すいません、室町時代と豊臣政権、江戸時代と豊臣政権についてはどうなのでしょうか。室町幕府の取次も事実上公的なものなのです。また「江戸幕府になると、すでに豊臣政権下において成立した人間関係をもとにさまざまな取次関係が成立していきます。」は成立過程の説明だけで、定義の違いなどまったく述べられていません。それに、「奉行の立場でありながら~」が「豊臣政権の取次」の定義であるなら、「取次」の例であげられている徳川家康、上杉景勝は天正14年の時点で豊臣政権の奉行だったのでしょうか(五大老が奉行人と呼ばれていたのは後のことです)。豊臣政権の中でも取次の定義が徐々に変化していくから、「豊臣政権は職制の制度化が進まないうちに崩壊したため、取次の概念も定まっていない。」ということなのではないでしょうか。--模様砂漠2 2010年10月24日 (日) 13:26 (UTC)

ですから、室町時代と豊臣政権、江戸時代と豊臣政権について、一連のものとして繋ぐ出典が見あたらないから一連の記事にするのに抵抗があるということです。出典に従って豊臣政権の取次の延長で徳川氏による置き換えが行われたことまでは執筆しました。それとは別に、江戸時代には殿様に情報を取り次ぐだけの取次役などの役職があることは知っていますが、それを繋げて書いてしまうのは独自研究になってしまうのではないですか?
そのように、ある対象に対して取次を行う中継役というのは武家に限らず現代も含めて広範に存在するわけですよ。そうではなく、成立期間が短くて未成熟な豊臣政権の中で「取次」に着眼して統治機構や政治構造を研究したのが山本氏以降の一連の論文や著作です。
上述の「奉行」とは定義ではなく、石田三成と浅野長政が奉行という地位にもかかわらず、取次という地位で働いていたことの発見が研究の切っ掛けであるとの説明文の一部です。山本博文『天下人の一級史料』は読んでいただけたでしょうか?なお多少外れる話ですが阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」や堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討」を読めば分かると思いますが、家康や上杉も慶長三年から五年にかけて奉行と呼ばれています。--Yasumi 2010年10月24日 (日) 21:37 (UTC)

山本氏が研究を始めたきっかけの話をしているわけではありません。yasumiさんは定義がまったく違うとおっしゃいましたから、その定義についてお聞きしているのです。豊臣政権の取次と他の取次にはどのような「定義」の差があって、それは項目を分けなければならないほどの差かどうかです。山本氏が研究を始めたきっかけが重要になるのは「山本博文の豊臣政権における取次論」の項目であって、取次自体を説明する項目ではありません。また山本氏も「幕藩制の成立と近世の国制」において「島津家について、織豊期から江戸初期にかけての取次を題材」とした論文を書かれているとあります(鍋本論文)。--模様砂漠2 2010年10月25日 (月) 04:17 (UTC)

言い方が悪かったですかね?取次を武家共通の包括的な記事とするには、桜井英治のみが単独で定義した室町時代の「取次」と、山本博文以降相互引用により研究が進んだ豊臣政権の「取次」の間を繋ぐ出典が無いのではないかと言うことを言っているわけです。双方はそれぞれで定義が別に行なわれています。
なお、江戸初期と言われているのは、山本博文「家康の「公儀」占拠への一視点」かと思われますが、これは豊臣政権の「取次」が徳川臣下で置き換えられたことかと思います。これは山口直友などの例で記事にもなっていますが、性質的に豊臣政権の「取次」です。--Yasumi 2010年10月25日 (月) 13:11 (UTC)

言い方の問題ではなく、まずこちらの質問への回答をしてください。箇条書きにしますので、次回から番号に対応した回答を行ってください。

  1. 豊臣政権期と江戸時代の取次の定義を簡潔に示してください。研究の定義ではありません。
  2. この項は「取次」の項とするべきですか。それとも「山本氏の研究につながった取次」の項とするべきですか。後者を定義とする場合には「山本博文の取次論」と項目名を変更する必要があり、ページの定義を変更する必要があります。
  3. 江戸幕府成立後の秀頼・千姫の婚儀、琉球出兵の際にも島津家は山口直友を通じて幕府と交渉を行っています。この行為は「豊臣政権の取次」に当たりますか。
  4. 参考文献のどれでもいいですが、取次制度の発祥について「豊臣政権が最初」「江戸時代にはなかった」という趣旨を記したものはありますか。

また江戸初期について触れているのはそれだけではなく、山本氏の「江戸お留守居役の日記」にも「取次の老中」という節があり、土井利勝が毛利家の「取次」(原文でもカギ括弧付)を病気で辞退したという記述があります。そこで「取次の老中」は行動の指南を行い、将軍への披露を行う、半ば公的な立場を持つものと説明されています。鍋本氏の引用した千葉一大氏の「「取次」・「後見」・「御頼」・「懇意」 : 盛岡南部家の事例から」でも家綱政権期に「取次」が行われていたとあります。また、豊臣政権以前に関しても高橋博氏「【論文】天正十年代の東国情勢をめぐる一考察」では滝川一益が関東取次の地位にあり、本能寺の変後に秀吉が自己の「取次」体制を織田政権下の慣例を引き継ぐことで正当化しようとしていたと書かれています。--模様砂漠2 2010年10月25日 (月) 15:36 (UTC)

1.この記事における「取次」とは、山本博文氏の上げた「諸大名への命令伝達や個々の大名を服属させ後見するといった諸機能を果たし、かつそのような役割を公的に認められ期待される政権の最高級のメンバー」、これが基本概念であると考えます。
また、、戸谷穂高氏によるまとめで、
山本博文氏による「取次」の定義を
  • 各大名の後見、
  • 「公」的な命令を伝達
  • 摩擦のない関係を築き上げるための裏ルート
  • 軍事・兵站面での指示伝達
同じく、津野倫明氏による「取次」の定義を
  • 軍事動員・軍事指揮
  • 大名に対する後見・政策指導
  • 秀吉の意思の伝達・服属の促進
とあり、これらも参考となります。
一方、時代を区切った江戸時代の「取次」については、豊臣政権の「取次」を家康が占拠した事例までは豊臣政権の「取次」であると考え、相互引用された一連の出典から記事を書きましたが、それ前後について模様砂漠2さんが範囲を広げると言うことであれば、例えば江戸時代といわれても、どの範囲までを差すのが分からないため答えられません。取り次ぎ業務を「取次」と呼ぶ慣習は現在の出版取次などもある通りですし、江戸時代でも幕府や藩には御側御用取次や取次(越後長岡藩#取次など)といった役職がありますが、豊臣政権の「取次」とは違っているようです。
2.この項は上記1項の定義より始まった、一連の豊臣政権の権力構造を理解するための「取次」記事です。そのように執筆致しました。一連の論文や著作も山本氏依頼の「取次」論を相互引用したものです。
3.それ以前に行われていた豊臣政権の「取次」の性格を色濃く引き継いだ行為だと思います。業務的には後者は寺沢正成から引き継いだものでしょう。この頃はまだ豊臣秀頼が健在であり、二重公儀論なども適用される時代ですよね。
4.取次制度の発祥については存じません。山本氏が引用するように「取次という形式そのものが、広汎に存在する慣習である」いうのは武家に限らず、過去から現代に到るまでその通りだと思います。むしろ、どの時代のどこにでもあったような取り次ぎ行為や取次役職のうち、豊臣政権の「取次」を記事にしたのがこの項目です。
模様砂漠2さんの想定する記事の範囲がよくわかりませんので、曖昧さ回避をどの範囲で行うのか表明ください。現状は存在しない記事との統合提案を行っているようで、記事の将来像が分かりません。取次を行っていた伝奏申次衆までこの記事に含めてしまうつもりなのでしょうか?Yasumi 2010年10月31日 (日) 21:21 (UTC)

ご回答ありがとうございます。追加の質問をさせていただきます。

  1. 3の回答で「豊臣政権の「取次」の性格を色濃く引き継いだ行為」であるから、豊臣政権の取次として扱うとありました。前政権から引き継いだという性格があるものは、すべて「前政権のもの」として扱うべきですか。たとえば京都所司代板倉勝重などは豊臣政権のものですか。
  2. 高橋博氏は家康の東国取次を滝川一益から引き継いだと記しています。この場合徳川家康の関東取次は「織田政権の取次」ですか。
  3. 二重公儀論があることは承知しています。しかし朝廷と幕府の二つの公が存在している状態でも、朝廷と幕府の公は分類可能です。二重公儀論をとる場合の豊臣政権と江戸幕府も同様であると私は考えていますが、Yasumiさんは二重公儀期に存在したものは全て豊臣政権に属するものと考えておられますか。
  4. 大久保長安や本多正信を豊臣政権の年寄や奉行という人は誰もいません。琉球出兵に関する山口直友の取次は「二重公儀」のうちの豊臣政権に属するものと考えられているのですか?
  5. 山本氏のあげた「取次の老中」、桜井氏のあげた室町期の「守護や管領による取次」は、いずれも政権最高のメンバーによって行われた、公の意思を伝えながらも半ば非公式な伝達行為であり、一種の後ろ盾(山本氏「保護者」、桜井氏「癒着」「代弁者」)となったと記述されています。豊臣政権の取次の定義と本質的な違いは見出せますか。
  6. 桜井氏や高橋博氏など「取次」を他の時代にも広めて考える研究が広く行われています。山本氏も「取次」の概念を老中にも当てはめています。それを踏まえたうえで、豊臣政権の取次だけを分項しなければならない理由とは何ですか。

私は武家政権の取次とするべきだと申し上げておりまして、「取次」として研究が行われているものは記載するべきだと思います。老中と将軍を取り次いだ御側御用取次(これを「取次」と同一視する論文はあるのですか?)や諸藩の取次をこの取次のカテゴリーに含めるかどうかは研究次第です。--模様砂漠2 2010年11月1日 (月) 08:41 (UTC)

矢継ぎ早に質問を連発されて困惑しているのですが、こちらからも根本的な前提について、照会させて下さい。
そもそもこの記事は、豊臣政権の権力構造を理解するために研究された「取次」関係の論文や著作を出典に執筆したものであり、項目のポジションとしては豊臣政権五大老五奉行に並ぶような豊臣政権の制度的地位的な記事(整備された、江戸幕府であれば老中大目付室町幕府であれば管領侍所)であり、その任務・役職にあたった武将側記事やイベント側記事から取次 (豊臣政権)のリンクが貼られています。
この現状を踏まえて、今回の改名提案は定義変更を伴うものであり、記事は流用しても定義の異なる別記事となり、これは本当に改名提案の範疇なのでしょうか?発言を読む限り、模様砂漠2さんの構想する取次 (武家政権)は歴史上における職名を説明した奉行の様な記事になると考えましたが、合っていますか?
その場合は現状の取次 (豊臣政権)と排他的なものになるとは思えません。例えば取次 (武家政権)を立項して、
鎌倉幕府の取次
室町幕府の取次
戦国時代の取次
織田政権の取次
豊臣政権の取次
江戸時代の取次
のように、独自の記事を書かれれば、解決するように思えます。
その出来た記事の必要に応じて、現記事との統合提案すればいいのではないかと思います。違いますか?
 
なお、模様砂漠2さんが、史料に「取次」とある場合、あるいはその「取次」相当の任務実績などから、取次 (武家政権)記事への選択的取捨をするつもりなのか分からないので、江戸幕府の「取次」である御側御用取次や室町幕府で「取次」任務をした申次衆がなぜ「武家政権の取次」にならないのかも、当方には分からないことです。だから質問したのです。--Yasumi 2010年11月7日 (日) 11:04 (UTC)


  • 「取次」の項で扱うのはあくまで研究者が「取次」として扱っている場合です。私が引用した論文等では「取次」とカギ括弧付で表現した上で、すべて中央政権の有力者が、地方大名等と中央政権の連絡を取り次ぐ形であると紹介されています。将軍と老中の間の連絡を行う「御側御用取次」がそのような業務を行ったことはありません。それが「取次」なら側用人も該当します。
  • 「取次」の定義ではなくページの定義は立項者のYasumiさんが行われたものですので、新たな出典が見つかった際にそれを変更するのは通常の編集行為で可能です。立項者の意思を介在させる理由はありません(Wikipedia:記事の所有権)。
  • 豊臣政権の取次に他の時代と異なる特異性があり、それを分項しなければならない理由がないと判断されれば、他の取次と統合する提案は当然行われてしかるべきです。このページにあったのはは豊臣政権の取次ぎに対する説明と、実際に行われた事例の紹介にとどまっており、分割を要するほどの分量はありません。(京都所司代武家伝奏も似たような状況であるが、これらも分割されていない)現在「取次 (武家政権)」の項はないので改名提案を行いました。

なお、時間はたっぷりありますので、次回は質問に回答してください。--模様砂漠2 2010年11月7日 (日) 11:50 (UTC)

もとより記事の所有権など主張するつもりはないのですが、この記事は豊臣政権の役職を説明したものであり、取次とは「広範に存在する慣習」とのことですので、その中から模様砂漠2さんの設定する歴代武家政権の、更に御側御用取次や取次役などを除外して、中央-地方間で取次と呼ばれた地位を抽出・通史的記述とする記事が、範囲が異なる本記事に統合される必要があるのか未だ理解できません。特筆性がないとのことであれば、現状の本記事は削除依頼に入れられれば削除される運命にあるとのご主張ですか?再度問いますのでご回答願います。模様砂漠2さんの目指す記事は改名・定義変更・追記でなく、なぜ取次の通史を扱う新規記事ではダメなのでしょうか?
模様砂漠2さんの 2010年11月1日 (月) 08:41 (UTC) に回答します。
A1.見解を問われたと思ったので所感を述べましたが、記事としたのは豊臣政権研究関係の「取次」で出典に記述があったためです。京都所司代の板倉勝重については、任命したのが征夷大将軍の家康なのか、豊臣政権を運営する大老の家康なのか存ぜず、回答できません。
A2.それは、わかりません。
A3・A4.常に排他的に区別されるものとは考えません。
A5・A6.ご質問の三種の取次を横断的に接続した研究出典を存じませんので、記事上で同列に扱うには躊躇いがあります。少なくとも豊臣政権の取次は、多数の研究者による研究と相互引用により豊臣政権の役職としての一連の概念を構築しており、本記事となっています。それが異なる点でしょう。
期限は切れませんが、現状『室町人の精神 日本の歴史12』と『江戸お留守居役の日記』を読んでいますので、後日回答内容が追加されるかも知れません。--Yasumi 2010年11月14日 (日) 09:11 (UTC)

ご回答ありがとうございます。ご回答では曖昧なので、再度質問させていただきます。

  1. A,1によりますと、つまり「任命者が任命した段階」で、任命者が属する政権のものという扱いになるということでしょうか。たとえばヒトラー内閣の閣僚であるクロージク蔵相はヒンデンブルク大統領に任命されましたので、1945年の逮捕までの彼は「ヒンデンブルク政権の蔵相」という扱いになるということですが、それでよろしいでしょうか。
  2. 山口直友の取次を明確に豊臣政権のものだとYasumiさんはおっしゃいました。A.3・4の「常に排他的に区別されるものとは考えません。」という回答を解釈しますと、大坂の公儀と徳川の公儀の両属ではないと判別がされていると言うことになります。この区別はどうして出来たのでしょうか。
  3. 「この記事は豊臣政権の役職を説明したものであり・・・」とありますが、取次は「役職」ですか。
  4. Q.5の質問の回答が行われていません。再度回答を求めます。「山本氏のあげた「取次の老中」、桜井氏のあげた室町期の「守護や管領による取次」は、いずれも政権最高のメンバーによって行われた、公の意思を伝えながらも半ば非公式な伝達行為であり、一種の後ろ盾(山本氏「保護者」、桜井氏「癒着」「代弁者」)となったと記述されています。豊臣政権の取次の定義と本質的な違いは見出せますか。」

私の意見では「豊臣政権」というくくりが不適切であると考えています。徳川政権にも引き継がれた事項であり、織田政権の取次から引き継がれたという指摘があることはすでに述べました。「豊臣政権」というくくりがある場合には二重公儀期のような「移行期」について記述することが出来ません。さらに各時代の「取次」が同じ概念なら同じページで扱うのが適当です。もし「豊臣政権の取次」が他の時代の「取次」と明確に異なる特徴を持っている、もしくは記述量があきらかに多い場合なら豊臣政権期の取次だけを分割した記事とするのが適当です。それを確認するための質問をしておりますので、回答をよろしくお願いいたします。--模様砂漠2 2010年11月14日 (日) 10:34 (UTC)

A1.あえて近代に例える意義がわかりません。ワイマール憲法にはそれほど詳しくないのですが、クロージクはパーペン内閣・シュライヒャー内閣・ヒトラー内閣(デーニッツは?)の各財務相だったのではないでしょうか?昭和天皇が首相他を信任しても昭和天皇政権、あるいは西園寺公望が首班を推薦しても西園寺政権とはなかなか言わないでしょう。出典に豊臣政権の取次に関連した記述がある場合は、豊臣政権の取次の記事に記載可能です。
A2.私は山口直友の取次を「豊臣政権だけのものであって江戸時代のものと認めないなどとは言っていません」。独自研究で豊臣政権or江戸幕府のような排他的な区分をするものではなく、少なくとも出典に従って豊臣政権の取次の記事に書けるものだと認識しています。それとも山口直友の取次を江戸幕府だけのものとした出典があるのですか?
A3.豊臣政権の取次は江戸時代の「取次の老中」とは違って、豊臣政権から担当大名を任じられた役職が発起点ではありませんか?「豊臣世間の公的な職制」であると述べられています。
A4.「取次」について、1)田中氏が「取次を下から上へ取り次ぐ関係」であるとの主張に対し、山本氏は「豊臣政権の取次は秀吉よりの命令で取り次げと設定された制度」であると批判しています。2)田中氏が取次を「大名側が選び・依頼し・相手が受けて成立する」ものとしているのに対し、山本氏は「それは豊臣政権の取次とは異なる江戸時代の取次のことである」と批判しています。3)田中氏が「取次は制度でなく慣習であり、知音関係である」と主張しているのに対し、山本氏は「取り次ぎという慣習はあるが、豊臣政権の取次は政権から与えられた役割であり、知音関係が無い事例もある」と批判しています。以上の出典は山本博文『天下人の一級史料』の第四講。室町時代については、『室町人の精神』内で便宜的に「以下、近習の申次と区別するために、これを取次と呼ぶことにしよう。」と呼称しているのみです。内容は江戸時代の「取次の老中」も同じですが室町時代の取次についても政権より任じられて大名権力の内部まで立ち入って指導を行う豊臣政権の取次とは違うのではないかと思います。
(その他)
「「豊臣政権」というくくりが不適切であると考えています」 >豊臣政権で括っている出典がいくつもあるため、私は適当と考えます。
「「移行期」について記述することが出来ません」 >逆に、過渡期であれば両時代記事に書けると考えます。少なくとも出典があるので削除はないでしょう。
「記述量があきらかに多い場合」 >ですから、「武家政権・地方統制・取次関係史」という限定を模様砂漠2さんが設定するのであれば、そのような新たな出典から新たな記事を立てればよいと思います。なぜ独立項目を立てないのか理由を明示下さい。--Yasumi 2010年11月19日 (金) 22:31 (UTC)
  1. あえて近代にたとえたのは「前政権による任命があれば前政権のものとしてあつかう」ということが、時代に関係ない一般的な法則であるかどうか確認するためです。もし、日本の近世に限っては前政権の任命があれば、前政権のものとして扱うというルールがあるのでしたらご指摘ください。なお、ヴァイマル共和政下で国務大臣は大統領の承認が必要であり、大統領によって任命されるものです。なお、内閣が変わろうとも政権保持者である国家元首は大統領(1934年8月2日以降はヒトラー)です。またヒトラー時代とヒンデンブルク時代にはナチス・ドイツ時代とヴァイマル共和政時代という時代区分もあります。
  2. 「A2」の回答によると、山口直友の取次は豊臣政権のみのものであるとも断言できず、豊臣政権のものや江戸政権のものとする「排他的な区分」にそぐわないと考えておられるのですね。そうならば純粋な「豊臣政権」の取次として扱う「取次 (豊臣政権)」の項目名は不適当です。
  3. A.4ですが、あなたの指摘した部分は研究者全体で「取次」定義についてのコンセンサスが取れている事象ではありません。つまり「取次」そのもののの解釈が山本氏、田中氏との間で異なっているということです。山本氏の定義のみに従う必要があるなら、それは「山本博文の取次論」の項目であり、複数の研究者によって研究されている「取次」を扱う「取次」、もしくは「豊臣政権の取次」の項目とはそぐわないのです。Wikipedia:中立的な観点を参照してください。
  4. 新しい記事を創設した場合、「取次 (武家政権)」と「取次 (豊臣政権)」の記事二つが並立することになります。そうなれば、この記事が単独記事として存在する事が適当か問われるのは当然です。新しい記事を立ててもかまいませんが、そうなれば「統合提案」を出します。二度手間になりますので改名提案を使用しています。--模様砂漠2 2010年11月20日 (土) 03:00 (UTC)
  • コメント 論者によって捉え方が異なるとはいえ、「取次」を豊臣政権のものとするのは中立性(論者・学者間の)に欠け、また「取次」を豊臣政権のものだけ独立させる理由は乏しいと考えます。現時点では、武家政権の取次のうちの一つとして扱う方式が最良のように思えます。--秋田城之介 2010年11月20日 (土) 08:20 (UTC)
1.私は排他的に「山口直友を江戸時代の取次ではない」などとは主張していませんし、記事にも書いていません。少なくとも、「クロージクはヒンデンブルグに任命された」「パーペン内閣の財務相を勤めた」等と書けるのと同様に「ヒトラー内閣の財務相を勤めた」とも書けますので、豊臣政権の取次の記事にも山口直友の取次としての働きも書くことが可能です。それとは別に模様砂漠2さんが取次の通史記事を立てた場合に山口直友を江戸幕府の取次と扱う出典を引用するのであれば、それは記事に出来るでしょう。
2.そうならば純粋な「豊臣政権」の取次として扱う「取次 (豊臣政権)」の項目名は不適当です。 >何が純粋であるのか否かは不明ですが、豊臣政権の取次記事に関係する部分ですので「取次 (豊臣政権)」の項目名は適当です。
3.研究者全体で「取次」定義についてのコンセンサスが取れている事象しか記事に出来ないという論理であれば、模様砂漠2さんの提案する取次 (武家政権)も成立しないことになるのでは?これは、どういうことでしょうか?なお、取次 (豊臣政権)について、田中氏の豊臣政権に関する出典があれば、内容に従って併記加筆することは可能であり、これを排除するものではありません。
4.どうぞ、模様砂漠2さんの持つ出典に従って「取次 (武家政権)」をお立てください。よろしくお願いします。(鎌倉幕府についてどうなっているのか不明ですが・・・)
5.いろいろ好意的に解釈しても、秋田城之介さんの意見は更に理解に苦しみます。(取次と呼ばれる物の一つに豊臣政権の「取次」があるので)「取次を豊臣政権のものだけとする」などという主張も記事も存在しませんし、「中立性(論者・学者間の)に欠け」の中立性の意味が分かりませんが、山本氏言う広く広がりを見せている研究ですので論文も数多いですし、豊臣政権の「取次」に関する出典のある記事であれば「「取次 (豊臣政権)」に加筆すればよいことですし、それ以外の取次に関する出典のある意見であれば、該当の「取次」記事を立項または加筆摺ればよいのです。現状は別に「取次を豊臣政権のものだけ独立させ」た状態ではありません。曖昧さ回避となっているのがその証拠です。その他の取次記事を秋田城之介さんが書きたいのであれば、出典を元にして思う存分秋田城之介さんが執筆すれば良いでしょう。
6.田中氏の論文を読みましたが、その前提に書いてある通り、研究の対象が「江戸時代」であったり対象が「関係」であったりと、山本氏以来広く広まっている豊臣政権の取次概念とはかなり違うようです。どちらかというと、同じ山本氏の著作にあった「取次の老中」と同じ概念で語られているようです。これは『日本史広辞典』山川出版社1997年の項目にもなっているようです。--Yasumi 2010年11月27日 (土) 06:53 (UTC)
  1. yasumiさんは2010年10月25日 (月) 13:11 (UTC)に「これは山口直友などの例で記事にもなっていますが、性質的に豊臣政権の「取次」です。」と発言されています。この発言は江戸政権も含む総合的なものだと解釈できません。この時点で山口直友の取次が江戸政権にも重複するものと考えておられたのであれば、なぜ 2010年10月24日 (日) 21:37 (UTC)に「江戸時代と豊臣政権について、一連のものとして繋ぐ出典が見あたらない」と発言されたのですか。「同一人物である山口直友の取次」が江戸政権と豊臣政権に両属の性質を持っていても、豊臣政権と江戸政権の取次は一連のものではないということなのですか。
  2. 「山口直友は江戸時代の取次ではない」わけではないのであれば、黒田如水や蜂須賀正勝のような「純粋な豊臣政権の取次」ではないでしょう。取次を「豊臣政権」のもののみとして扱うには、他の政権と重なる部分が多すぎると言うことなのですが。
  3. コンセンサスが取れた事象のみが記述できると誰が言いましたか。もしそうなら邪馬台国の記事はほとんど書けないでしょう。コンセンサスが取れていない状態というのは、一つの事象に複数の視点が存在する状態の事です。Wikipedia:中立的な観点に従って、「取次」に対する立場の異なる研究者からの視点、論争があればそれも記載するのがwikipediaです。
  4. 新規立項してもかまいませんが、その際には統合提案を出すと前回も言いました。その場合の賛否をお聞かせください。--模様砂漠2 2010年11月27日 (土) 10:57 (UTC)

(コメント) Yasumi氏> 中立性と言うのは、「取次」に関する定義の重み付けのことを指しています。取次 (豊臣政権)のみを特別視し、独立立項目させている状態は好ましくないでしょう。だからといって時代別の取次記事を各個立てるというのは非効率的です。--秋田城之介 2010年11月29日 (月) 05:31 (UTC)

(模様砂漠2さんの 2010年11月27日 (土) 10:57 (UTC)へ)
1.その質問は改名とどのような関係があるのでしょうか?ご説明を願いたいです。山口直友は江戸幕府より取次に任命されたのでしょうか?今の記事は豊臣政権の取次の終末を書いた害利益ですので、もし江戸時代の統治機構をテーマに記事を書くのであれば、出典を元に今以上の密度で江戸時代の取次の記事へ書けばよいと思います。
2.黒田孝高や蜂須賀正勝が「純粋な」豊臣政権の取次というのは、どのような根拠があるのでしょうか?各論がある中で、豊臣政権の取次を務めた例として出典があれば記事に出来るので問題ありません。
3.ではコンセンサスが取れてなくても、出典から記事が作られている以上、何も問題はありません。豊臣秀吉の取次を対象とする視点であれば出典から記事は追記可能です。
4.新記事と統合提案の両方の具体的内容を見てから私は賛否を決定したいと思います。もともと、この議論は改名提案ではなく記事の定義を変更して、別記事にするものですよね?模様砂漠2さんの書かれる記事が「武家における取次の通史」や「歴代武家政権の地方統制役」などになるのか、実見しないと判断できません。また、歴代取次を網羅的に研究した出典がどのようなものなのかも判断の上で気になるポイントです。
(秋田城之介さんの 2010年11月29日 (月) 05:31 (UTC)へ)
中立性と言うのは、「取次」に関する定義の重み付けのことを指しています。 >ご主張がわかりかねます。本記事は単に「取次」と呼ばれるもののうち、出典に従って豊臣政権の統治機構で重視されている「取次」の概念を扱っています。そのために妥当な曖昧さ回避をしています。他にも単に「取次」と呼ばれる記事があり、これからも立てられるのかもしれませんが、今まで通りにそれぞれの定義に従って曖昧さ回避をすればよいと思います。
--Yasumi 2010年12月3日 (金) 21:08 (UTC)
  1. 問題となっているのはYasumiさんの議論における誠実さです。議論において、発言の整合性がとれているかどうかは大前提です。反論のための反論になり、議論を深めることになりません。
  2. 2010年10月22日 (金) 21:20 (UTC)の発言では「鍋本論文は既にあたってまして、こちらの取次は豊臣政権由来のもので、家康による占拠と置き換えの過程であり、後に江戸幕府の統治機構が整備されると無くなっているようで元記事と同義です。」という発言をみますと、家康政権には豊臣政権と同義の取次が存在したこと、そしてそれが豊臣政権から引き継がれたものであるということを認められたものと見えます。それなのにその後 2010年10月24日 (日) 21:37 (UTC)に「江戸時代と豊臣政権について、一連のものとして繋ぐ出典が見あたらない」ということを、改名を拒む理由として提示されました。鍋本論文が「一連のものとして繋ぐ出典」でないなら、本記事と同義ではありえません。いったいどちらの意見がほんとうのYasumiさんの意見ですか。
  3. Yasumiさんは豊臣政権の時代から取次を行っており、江戸政権の時代に江戸政権のために取次を行っている、山口直友の行為は「取次」ではなかったと考えられているのですか?ならばなぜ山本博文氏は「取次」の研究で山口直友を取り上げたのですか?山本氏はいずれかの時点で山口直友が「取次」でなくなったと記載しているのですか?
  4. 「山口直友は江戸幕府より取次に任命されたのでしょうか?」や「この記事は豊臣政権の役職を説明したものであり」という発言がありますが、「取次」は役職ですか。私が引用した論文では「取次」は役目や行為、慣習として取り上げられており、「奉行」や「年寄」のような役職であると触れられていません。もし役職なら徳川家康と上杉景勝が1586年(天正14年)の段階で豊臣政権の役職についていたと言うことになりますが、間違いありませんか。そして「取次」が豊臣政権の役職ならば、1596年(文禄5年)の出来事は、豊臣政権に服属する一大名にすぎない伊達政宗が政権の取次職を免職したということになりますが、そう扱われているのですか。
  5. 千葉一大氏の論文の冒頭には山本氏と田中氏の研究を比較した上で、『両氏の「取次」と「指南」の認識に大きな違いが存在すると思われる』とあり、両者の間で取次の見解が大きく異なっていることを指摘しています。yasumiさんは2010年11月27日 (土) 06:53 (UTC)「田中氏の論文を読みましたが(中略)山本氏以来広く広まっている豊臣政権の取次概念とはかなり違うようです」と書かれました。「取次」に関して山本氏の「取次」概念が田中氏の「取次」概念より広く広まっているという根拠をお出しください。
  6. 「黒田孝高や蜂須賀正勝が「純粋な」豊臣政権の取次というのは、どのような根拠があるのでしょうか?」という質問ですが、ならばなぜYasumiさんはこの二人を「取次」の例としてこの記事に書いたのですか。そしてこの時期に彼ら二人が服属しなければならない政権が「豊臣政権」の他にあったとでもいうのですか。
  7. 「本記事は単に「取次」と呼ばれるもののうち、出典に従って豊臣政権の統治機構で重視されている「取次」の概念を扱っています。」という「本記事で扱う範囲」を定義したのは立項者であるyasumiさん自身です。室町期や江戸期の取次を記述するための改名議論はその定義を改めるべきだという議論なので、その定義がどういう出典に基づくものであるか、そしてその定義に従わねばならない理由を示してください。--模様砂漠2 2010年12月4日 (土) 13:25 (UTC)
1.2.ですから、鎌倉・室町・江戸と歴代武家政権の、その中で地方統制を担当するような範囲に限定し、逆に公武政権間・戦国大名間・将軍-老中間などの取次を排除して、「取次」を通史的に扱っている出典は見たことがありません。
 また、そのような通史的な奉行と同型の記事を作るのであれば、少なくとも豊臣政権の政治機構の一つを説明している現在の記事の改名にはならないし、テーマが違うのであれば別記事にすれば良いというのが私の意見です。
 徳川政権の「取次」記事が書きたいのであれば、そのような出典からそのような記事を書けばよいと思います。初期幕政の地方統制を記事にしたいのであれば将軍近習についてなど、出典なら沢山さんあるでしょうし。
3.本記事では江戸政権の「取次」には重点を置いていませんし、書いてあっても豊臣政権の「取次」の終末を説明する上でのさわり程度でしょう。少なくとも、本記事上で不都合は無いと考えます。
4.豊臣政権の「取次」は政権側が割り当てて任じたものから始まっています。逆に江戸時代の「取次の老中」は大名側が根回しのために選択形成した関係のようです(元々、老中の役務の一つが大名統制ですし)。それぞれ研究対象が異なりますし、概念も異なりますよね。後半部のご質問は前提が混乱しているようなので、もう一度整理をお願いします。
5.すくなくとも豊臣政権研究では大差があるように思えます。それに、異なる対象と概念について比較ができるのでしょうか?質問がわかりかねます。
6.まずは「「純粋な」豊臣政権の取次」とはなんなのか、ご返答下さい。私は出典が「豊臣政権の取次」として扱っているから記事にしています。それとは別に、批判もあるわけです。
7.ですから、模様砂漠さんの提案が改名でなく、別記事にするのであれば改名議論ではないのでしょう?「室町幕府から江戸幕府に至るまでの取次制」という定義の異なる記事が書きたいのであれば、出典の定義に従って新記事をお立てください。逆に私は、「その取次制」というものが、どの出典で範囲を定めたり概念化されたものか明示されないので判断つきかねます。二人だけで議論にエネルギーを使う前に、どんな記事になるのか分かりませんが模様砂漠2さんが取次 (武家政権)を書いてみれば、差異や共通性は顕在化するわけですから問題があればコメント依頼を出して解決するでしょう。
--Yasumi 2010年12月10日 (金) 20:54 (UTC)
  1. 「取次を横断的に扱っている出典」が無いとおっしゃっていますが、豊臣政権と江戸時代の間をつなぐ出典はすでに何度も示されている上に、織田政権期から豊臣政権期の移行についても千葉一大氏の論文について触れています。どの程度なら横断的な論文を指すのですか。山本氏の「天下人の一級史料」でも「江戸幕府になると、すでに豊臣政権下において成立した人間関係を基に様々な取次関係が成立してきます。」と、江戸時代における取次の存在を示しています。
  2. 「大名側が根回しのために選択形成した関係のようです」点が江戸時代の取次は豊臣政権のものと違うとおっしゃいますが、それのみが豊臣政権の取次を別記事として取り上げなければならないほどの差ですか。武士・地頭・大名・御家人など時代横断的に存在する概念は数々ありますが、時代によって役割や実態が異なるのは当然です。その点だけを書くなら「取次」の大記事で節を分け、一行二行触れるだけでも同じなのです。「別記事」にしなければならない理由を挙げてください。
  3. では、「純粋な」豊臣政権の取次ということに出典があるのかとお聞きになった真意をお答えください。Yasumiさんは概念も知らない「純粋な豊臣政権」に出典があるのかと聞かれたのですか。黒田如水と蜂須賀正勝が概念も知らない「純粋な豊臣政権の取次」であるという私の主張を崩せば、豊臣政権期の取次が別記事として存在する根拠となると考えられたのですか。
  4. yasumiさんは2010年11月27日 (土) 06:53 (UTC)「田中氏の論文を読みましたが(中略)山本氏以来広く広まっている豊臣政権の取次概念とはかなり違うようです」と書かれました。「取次」に関して山本氏の「取次」概念が田中氏の「取次」概念より広く広まっているという根拠をお出しください。これは前回お答えがありませんでした。必ず答えてください。
  5. 「天下人の一級史料」で引用されている津野氏の論文に「その定義にすら検討の余地が残されている」と、取次の概念についていまだに論争があることが書かれています。山本氏も「「取次」概念があいまいなのは、確立した制度を考察しているのではなく豊臣政権の大名統制の実態を究明するものだからです。」と概念が曖昧であることについて触れています。そんな状態の研究なのに、豊臣政権期のみ明確に他の取次と異なっているという出典は何ですか。これも必ず答えてください。--模様砂漠2 2010年12月11日 (土) 23:29 (UTC)
(追記)「本記事では江戸政権の「取次」には重点を置いていませんし、書いてあっても豊臣政権の「取次」の終末を説明する上でのさわり程度でしょう。少なくとも、本記事上で不都合は無いと考えます。」は。2010年12月4日 (土) 13:25 (UTC)の3に対する回答になっていません。当該の質問は山口直友の取次は「豊臣政権と江戸時代の間をつなぐ出典」たりうるかどうかの問題です。「豊臣政権と江戸時代の間をつなぐ出典」を要求されたのはYasumiさんです。正確に答えてください。--模様砂漠2 2010年12月11日 (土) 23:40 (UTC)
1.ですから、模様砂漠2さんが記事にするといわれる「武家政権の取次」を対象とする出典です。当初、出ていたのは「室町人の精神」で扱われている桜井氏が取り上げた取次と、現記事の「豊臣政権の取次」、それから田中氏の取り上げている「藩から江戸幕府への取次(山本氏の取り上げた「取次の老中」と一致)」の三種類でした。
2.豊臣政権の統治機構として特筆性があるためです。
3.模様砂漠2さんが質問に「純粋な豊臣政権の取次」という概念を持ち出したので照会しています。ご質問にお答えするためにお答えが必要です。
4.質問が要領を得ていない様に思います。異なる概念について、どちらが優勢であるのか、どのように答えたらよいのでしょうか?
5.幾つのかの出典にもある通り、「豊臣政権の統治機構」として特筆性を認めているからです。
追記.職制としての「豊臣政権の取次」については山口直友への継承で終了しているように思います。江戸幕府が山口直友を取次に任命しているのでしょうか?逆に、関係としての「取次の老中」としては山口直友の例は接続されていないようです。現在の豊臣政権を対象とする記事ではなく、取次の変遷史とした記事に変えるにしても、山本氏系統の出典(研究対象は豊臣政権、取次は政権の任命する役職的存在)と田中氏系統の出典(研究対象は初期幕政、取次は大名側が選択的に頼る関係)では、それぞれが異なる時代・異なる概念を武家政権という括りで同居させるのは困難なのではないでしょうか?
--Yasumi 2010年12月19日 (日) 12:21 (UTC)
  1. 室町幕府・織田政権・豊臣政権・江戸幕府という「それぞれの武家政権」で「取次」があったという出典はすでに示されています。「横断的」というのは「取次」の通史が書かれなければいっしょに書いてはいけないという意味ですか。
  2. 「江戸時代と豊臣政権について、一連のものとして繋ぐ出典が見あたらない」から記述に反対されていたはずですが、織田政権と豊臣政権の取次を繋ぐ出典もあり、豊臣政権と江戸政権の取次を繋ぐ出典もすでに示しました。ですが「横断的」な出典がないからということで反対されています。「繋ぐ」から「横断的」へと変化した理由を述べてください。
  3. 「豊臣政権の取次として特筆性があるためです」とのことですが、お聞きしているのは他の時代の取次と別に扱うことについてです。「豊臣政権の取次」に特筆性があっても、大記事の「取次」内にも書けます。特筆性があると言うことだけで記事分割はしません。
  4. そもそも「山口直友の取次」について、 「性質的に豊臣政権の「取次」」なのかどうかというのが会話の流れです。「純粋な「豊臣政権の取次」」という言葉は、Yasumiさんが「取次 (豊臣政権)」の記事で、「豊臣政権」の取次の例としてあげたものです。彼らの取次は、豊臣政権が他の政権からの移行期にある時期ではない、つまり山口直友の時期のように「二重公儀体制」などを持ち出す必要がない時期です。固有名詞が黒田如水と蜂須賀正勝だろうが、石田三成と増田長盛であろうが大差はありません。その後に私はこう続けています。「取次を「豊臣政権」のもののみとして扱うには、他の政権と重なる部分が多すぎると言うことなのですが。」この会話の流れを見れば、本論は「山口直友の取次」の属性であるのは明らかです。しかるにこれ以降山口直友の地位に対する回答はありません。したがって、Yasumiさんの逆質問はただの論点ずらしであると考えています。論点ずらしではないならば、「純粋な「豊臣政権の取次」」の定義を聞くことがどうこのページを「取次 (豊臣政権)」とする正統性をもたらすのであるか、答えてください。山口直友が「性質的に豊臣政権の「取次」」であるかどうかも再度確認お願いいたします。
  5. 「山本氏以来広く広まっている豊臣政権の取次概念」とおっしゃったのはYasumiさんですから、広まっているという出典を示していただければいいのです。しかし細かくいいますと、Yasumiさんが「山本氏の取次」と「田中氏の取次」の論文を読んだのにもかかわらず、田中氏の論文を出典とする必要がないと認めるほど、「取次」について山本氏が示した定義が採用されているという出典です。「天下人の一級史料」208pに引用された津野氏の「「取次」を「制度ではなく慣習」とみる田中誠二氏の研究が痛烈に山本説を批判した」という文がありますので、取次が制度か慣習かという点についての「論争」が発生していることは明らかです。Wikipedia:中立的な観点にある「今の時点では、偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明することだ、と言っておくことにします。」に従えば、信頼できる情報源である津野氏、山本氏の著作で触れられるほどの田中氏の反論は当然掲載され、記事に反映されねばなりません。その論争が山本氏優位となり、山本氏の定義が完全に通説化したと判断できるようになれば、特に田中氏の説については触れる必要がないでしょう。その出典でも結構です。
  6. 「江戸幕府が山口直友を取次に任命しているのでしょうか」は以前の質問して、いまだに回答がない「取次は職か」という質問にかかってきます。また、上位権力者が指定するか、下位者が依頼するかが最大のポイントであるという論点は「山本説」であり、田中説の立場からはその点は最も重要な点ではありません。それと、研究者の系統ごとに別項化するということは、このページを「山本博文の豊臣政権における取次論」と改名されるということですか。--模様砂漠2 2010年12月19日 (日) 14:19 (UTC)(修正)--模様砂漠2 2010年12月19日 (日) 16:35 (UTC)
1.現状の記事は「豊臣政権の取次」であり、「それぞれ異なる政権」の「それぞれ異なる取次(しかも一部取次を排除されるという)」を一緒くたした記事ではありません。これは別途の定義による取次記事を立てられることを妨げるものではありませんが、模様砂漠2さんがこの記事とは別の概念で取次を取捨する記事を取り上げるとのことであれば、改名議論にはなり得ないでしょう。改名議論で無いなら仕切り直してください。
2.模様砂漠2さんの作りたい記事は、取次の変遷を扱うようなものと解釈したので、「通史」「繋ぐ」「横断的」という言葉を使いましたが、異なる概念を並べても歴代取次の変遷記事にはならないように思います。
3.ですから、論より証拠でその大記事とやらを書いていただければ、自然と包括的に統合した方が良いか悪いかハッキリするでしょうし、大勢の意見も出やすいと思います。
4.結局「純粋な」との質問が分かりかねたわけですが。「山口直友の取次」の属性については模様砂漠2さんの独自研究に陥らず、出典に従った記事にすればよいだけです。「他の政権と重なる部分が多すぎ」ようといまいと、少なくとも豊臣政権の取次として働いた出典がある以上、記事内での記述に問題はないでしょう。
5.現にこの記事は「豊臣政権の取次」であり、山本説だけに依拠した記事では有りません。すなわち豊臣政権の取次を対象とする限り、田中論文や千葉論文を出典として除外するものではありません。また当の田中論文も千葉論文も取次研究を山本論文を契機として扱っています。まあ、両論文が豊臣政権を主題としていないことは論文に書いてあることです。例えば豊臣政権については「「取次」的役割」などと本論の「取次の老中」とは異なる概念のような表現をわざわざ使っています。
6.「取次は職か」どうかは編集者の研究するポイントではなく、「役職である」という出典からは「役職である」という説明をし、「関係である」という出典からは「関係である」と説明すれば済むことであり、両論があるところではそのようにすればよいだけです。なお、「取次を上位権力者が指定するか、下位者が依頼するか」について差異として山本説を批判したのが田中説です。記事として豊臣政権の取次を対象とする以上は、両論並記可能でしょうし排除すべきではありませんが、時代も概念も異なる取次を一緒くたの記事にするには記事内での峻別が難しいように思います。--Yasumi 2010年12月26日 (日) 10:43 (UTC)

長文の回答をすると論点をずらされますので、質問をひとつに絞ります。山本論文の定義が広く用いられていると言って、田中論文や桜井氏、取次の老中を「豊臣政権の取次と異なる」といって排斥したのはYasumiさんです。その出典があるのかないのかだけ答えてください。これ以上言を左右にして提出されなければ、Yasumiさんの行為に対するコメント依頼を提出します。--模様砂漠2 2010年12月26日 (日) 14:34 (UTC)

  1. 模様砂漠2さんの質問が難しく、どの辺を閾として「言を左右にして」いるのか否か当惑する質問ですが、本記事は「豊臣政権の統治機構である取次」を範囲としており、江戸幕府で大名統制を司っていた老中職の一部に区分される「取次の老中」は記事の範囲外です。従って、田中論文でも千葉論文でも桜井氏の著作でも、「豊臣政権の取次」に関する部分があれば、それは出典より加筆可能であります。従って、出典の排斥などしていません。
  2. なお、「豊臣政権の取次」には史料に「取次」とある者を「取次」と認める説、あっても解釈により「取次」と認めない説、取次関係の解釈から「取次」と認める説、認めない説、その解釈もそれぞれ諸説ある。その中で共通するのは「豊臣政権の取次」を論題とするものです。その諸説ある「豊臣政権の取次」を「歴代取次の変遷」のように時代横断的に描写を変更することに躊躇いを覚えます。:それらの各概念を包括的に見て時代・政権を横断した取次論を展開している出典はないでしょう?桜井氏『室町人の精神』では、便宜的に本書内で「室町幕府の取次」と呼んでいるだけで他の時代や政権の取次への変遷や接続には触れていません。また、田中氏「藩からみた近世初期の幕藩関係」では、山本氏で言えば江戸時代の「取次の老中」の概念について、その取次とは慣習であり関係であるという論を展開しているだけで、職制から見た「豊臣政権の取次」の変遷については触れていません。
  3. また当方としましては別段、模様砂漠2の判断と責任に於いてコメント依頼を提出することを妨げませんし、現状のように改名提案でないのに改名提案であるかのように続いたり、限定されたノート内で質問を連発されて疲弊が続くよりは、所定の手続きにより「Yasumiさんの行為に対するコメント依頼を提出し」て頂いた方が議論の解決に近いのかも知れないな、と思います。
--Yasumi 2010年12月31日 (金) 10:52 (UTC)

長文の回答はありましたが、「山本論文の定義が広く用いられているという出典」について一切言及されませんでした。告知通りコメント依頼を提出します。なお、yasumiさんの行為については再度整理いたしますので提出は数日後となりますが、その際にはまた告知します。--模様砂漠2 2011年1月1日 (土) 14:07 (UTC)

コメントWikipedia:コメント依頼/利用者:Yasumi_2回目_20110103を提出しました。--模様砂漠2 2011年1月3日 (月) 04:06 (UTC)

経緯からすると、今まで同様に随分と正確でない前提や問題解決に向かわない指摘があるようですが、乱発される問い合わせによる疲弊もあって当面のところ本議論を踏まえたコメント依頼の推移を見守ることとしたいと思います。--Yasumi 2011年1月8日 (土) 05:08 (UTC)

どこが正確でないかはWikipedia:コメント依頼/利用者:Yasumi_2回目_20110103に記入してください。--模様砂漠2 2011年1月11日 (火) 10:32 (UTC)

そちらは利用者の行為についてのコメントを募集する場ですので、現時点で被依頼者が依頼内容の不備を指摘するのは無用な混乱を招きそうなので、避けたいと思います。そして、コメンテーターが本議論の経緯を踏まえて依頼の妥当性にも配慮いただけるものと期待します。(この議論を読み直していただいてもご理解が得られないのであれば、第三者からの言葉の方が響くのではないかと)--Yasumi 2011年1月23日 (日) 04:26 (UTC)

余計な先入観を与えないためならば、具体例を挙げることもなく「正確でない前提や問題解決に向かわない指摘」があるなどとここに書く必要もありません。それはただの印象操作です。このままではコメント依頼に私が書いた事項は、すべて事実であると受け取られてもかまわないという事になるか、Yasumiさんがコメント依頼という手続きに対応しない態度をとっていると解釈されます。--模様砂漠2 2011年1月23日 (日) 07:31 (UTC)

私は模様砂漠2さんのコメント依頼内容が予断を与えかねないものと思っていただけに、今回も異なる見解に至っているようで残念でなりません。コメント依頼はコメントを募る場ですから、まずは依頼に対するコメントが揃うのを待つのは当然だと思います。対応しないとはどういうことでしょうか?対応については考えていると述べていますし、あちらでコメントがこのまま停滞するようならば、指摘を加える段階へ移行したいと思います。--Yasumi 2011年2月3日 (木) 20:46 (UTC)

議論整理

Wikipedia:コメント依頼/利用者:Yasumi_2回目_20110103で模様砂漠2さんの提出した指摘に当惑しており、第三者からの指摘があればありがたかったのですがコメントもあまり付いていないので直接問題点を挙げます。
1.私は「山本氏以来広く広まっている豊臣政権の取次概念」とは言いました。しかし、模様砂漠2さんの言う「山本氏の説が広く認められている」や「山本論文の定義が広く用いられていると」や「「取次」に関して山本氏の「取次」概念が田中氏の「取次」概念より広く広まっている」という主張していません。前者については豊臣政権の取次に関する論文では必ずといってよいほど紹介されています。後者については質問が成立しないため当然答えることは不可能です。
2.「本文にはその論争がまったく書かれていません」との批判ですが、津野氏による「豊臣政権の取次」に関する批判については元々書いてありますが、なぜこのような批判につながるのでしょうか?また、田中氏の批判は江戸時代の「取次の老中」を対象とした研究の一部で触れられているだけであり、概念が異なる取次関係を指しているため本記事にはちょっと書きにくい状態です。その批判がされている出典自体を本文中に記載したのは私ですし、私は豊臣政権の取次に関して加筆することを妨げないとも言っているので見当違いな批判であると思います。
3.模様砂漠2さんは「私が出典のある室町期から江戸期にかけての取次を扱うべき」と仰られていますが、世の中には様々な「取次」がある中で模様砂漠2さんが取次 (武家政権)の対象とした範囲の「取次」をカテゴライズした出典は依然として示されていません。また、武家政権の取次でも公武取次や君主と家臣の取次については排除しています。それぞれ別個の「取次」の中から模様砂漠2さんが独自研究で取捨選択しているとしか思えません。
 現記事は「豊臣政権の取次」を対象としており、主題を同じくする出典群から形成された記事です。これらは豊臣政権に限定的な出典が殆どですが、模様砂漠2さんが選んだ範囲・概念とは異なるのに、編入してもいいものなのでしょうか?
 そもそも田中氏が研究対象とした江戸時代の「取次の老中」と山本氏が対象とした豊臣政権の「取次」では時代も対象も異なっていますし、それは『天下人の一級資料』でも対象が異なると批判されています。
 室町時代についても桜井氏だけが『室町人の精神』の中で近習申次と便宜的に区別するために「取次」と読んでいるだけで、その他の時代の「取次」との関係性は述べられていません。それどころか、より詳細に中央と地方の取次について論証している吉田賢司「在京大名の都鄙間交渉」(『室町幕府軍制の構造と展開』2010年)では同概念を「大名申次」と読んでいますし、本郷和人「『満済准后日記』と室町幕府」(『日記に中世を読む』1998年)では「重臣奉行」の呼称を使っており、呼称が一定したものではありません。 一方、桜井英治氏は『日本中世の経済構造』の中では室町期の貸金業の研究で便宜的に介在者のことを取次人・取次主の呼称で扱ったりしています。:4.模様砂漠2さんが一度変更した概要には「江戸時代では聞次とも呼ばれた。」とありますが、田中論文でも「聞次」とは「取次」と異なり幕府側の取次の老中と交渉に当たる藩側の江戸留守居役・江戸家老を指した言葉であり、ちょっとおかしいと思います。
5.そもそも、模様砂漠2さんは改名提案と銘打ち、改名手続きを踏んでいるのに、その内実は記事の定義変更をしています。このボタンの掛け違いが問題だと思います。当方の蹴られた当初提案と、今回のコメント依頼でも第三者よりアドバイスがあった通り、まずは模様砂漠2さんが包括的に「取次」を扱っている出典からその範囲で「取次 (武家政権)」記事を作り、必要に応じて統合提案をするという手順を取るべきでしょう。改名提案ではなかったのですから、本件に関して必要なのは、現に存在しない記事に対して議論することではなく、執筆を進めるべきだと思います。
--Yasumi 2011年2月19日 (土) 01:16 (UTC)

コメント依頼に対する意見なら、ここに書かずにコメント依頼のほうに書いてください。転載しておきます。その上で返答を。

  1. 山本氏の取次概念は「広まっている」が「認められていない」ということですか。つまり、山本氏の定義した取次概念のみが優先される理由は何もないということでよろしいですか。
  2. 田中氏の批判は取次の概念そのものに対する重要な意見です。江戸時代の取次と豊臣政権の取次の性質が異なるというのは山本氏の意見であって、学会で広く認められた認識かどうか出典はないということですか。Yasumiさんの判断だけで山本氏の意見を100%正しいとするような執筆をされたということですか。
  3. Yasumiさんの執筆時点の意図がなんであれ、新たな出典が見つかった場合にページそのものの定義がおかしいと思えば変更を求めるのは「いけないこと」ですか。織田政権から江戸時代まで連続性があったという千葉論文について一言も言及されないのはどういうことですか。また「室町時代のシステムを取次と呼んでいるのは桜井氏だけだから認められない」というのは、桜井氏の意見がたとえ「信頼できる情報源」の条件を満たしていても採用できないということですか。現状では山本氏「だけ」が田中氏の取次概念を「対象が異なる」と批判しているのに、その意見を採用するのとはずいぶん異なった対応と思われます。--模様砂漠2 2011年2月19日 (土) 02:43 (UTC)

なお、今後はコメント依頼のほうで対応します。こちらに意見されたら必ず転載します。まずYasumiさんの議論の進め方が適切かどうかの判断を仰いでから個別の議論をする必要があるからです。--模様砂漠2 2011年2月19日 (土) 02:52 (UTC)

Yasumi 2011年2月19日 (土) 01:16 (UTC)のコメントはあくまでも本議論を踏まえた論点整理です。模様砂漠2さんのコメント依頼の被依頼者コメント用のものではないので該当項目への転載を許可しません。お手数ですが、善処願いします。
私の論点整理を確認されたのであれば、模様砂漠2さんは認識の是正と議論の軌道修正の必要に迫られているはずですが、対応無しにこちらでの議論を打ち切ってコメント依頼に専念なさるのであれば仕方がありません。
当方としては、「(現時点では独自研究による「取次」の取捨選択に見えるのですが)模様砂漠2さんが取次 (武家政権)で規定する範囲の「取次」が、どの出典でカテゴライズされたものか?」の質問に対する回答をお待ちします。
--Yasumi 2011年2月24日 (木) 21:33 (UTC)

「論点整理」もなにも、Yasumiさんが議論に対して不誠実であるという「コメント依頼」を出している段階で「議論」など成立するとお思いでしょうか。現状は議論などできる状態ではないのです。議論が再開されるとすれば、コメント依頼が終了してからです。コメント依頼での対応が先で、Yasumiさんの「論点整理」は、そのコメント依頼の最中に出された事なのです。それと一ヶ月以上「予断を与えかねない点」の指摘がありませんが、結局なんだったのでしょうか。Yasumiさんは「指摘を加える段階へ移行したい」と言ったのですから、ただの言いがかりに過ぎないのでなければ、コメント依頼に書き込んでください。--模様砂漠2 2011年2月25日 (金) 12:08 (UTC)

指摘がありませんが >はて、模様砂漠2さんの認識について、私の2011年2月19日 (土) 01:16 (UTC)のコメントで指摘済みです。よく読んでお考え直し下さい。そして対話であるのなら一方的に質問するだけでなく、私の質問にもお答えいただきたいものです。指摘への対処と、質問のお答え、お待ち致します。--Yasumi 2011年2月27日 (日) 19:54 (UTC)

コメント依頼に対する「今まで同様に随分と正確でない前提や問題解決に向かわない指摘」について聞いているのですが。あれはコメント依頼に対する指摘ではないから転載するなとおっしゃったのはYasumiさんではないですか。質問に答えろという前に、Yasumiさんが誠実な議論態度をとる利用者であるということを示してください。--模様砂漠2 2011年2月27日 (日) 23:37 (UTC)

私の発言は「(転載された文章は利用者に関するコメント依頼の)被依頼者欄用のものではない」です。よく確認して認識をお改めください。・・・もともと、ここでの私の発言を受けたここでの模様砂漠2さんの認識の話です。よくよくここでの対話の検証を行い、勘違いがあれば訂正いただきたい。
なお、今までの当方が質問攻めにあって回答していた状況ですが、当方提出の質問について模様砂漠2さんの速やかな回答を求めます。「(現時点では独自研究による「取次」の取捨選択に見えるのですが)模様砂漠2さんが取次 (武家政権)で規定する範囲の「取次」が、どの出典でカテゴライズされたものか?」の回答を引き続きお待ちします。いい加減無視なさらずに、対話に応じていただきたい。--Yasumi 2011年3月6日 (日) 21:38 (UTC)

報告「コメント依頼内容が予断を与えかねない」点について一ヶ月間解答がなく、YasumiさんがWikipedia:コメント依頼/利用者:Yasumi 2回目 20110103に真摯に対応する姿勢が見られません。Yasumiさんに対する「方針文書の要熟読期間」としてのブロックが必要であると判断し、Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックに報告いたします。--模様砂漠2 2011年3月7日 (月) 11:02 (UTC)

「コメント依頼内容が予断を与えかねない」点について一ヶ月間解答がなく、 >模様砂漠2さんが私の意見を誤認していることは既に指摘済み[3]です。模様砂漠2さんが誤認を前提として行われたここのでの議論・質問およびコメント依頼の内容は修正が必要な状態です。数次にわたる質問に何度回答しても、読んで下さらないのですか?
それと、対話を拒否することなく引き続き当方の質問についての回答を求めます。「(現時点では独自研究による「取次」の取捨選択に見えるのですが)模様砂漠2さんが取次 (武家政権)で規定する範囲の「取次」が、どの出典でカテゴライズされたものですか?--Yasumi 2011年3月13日 (日) 20:59 (UTC)
2月19日の書き込みは議論におけるYasumiさんの主張であり、認識です。YasumiさんがYasumiさんの認識を正しいと思っていて、私が私の認識を正しいと思っているのは当然です。私がコメント依頼を書くにあたって、私の認識を書くのは当然で、Yasumiさんと同じ認識を書くのであればそもそも議論など起こっていません。その上で「第三者にどちらの認識が筋が通っているか判断してもらうためのコメント依頼」です。。私の認識を「誤認」ととるのはYasumiさんの勝手ですが、「予断を与えかねない点がある」点について聞いているのです。コメント依頼に「予断を与えかねない点がある」というのは、コメント依頼を読む方が「Yasumiさんが間違っている」と感じるような、意図的な操作をしているとかいうことではないのですか。議論相手の私より先に「コメント依頼」を読む第三者に向けて書くのが当然です。コメント依頼のページに書かず、「私への反論」をしている段階でコメント依頼に対する対応になっていません。現在震災による影響がありますので、一週間だけお待ちします。--模様砂漠2 2011年3月14日 (月) 09:42 (UTC)
ですから、模様砂漠2さんが「Yasumiの主張」を根拠に提出されたコメント依頼の内容の内に、「Yasumiの主張」でない内容があれば訂正の必要がありますよね?「Yasumiの主張でない」のに「Yasumiの主張である」との模様砂漠2さんの主張は予断を与えるものであります。
それが指摘後も訂正しないのは不思議ですし、私の質問が無視され続けられるのも大疑問です。「(現時点でも模様砂漠2さんの独自研究による「取次」の取捨選択に見えるのですが)模様砂漠2さんが取次 (武家政権)で規定する範囲の「取次」は、どの出典でカテゴライズされたものですか?」--Yasumi 2011年3月27日 (日) 10:58 (UTC)

Yasumiさんは「自分の主張」と「他人から見た自分の主張」、「自分から見た自分の主張」、「他人から見た他人の主張」の区別がついていないか、または意図的に付けるつもりがないように見られますので、方針文書の熟読期間としての投稿ブロック「Wikipedia:投稿ブロック依頼/Yasumi」を依頼しました。--模様砂漠2 2011年3月28日 (月) 10:13 (UTC)

改名提案に対するコメントの再募集

Yasumiさんが無期限の投稿ブロックとなりましたので、改名に関する意見をコメント依頼で再度募集いたします。--模様砂漠2 2011年4月15日 (金) 11:51 (UTC)

コメント念願かなって論敵を追放でき、さぞ御満悦のことと思います。おめでとうございます。
さて、改名に関する意見ですが、定義論争は措くとして、「豊臣政権における取次」に特筆性があるかないかということでいえば、わたしは「ある」と思っています。これを「取次 (武家政権)」に改名するということは、それなりに説明の施された「豊臣政権における取次」の記事1つを放棄して、「武家政権における取次」の説明としては不充分なスタブ記事1つを新たに作成するということでしかないため、賛成できません。冒頭文を「ここでは豊臣政権における取次について説明する」と訂正したうえで、現状をあまり変更しない方がよいと思います。そして、「豊臣政権における取次」については、なお加筆の余地があると考えます。つまりは、「豊臣政権における取次」が他時代に比して何故重要な意味を持ち得たかについての説明がなされる必要があると考えます。おそらくそれは、自前の家臣団を持たないなかで全国統一を成し遂げた豊臣政権の成り立ちに由来するもので、整備された官僚組織の不在ということに起因するものでしょう。そのことを指摘した文献もあると思います。いずれにせよ、「豊臣政権」なり「織豊政権」なりの大枠は変えない方が加筆しやすいと考えます。要するに、豊臣政権における「取次」研究は、同時に「豊臣政権論」になっているということです。そこを塞いでしまう必要はないと考えます。
次に改名先の名称として、模様砂漠2さんは「取次 (武家政権)」を主張なさっていますが、「武家政権」の括りが本当に最適なのかどうかについては、現時点においていささか疑問であり、再検討を要すると思います。「取次」が武家政権固有というわけでもないし、武家政権の初期(平氏政権や鎌倉幕府)にまでさかのぼるものでもないというのであれば、「取次 (日本史)」とか「取次 (歴史学)」でもいいような気もします。もしかしたら「中世」でも「近世」でもカバーできないから、最大公約数的ないし消去法的に考えれば「武家政権」ということなのかもしれませんが、「武家政権」といいながら実際に扱う時代は室町期から江戸初期にかけてなのですから、中途半端でミスマッチな感じはします。もとよりこれは私が感じているだけのことかもしれませんので、幅広く意見を求めるべきでしょう。
もっとも、模様砂漠2さんが「取次 (豊臣政権)」を補完する記事として、それとは別に 「取次 (武家政権)」を新規立項しようということであれば大歓迎です。「豊臣政権における取次」に特筆性があるのと同様、「武家政権における取次」にも特筆性があると考えます。そこで「武家政権における取次」の定義や研究史、関連事項を詳述なさればいいでしょう。日本では公武二重政権が常態でしたし、中世後半以降、中央政権は大名領国制を採用して地方政権に大幅な自治を認めてきたので、それぞれの政権ないしそれぞれの官僚機構の「すきま」には常に「取次」が介在する余地があったということでしょう。そのあたりが説明できればいいのではないでしょうか。
結論としては、「取次 (豊臣政権)」はそのまま維持して、それを補完する記事を別に立てた方が、双方冗長に陥ることなく加筆も進み、読者からみても、その方が散漫にならずにまとまった知識が得られて有益だと考えます。新しい記事の記事名として「取次 (武家政権)」を採用することには異存ありません。--Chokorin 2011年4月15日 (金) 20:55 (UTC)
「念願かなって論敵を追放でき、さぞ御満悦のことと思います。おめでとうございます。」とのコメントは模様砂漠2氏へのあてつけでしょうか?非常に不適切だと感じます。--秋田城之介 2011年4月22日 (金) 02:26 (UTC)

コメントありがとうございます。いくつかのポイントに分けて回答したいと思います。

  1. 「定義論争は措くとして」とありますが、「豊臣政権の取次」と「他の時代の取次」に本質的な違いはあるのでしょうか。ないのでしょうか。つまり、ページの統合が可能であるかどうかの見解だけははっきりさせてください。
  2. 豊臣政権論は「豊臣政権」の項目で扱うのが最も適当だと思います。また、取次は制度ではなく慣習という田中誠二氏の研究があり、豊臣政権において取次の存在が本当に重要かという点にすら論争があるのです。つまり「取次の存在が重要である」という点での立項は、論争を中立的な観点から見た立項とならない危険があるのです。
  3. 「武家政権」の括りが本当に適当か、という問題には公家や寺社など、武家政権以外の「取次」があったかどうかにかかってきます。現時点では武家政権以外の取次の出典がありませんのでそこまで言及できません。もしそのような出典があればその点を加筆して日本史全般の取次として扱えるでしょう。しかしその場合でも法律的な「取次」等とは区別できるようにしなければなりません。また、「武家政権の初期までさかのぼるものではない」というご指摘がありましたが、いわゆる()内というのは、その括弧内の時期全般に存在していなければならないという性質のものでしょうか。その理屈では括弧内を(日本史)にすると、日本史出扱う範囲にくまなく取次が存在すると理解されるということにならないでしょうか。
  4. ところで「念願かなって論敵を追放でき、さぞ御満悦のことと思います」とはどういうことでしょうか。私にとって最も望むべき結果は、Yasumiさんが誠実な返答を示してくれることでした。ですから半年以上も対話を行い、ブロック期間も無期限ではなく一ヶ月を提示したのです。私が求めているのは「敵味方」の思想ではなく、出典とそれに基づいた議論です。Chokorinさんも議論に参加されるのであれば、リンクでアクセスできる論文には目を通しておいてください。--模様砂漠2 2011年4月16日 (土) 01:47 (UTC)
別にあなたが掲げた出典を読まないとコメントできないという理由もないと思うんですがね。この記事はあなたの私物というわけじゃないんですから。あなたが改名に関するコメントを募集していたから「反対」という意見を表明したまでのことです。
1.については、ページの統合が可能かどうかは、私の賛否を待つまでもなく、客観的に可能性が存在するでしょう。あなたが「他の時代の取次」についての記事を書いて、この記事との統合提案をすればよいだけの話じゃないですか。そして、そこで再び賛否のコメントを待てばいいんじゃないんでしょうか。分けた方が「取次」を説明しやすいのか、統合した方が説明しやすいのか、それはあらかじめ決まっていることではないと思います。
それから、「本質的な違いがあるかどうか」については、「ある」という立場、「ない」という立場あるんでしょうが、それ以外に、「有無を重視しない」という立場もあると思います。むしろ有無に注目しない立場に立った方が加筆が進むし、諸説を公平に扱えるのではないでしょうか。あなた自身おっしゃっているように、定義自体が議論の対象となっているわけです。そして、その論争自体に特筆性があるわけですから、ノートで人を追い出すほどの定義論争をして、その結果を前提に記事名を考えようということほど、ナンセンスで非生産的な話はないように思います。「本質的な違い」があろうがなかろうが、書き出しを「ここでは豊臣政権における取次について説明する」と工夫したうえで、「取次」概念は、論者によっては豊臣政権の範疇に収まるものではないから、それ以外の「他の時代の取次」については別項を立てるということで問題は解決するでしょう。定義論争は、新記事のなかで紹介のかたちでおこなうべきことと考えます。
中立性に関しては、微妙な判断の問われるところだと思います。少なくとも、山本論文に依拠して「取次 (豊臣政権)」を執筆することそれ自体に責めを負わなければならない何らかの問題点があるとは考えません。山本論文はインパクトが強く、その批判も少なくなかったようですが、その批判を全部が全部同一記事内で処理しなくてはならない、そうしないと中立性が保てないということではないとわたしは思います。また、批判もあったいっぽう、その分析視覚を有効と認めて豊臣政権の性質を検討しようという研究もあるわけです。それは、「取次 (豊臣政権)」に記されるべきことだとわたしは考えます。現状の「取次 (豊臣政権)」を「取次 (武家政権)」に改名して、そこで何もかも全部説明しようとすれば、わたしはかえって散漫な記事になってしまうし、全体の記事の成長からすればむしろ大きなブレーキとしてはたらくのではないかと思います。
3.については、「改名するとしたら」の話であり、そもそもわたしは改名には反対です。改名を提案しているのはあなたなのですから、改名先が「取次 (武家政権)」でならなければならない理由を、あなたとしてはもっと積極的にアピールすべきではないでしょうか。自分としては、取って付けたような違和感、収まりの悪さを感じるというだけの話です。改名に合意が得られたら、他の方の意見もお聞きになられたらよろしいでしょう。
4.については、あなたからすればYasumiさんに不誠実なところが仮にあったにせよ、第三者からみれば、あなたも決して誠実とは言えない部分があったことを指摘しておきます。Yasumiさんが、あなたが想定している記事の範囲がよくわからないし、記事の将来像がつかめないという懸念を表明したのに対し、あなたは「武家政権の取次とするべきだ」と答えていますが、それはおよそ答えになっていないと感じます。この場合「武家政権の取次とするべきだ」というのは分かり切っており、「武家政権の取次」としてどういう記事を想定しているかを質問しているわけです。これで、相手の質問に誠実に向き合ったとか、相手の懸念を解消するよう努めたと言えるかどうかは疑問です。
ともあれ、コメントを募集する以上、いろいろな立場から加筆を考えている利用者の意見を求めるべきでしょう。あなたの加筆の方向性だけが正しいというわけではないと思いますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2011年4月17日 (日) 02:22 (UTC)

1.研究者間で異論があるから「豊臣政権」の枠内に収まるという主張はこの項目で記述し、それ以外の主張は別の取次記事で記述するというのは、このページを「豊臣政権の枠内で収まる」という主張にもとづいて立項するということになります。つまり論争がある主題「取次」を一つの立場から描写することになり、中立的な観点に反します。つまり記事の内容が「山本博文の豊臣政権における取次論」と題するべきものとなります。また、広い範囲を書けば散漫な印象となるから反対であるというのは加筆者をあまりに信頼していないことです。 3.もっとアピールするべきだというなら、これ以前の議論でも行っていますが、それをお読みいただいた上でのことでしょうか。 とりあえず主張を再確認しておきます。

  • 取次は豊臣政権固有ではない。(桜井「室町人の精神」、千葉論文[4]、山本「天下人の一級史料」211p)
  • 取次の仕組み自体は複数の政権間で継承されている。(織田政権から豊臣政権に引き継がれたという高橋論文[5]庄内の乱から琉球出兵の期間まで徳川家康と島津家の取次山口直友の例、徳川家綱期まで存在するという千葉論文の指摘)
  • 黒田如水の取次筋目が江戸期まで継承されるという津野倫明の主張がある。山本博文「天下人の一級史料」ではこの主張を成り立たないとして否定しているが、研究者間で論争があるのは明か。論争に決着を付けるのはWikipediaの役割ではない。
  • 以上の点から取次を「豊臣政権」で区切るのは移行期などを記述するのに不都合である上に、豊臣政権期から元禄期までを続いて研究している例もあり、分割の必要がない(千葉論文)。
  • 取次が制度ではなく慣習であるという反論が田中誠二をはじめとする研究者からある。
  • この項目の記述量は現在16,101kb、 私が加筆する前は11,103kb、しかもその半分が「取次の例」という例示であり、他の政権の「取次」と分割するほどの文量ではない。しかも「取次の例」には取次であったかどうか研究者間で論争があるものもあるが、それに触れていないなど不十分。

取次を改名で反対であるというなら、Chokorinさんはこの項目が取次(豊臣政権)であるべきだという点を出典を根拠にしてアピールしてください。 4.「武家政権の取次とするべきだ」ではありません。研究者が「取次」として扱っているものです。ですから「取次」としての研究を参考文献としてあげたのです。その研究が取次を扱う上で不適当であるというなら、それを議論するべきです。また、加筆というのは誰でも自由に出来ることですから、Chokorinさんがしかるべき出典を持って加筆されればよいことだと思います。少なくとも私はこの項目で他人の加筆を削除したことなどありません。

コメント依頼というのはたしかに様々な立場からコメントを求めるものですが、そのコメントには何らかの根拠が必要です。私があげた出典を読まないのは結構ですが、それならば何を根拠として改名に反対されたのか、『「豊臣政権における取次」に特筆性があるかないかということでいえば、わたしは「ある」』と思ったのか、『おそらくそれは、自前の家臣団を持たないなかで全国統一を成し遂げた豊臣政権の成り立ちに由来するもので、整備された官僚組織の不在ということに起因するものでしょう』というのは誰の意見なのか、はっきりさせて頂きたいと思います。--模様砂漠2 2011年4月17日 (日) 03:32 (UTC)
そこまでおっしゃるなら、改名提案に合意しましょう。まずは執筆に御専念ください。--Chokorin 2011年4月17日 (日) 04:40 (UTC)

ご理解いただきありがとうございます。コメント依頼自体は継続して意見を募集いたします。--模様砂漠2 2011年4月18日 (月) 11:08 (UTC)

コメント 以前にもコメントしましたが、あらためて模様砂漠氏の改名提案に賛成いたします。--秋田城之介 2011年4月22日 (金) 02:26 (UTC)

誤解があるといけませんので一言。私が改名に合意したのは、模様砂漠2さんが「広い範囲を書けば散漫な印象となるから反対であるというのは加筆者をあまりに信頼していないことです」とおっしゃったからです。確かに、今まで私はあまり加筆者を信頼していなかったかもしれませんが、模様砂漠2さんの御発言は「加筆者(である自分)を信頼しろ」という御趣旨と理解しました。合意というのは「そこまでおっしゃるなら、信頼しますから加筆してください」の意です。要は加筆が進めばいいわけです。特筆性に関していえば、「豊臣政権における取次」を扱った記事や論文があるのならば「特筆性がある」としか言いようがありません。その場合、いずれは、記事の分割ということも視野に入れざるを得ない事態が生ずるかもしれません。もとよりそれは「室町幕府における取次」についても同じことが言えます。しかし、私としては順番にこだわりません。加筆されることを最優先に考えての合意です。繰り返しますが、まずは、加筆に御専念ください。--Chokorin 2011年4月27日 (水) 21:24 (UTC)

誤解されています。加筆者というのは私個人ではありません。私個人を信頼したところで、加筆を行うまで私が無事にアクセスできるという保障があるわけもありません。加筆者とは私もChokorinさんも含めた、Wikipediaが存在する限り現れるであろうすべての加筆者を指すのです。Wikipedia:編集方針にあるように、複数の人々が異なる視点を持ち込むことにより、完璧な記事を目指すというのがWikipediaの方針です。たしかに「完璧な記事は、観念的な理想であり、人間には書けません」。私個人を信頼するのではなくて、Wikipediaの方針自体を信頼するかという問題です。広い範囲を扱えば、どのような加筆がなされようと「散漫な印象」となることは間違いないという予断があるのであれば、信頼できない加筆者が現れうるWikipediaではなくて自分自身のブログなどで書けばよいのです。--模様砂漠2 2011年4月28日 (木) 09:50 (UTC)

じゃあ、あなたのことは信頼しなくていいわけですか。ならば、改名提案にはあらためて反対を申し述べておきます。速やかな御返事ありがとうございました。--Chokorin 2011年4月28日 (木) 12:03 (UTC)

確認させていただきますが、Chokorinさんが改名提案が是か否かを決める要点は、提案者である私の人格ということですか?--模様砂漠2 2011年4月29日 (金) 08:13 (UTC)

あなたの人格は関係ないです。私はこの記事は「豊臣政権の取次」として発展させるべきと考えているので、もともと改名には反対です。あなたは中立性を問題にしており、特筆性をさほど問題にしておられないように見受けられますが、私は、この記事名で中立性が問題になることは寸毫もなく、むしろ特筆性の有無が問題になると考えています。言うまでもなく、「取次 (豊臣政権)」という記事名は何も「取次は豊臣政権に固有のものだ」という主張を反映したものではありません。「荘園 (日本)」が「荘園は日本に固有のものだ」という主張を含んではおらず(もし、そういう主張を含んでいるのなら、逆に「荘園 (日本)」という記事名にはなりません)、単に「日本の荘園」について説明する記事だということを示しているだけというのと同じことです。要するに、「取次 (豊臣政権)」という記事名は、単に「豊臣政権における取次」について説明しようということにすぎません。次に、「豊臣政権における取次」に特筆性があるかどうかですが、「関連文献」節に、
  • 戸谷穂高「豊臣政権の取次 - 天正年間対西国政策を対象として」、『戦国史研究』第49号、戦国史研究会、2005年、pp.13-25、NAID 40006665863。
  • 津野倫明「豊臣政権の「取次」蜂須賀家政」、『戦国史研究』第41号、戦国史研究会、2001年、pp.1-11、NAID 40004448428。
というふうに、題名に「豊臣政権」を冠した文献が掲げられている以上、「特筆性はある」と見なす以外にないでしょう。題名によらずとも「豊臣政権の取次」に言及している文献は少なくありません。あなたが、どうしても「特筆性がない」と思うのであれば、削除依頼をお出しになったらよいのではないでしょうか。削除依頼が受け入れられれば、なるほど「特筆性がない」とコミュニティが判断したことになるでしょう。もし、削除依頼が却下されるなどによって「特筆性がある」ということが立証されたら、次にようやく「豊臣政権以外の取次」をどうやってフォローしていったらよいかが問題になるわけですが、それはみなさんのお知恵を借りるのが一番よいでしょう。個人的には、別記事を立てるのが最善だと考えます。あなたは、フォローしたいというお気持ちから改名提案されたのでしょうが、フォローの手段として改名というのは、実は下策だと思います。というのも、あなた自身が「武家政権に特有なものとしての『取次』を包括的に書く」ことを目指しているのか、それとも、「『取次論争』ないし『取次研究史』を書く」ことによってフォローすることを考えているのか、判然としないからです。前者であれば、Yasumiさんがおっしゃった「もし鎌倉幕府以来の武家に関する包括的な取次の記事を書くのであれば、これらを系統立てて繋ぐ出典の存在を待ちたい」というのは、卓見だと思います。しかし、あなたは「『武家政権の取次とするべきだ』ではありません。研究者が『取次』として扱っているものです」ともおっしゃいましたので、そうであるならば、別記事の名称は「取次 (武家政権)」以外がよいのではないでしょうか。「取次 (歴史学)」あたりがベストだと思います。それならば「研究者が『取次』として扱っているもの」すべてを扱えそうです。あなたが、どのようなフォローアップをしたいのか、まず御自身でよく考えたうえで議論参加者の協力を仰ぐべきでしょう。--Chokorin 2011年4月29日 (金) 14:30 (UTC)
  1. 取次は「いまだその定義にすら検討の余地が残されている」(津野倫明)テーマであるということを説明するためにも、「取次」と「研究史・論争」は同じ項目で書くべきです。論争や研究史に言及せず「取次」の項目を建てても、一方の意見のみを反映したものとなるでしょう。
  2. 「特筆性」=単独立項となるならば「量が十分でない」たとえば農民をテーマにした各時代史などは複数ありますが、「農民 (豊臣政権)」や「農民 (江戸時代)」が必ず立項されるとは限りません。分量として十分多いか、他の時代との差異が大きくあれば単独立項されることもあります。しかし現時点では分割しなければならないほどの量はなく、他の時代の取次と併記しても問題はない量です。
  3. 千葉論文には織田政権から豊臣政権への取次の引き継ぎが記載されており、豊臣→徳川移行期の出典もあります。これを書くのに「豊臣政権」だけを分離するのはは非常に書きにくいと考えます。
  4. 「取次 (日本)」や「取次 (武家政権)」に室町時代や織田政権、江戸時代の取次はふくまれますが、「取次(豊臣政権)」に江戸時代の取次は含まれません。たとえば親衛隊 (ナチス)親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)親衛隊 (アイドル)が含まれますか?これは固有であるか否かではなく、集合に含まれえるかどうかの問題です。
  5. Chokorinさんのご意見では括弧付の「豊臣政権」は単に「豊臣政権における取次」であることを示すのみであるとのことですが、豊臣政権における取次は他の時代の取次とは異なり、「豊臣政権由来のものである」([6]取次の曖昧さ回避の表題)というYasumiさんの意見は間違いであるということですか。長々と固有であるかどうかを議論してきたのはこの経緯があるからです。
  6. 研究者が「取次」として扱っているもので、武家政権以外のものがあり、その出典があるのでしたらお教えください。それがあれば「取次」の括弧内をかえることに異論はありません。現時点で触れた論文などが室町幕府、戦国大名、織田政権、豊臣政権、江戸幕府など武家政権のものばかりですので、最大公約数として武家政権をあげたのです。
  7. Chokorinさんが改名提案に合意するという意思表示をされたのが2011年4月17日 (日) 04:40 (UTC)、反対の意思表示をされたのが2011年4月28日 (木) 12:03 (UTC)です。この間にChokorinさんが津野論文と戸谷論文の存在を知っておられたのは2011年4月23日 (土) 00:58を編集されたことからでも明らかです。なのにどうしてその意見を出して反対の意思表示をされなかったのですか。「じゃあ、あなたのことは信頼しなくていいわけですか。ならば」は何を意味する言葉だったのですか。--模様砂漠2 2011年4月30日 (土) 11:53 (UTC)
コメント2.の「現時点では分割しなければならないほどの量はなく、他の時代の取次と併記しても問題はない」ということですが、それはあくまでも「現時点」での話であり、今後も加筆されないという見通しを前提にして論を進められるのはそもそもおかしいでしょう。それこそ、加筆者を信頼すべき部分だろうと思います。また、「豊臣政権の取次」について言及した文献は非常に多いわけですから、「取次 (豊臣政権)」という名称の項目さえあれば、豊臣政権部分の加筆がおおいに進展することは間違いないでしょう。私も、その方向でこれから大幅に加筆したいと思っています。個人的には、現時点でも充分に単独記事として成り立ちうるサイズだと思っていますが、加筆されないことを前提にして「取次 (武家政権)」への改名がなされ、それが豊臣政権部分に関する加筆を抑制してしまうような事態が生じれば、それこそ本末転倒であり、最も避けるべきことと考えます。要は加筆が進めばいいわけです。仮に改名提案が通ったとしても、分割に関する議論が生じるのは時間の問題であり、それならば、最初から別記事を立てた方がお互い早いでしょう。別記事を立てて「取次 (豊臣政権)」に特筆性がないと判断されるのであれば、そこで改めて統合を提案されてはいかがでしょうか。
3.の「織田政権から豊臣政権への取次の引き継ぎ」「豊臣→徳川移行期」については、現状の「取次 (豊臣政権)」に加筆されるべき事項だと思いますので、加筆なさってください。別記事を立てられるのであれば、そのなかでも説明するべきでしょう。
6.については、お教えできる出典があるわけではありません。「最大公約数」のロジックはよく理解できますが、記事項目名として妥当かは別の問題だと思います。Wikipedia:記事名の付け方の指針としては、
  1. 認知度が高い
  2. 見つけやすい
  3. 曖昧でない
  4. 簡潔
  5. 首尾一貫している
の5点掲げられており、日本史に登場する「取次」とは何だろうかということをまったく知らない人、そしてそのことについて知りたくて調べようという人は、そもそも「武家政権」という語を思い至るだろうかという問題があります。「武家政権」の語を想起できる人は、むしろ事情通に限られるのではないでしょうか。上の指針でいったら「見つけやすい」という指針に反する怖れがあります。それにまた、「取次」というのは歴史用語であると同時に動詞から転じた一般名詞でもあるので、「研究者が「取次」として扱っているもの」という広い範囲、悪く言えば大ざっぱな括りから記事名をきめていくのは非常に難しいと思います。「執次」や「伝奏」も含むのかという問題もあります。そういうものを含まないとすれば「曖昧でない」「簡潔」の指針を重視して、ズバリ「取次研究史」のような名称も検討してよいかもしれません。自分としては、たとえば「取次 (歴史学)」という大枠のなかで「研究者が「取次」として扱っているもの」を説明し、読み手が「なるほど、取次というのは武家政権のなかで多く使われるタームなんだな」ということが結果的にわかればいいのであって、何も記事名に「武家政権」を冠する必要はないのではないかと思います。いずれにしても、別記事の名称はなお検討の余地があると思います。これは、みなさんの知恵をお借りするのがよろしいでしょう。
5.については、そもそも議論の持ち方がおかしかったのではないかなと感じていました。この場合、改名提案は「改名」と称しながら〈「取次 (豊臣政権)」の削除+「取次 (武家政権)」の立項〉と同義です。しかし、少なくとも私は〈「取次 (豊臣政権)」の削除〉にはまったく理由がないと思っていました。定義論争に関しては、私としてはどうでもいい話なので読んでいませんし、そういう話題になること自体に失望していました。「削除」を含むのであれば、「特筆性の有無」を問題にすべきことは明白であり、それを中心にすえなかったのは間違いだったと思っています。
7.については、わたしが合意しないことが加筆を妨げているのであれば、それは本意ではなかったものですから、「合意するから加筆してください」ということです。あなたの意見には依然として不賛成でしたが、あなたが責任をもって大幅に加筆するということであれば、分割提案は後になってもよいと考えました。要するに、加筆最優先の観点から妥協したということです。「加筆者を信頼しろ」といわれれば信頼しないわけにはいきません。しかし、合意があったにもかかわらず、結局は加筆されなかったわけですから、あなたが別記事を立てるのがやはり最善だろうというふうに判断しました。今後「名称がネックになっているから加筆できない」という言い訳は使えないと思います。別記事を立てるのがよろしいでしょう。
蛇足ながら、記事「取次」は「取次ぎ (法用語)」への改名が提案されており、この改名提案がコミュニティの合意を得たら、「取次」は平等な曖昧さ回避のページになります。「豊臣政権以外の取次」は、さしあたって、このページを使わせてもらってもよいかもしれません。--Chokorin 2011年5月1日 (日) 03:21 (UTC)
2.「それはあくまでも「現時点」での話であり」というのは当然です。現時点での状況を見て改名するのが改名提案です。未来に取次の研究がどの程度進展し、どの程度加筆されるか断言できません。加筆され、記事名がふさわしくない状況になればその時代の執筆者が、その時代の加筆状況に基づいて判断します。この時点で将来の加筆者の判断がページを「豊臣政権」と「その他の取次」に分けると断定することなどできませんし、逆もそうです。
3.「本項で取り扱う取次とは、豊臣秀吉の独裁色の強い運営を行った豊臣政権が、他大名に対する統合と統制を行う上で政権と大名の間に介在した取次と呼ばれる構成員のこと」であるという定義がなされている以上、移行期や江戸時代のの取次はその定義に当てはまりません。この時点で加筆をすると定義外のことを書くことになります。私は一度定義を書きかえましたが、Yasumiさんによってリバートされました。ですから一旦定義をはっきりさせるために加筆を中断しているのです。
5の1.ページであつかうべき主題の定義が「どうでもいい」、つまり定義について考慮していないのに、「豊臣政権以外の取次は別のページで扱うべきだ」と判断したのはなぜですか。それにChokorinさんは定義について本項目に加筆しておられますが[7]、これは「取次」の定義についての認識の表明と見ていいのですか。
5の2.「この場合、改名提案は「改名」と称しながら〈「取次 (豊臣政権)」の削除+「取次 (武家政権)」の立項〉と同義です。」という論理は、「取次 (武家政権)」になったら「取次 (豊臣政権)」の内容が消滅するのでなければ成り立ちません。この項目で扱った豊臣政権における取次の記事はWikipedia上から削除されるわけでもなく、「取次 (武家政権)」の記事に内包されます。それに、今回の改名によって豊臣政権における取次の記事が「削除」されるということならば、ページの統合が行われた際には毎回同じ現象が発生していることになります。Wikipedia:井戸端#改名提案は削除を含むか でそのような見解が主流派であるかどうか意見を募集いたします。
6. 取次について何か知りたい人が「武家政権」という言葉を知らないという懸念があるならば、「豊臣政権」にも同じ危惧があります。たとえばgoogle検索でも武家政権のほうがヒット数は3倍以上多いですし、対象をac.jpにしぼっても同じ結果です。国立国会図書館の蔵書検索では「豊臣政権」が38件、「武家政権」17件となりますが、「武家政権」という用語に対して「豊臣政権」のほうが認知度が高いと言えるでしょうか。また、「豊臣政権」でない時代、移行期の記述をするのが「首尾一貫している」「曖昧でない」記事名でしょうか。
また『「取次の曖昧さ回避」をさしあたって使う』のは、たとえば「5.豊臣政権以外の取次については本項目で説明する」となり、倫敦橋さんが解消されようとしている取次項目の「Wikipedia:曖昧さ回避#山手線方式」を再現することになるだけと思います。--模様砂漠2 2011年5月1日 (日) 05:03 (UTC)

(インデントもどします)最後の「取次項目の「山手線方式」を再現することになるだけ」に関しては合意できます。別記事の名称は「取次 (歴史学)」あたりが無難でしょう。取次について何か知りたい人が曖昧さ回避のページにたどり着いた場合、「豊臣政権の取次」を扱った文献は多数にのぼるわけですから、それについて知りたい人は「取次 (豊臣政権)」のページへすんなり行くことができます。それに対し、取次の定義や研究史・論争について知りたい人がすんなり「取次 (武家政権)」をクリックできるかどうかというとできない怖れがあります。要するに「見つけにくい」ということになります。「本項で取り扱う取次とは、豊臣秀吉の独裁色の強い運営を行った豊臣政権が、他大名に対する統合と統制を行う上で政権と大名の間に介在した取次と呼ばれる構成員のこと」であるという定義は、「取次」の語の定義ではなく、この記事の定義ということにすぎません。記事の指し示す範囲ということです。記事の指し示す範囲として、これで何か問題があるかというと問題はまったくなく、「取次」の語の定義をもっと詳しく知りたい人は、記事「取次 (歴史学)」を御覧くださいという案内文ひとつあれば解決する話です。--Chokorin 2011年5月1日 (日) 07:09 (UTC)

上記の議論を踏まえて「取次 (歴史学)」の項目を、本記事とは別に立てたいと思いますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2011年5月2日 (月) 23:38 (UTC)
  1. 括弧内の問題が複雑なのは、取次という言葉自体が一般的であることです。出版、法律の取次があることもさておき、歴史学の分野でも一般的な文章で使う「取次を行った」や、江戸時代の各藩におかれた「取次役」、「女御取次」、川柳の「取次」[8]など様々な用例があることです。さらに歴史学となれば日本史だけでなく世界史・東洋史もふくみます。歴史学という範囲は曖昧すぎないでしょうか。
  2. 「歴史学における取次」と「豊臣秀吉の独裁色の強い運営を行った豊臣政権が、他大名に対する統合と統制を行う上で政権と大名の間に介在した取次と呼ばれる構成員」をわけなくてはならない根拠は何でしょうか。Chokorinさんがおっしゃった分けるべきだという根拠は研究が多いということですが、その研究はすべて取次を「豊臣秀吉の独裁色の強い運営を行った豊臣政権が、他大名に対する統合と統制を行う上で政権と大名の間に介在した取次と呼ばれる構成員」と定義しているのでしょうか。
  3. 豊臣政権の取次を扱った研究は、他の取次の研究よりどれくらい量的に突出しているのでしょうか。
  4. 「それに対し、取次の定義や研究史・論争について知りたい人がすんなり「取次 (武家政権)」をクリックできるかどうかというとできない怖れがあります。要するに「見つけにくい」ということになります。」「豊臣政権の取次」を知っていて論文も読むような人が、「武家政権」という言葉を知らないとお思いでしょうか。また、なぜ「取次の定義や研究史・論争について知りたい人がすんなり「取次 (武家政権)」をクリックできるかどうかというとできない怖れ」があるというのでしょうか。
  5. 早々と取次に項目が存在するように書かれましたが、議論はまだ終わっていません。また、Yasumiさんは「豊臣政権由来のもの」である取次と室町・織田・江戸期の取次は別のもの、すなわち「取次 (武家政権)」に豊臣政権の取次が含まれるという見方に反対しておられます。Yasumiさんのブロックは無期限から一ヶ月となり、5月中頃にはブロックが解除される見通しです。Yasumiさんに対するブロックは質問に応じない、出典にある論争を書かないということでブロックを依頼し、方針文書の熟読が必要であると言うことで成されたものです。議論に決着がついたという認定がされたわけではありません。したがってもしYasumiさんが方針に則った上で議論を再開するならば、議論を継続する必要があります。少なくともブロックあけから一週間、5月いっぱいは対応を待つ必要があると思いますので、しばらくお待ちください。
  • 井戸端のご意見に対する回答
  1. Wikipedia:ページの分割と統合#ページの統合には、統合を行うべき場合として「・同一の概念や事物に関して、不注意などにより、別名でページが作られた場合・1つのページ中で一緒に解説すべきにも関わらず、必要以上に細切れにされてページが作られている場合・共通点のあるスタブが複数存在する場合」とあります。私が改名を提案した時点で、統合するべき二つのページは存在しません。この場合、「定義を書きかえて広い範囲にしようと思う」「それには、(豊臣政権)というタイトルは不適合である」と考えて「統合提案」を行うのは適切でしょうか。
  2. 井戸端で私は改名が『「取次 (豊臣政権)」が削除される』ことにあたるかどうかという質問をしたのであって、改名提案全体の是非を聞いたのではありません。それに対してTiyoringoさんは「改名提案より統合提案に近い状況」であるという回答をされました。「ページの統合」は片一方のページの特筆性を認めず削除するものだとは、どこにも書いてありません。その意味で削除に当たるという趣旨の回答ではないと判断しましたが、回答の趣旨を正確に確認するために再度削除に当たるかどうか質問させていただいたのです。その過程の最中ですから、まだ一回答しかない段階で「「改名提案」と称していたことがハッキリした」などと早合点せずに、じっくりお待ちください。
  3. 改名提案を取り下げるべきだとのことですが、改名提案と同時に定義の改編を行ってはいけないということでしょうか。--模様砂漠2 2011年5月3日 (火) 10:26 (UTC)
  1. 「括弧内の問題が複雑なのは、取次という言葉自体が一般的であることです」とありますが、だとすれば、なおのこと「取次 (歴史学)」あたりが妥当でしょう。説明されるべきは、法律用語や出版業界用語、川柳用語と区別しての歴史用語なわけです。「歴史学となれば日本史だけでなく世界史・東洋史もふくみます」とありますが、ふくんで特に問題はないでしょう。もしかしたら、世界史分野からの加筆がなされるかもしれません。それを歓迎しない手はないでしょう。江戸時代の各藩におかれた「取次役」や「女御取次」については、記事「取次 (歴史学)」のなかで扱えるでしょう。曖昧さということでいえば、これを「取次 (武家政権)」に含めるべきか、含めるべきでないのかは微妙なところですので、むしろ、「取次 (武家政権)」の名称の方がずっと曖昧であり、不適切な名称だということになるでしょう。
  2. 「本項では豊臣政権における取次について扱う」というふうに冒頭文を変更すれば解決する問題です。
  3. 知りません。
  4. 取次の定義や研究史・論争について知りたい人がすんなり「取次 (武家政権)」をクリックできるかというと、できないでしょう。「取次 (歴史学)」ならば、すんなりクリックできます。
  5. この議論とはまったく別に「取次 (歴史学)」を立てようと思っています。Yasumiさんを議論から追い出しておいて、今度は待たなくてはならないわけですか。いい加減にしてください。待つ気はありませんのであしからず。--Chokorin 2011年5月3日 (火) 14:51 (UTC)
  1. 取次 (歴史学)を立項することに反対する理由はありません。女御取次や歴史学上に出現する取次という語を含めた、歴史学上に登場するすべての「取次」を扱う項目とこの項目で扱っている「取次」では定義が異なりますから、このページの議論と関係のないことです。存分に執筆してください。
  2. 冒頭文はページの定義であり、定義については議論中であるのですが、それを無視しろと言うことでよろしいですか。
  3. 「取次の定義や研究史・論争について知りたい人がすんなり「取次 (武家政権)」をクリックできるかというと、できないでしょう。「取次 (歴史学)」ならば、すんなりクリックできます」というのは本当に理屈がわかりません。なぜ一方ではすんなりクリックできるのかという理由を説明してください。武家政権という文字には踏み絵のような効果があるのでしょうか。
  4. あと以前から気になっていたのですが、ブロック依頼は追放ではありません。定期ブロックならなおさらです。方針文書を翌お確かめください。--模様砂漠2 2011年5月4日 (水) 13:26 (UTC)
「存分に執筆してください」との御発言ありがとうございました。お言葉通りにさせていただきたいと存じます。3.についてですが「取次の定義や研究史・論争について知りたい人がすんなり「取次 (武家政権)」をクリックできるかというと、できないでしょう」というのは、個人的に「武家政権」ということでまず真っ先に思い浮かぶのが私の場合は鎌倉幕府であり、次に江戸幕府であって、武家関白となって天皇の代官というスタイルで政権をになった豊臣政権や、研究者によっては「公武統一政権」と称される義満以降の室町幕府が「武家政権らしい武家政権」なのかというと少し違和感があります。また、「戦国時代」が「武家政権」なのかというと、「武士の世のなか」というレベルではそうなんでしょうし、武家ないし武士化した公家や僧侶が各地で戦国大名という地方政権を形成したという意味では大きく「武家政権」と言って間違いではないのでしょうが、やはり違和感があります。これが、たとえば「征夷大将軍 (武家政権)」ならば違和感のないところです。要するに、坂上田村麻呂護良親王などの征夷大将軍ではなくて、鎌倉・室町・江戸の各幕府(武家政権)の最高職ということがわかりやすい。また、取次が「制度ではなく慣習だ」という説があることを説明するとしたら「武家社会の慣習」となるべきであり、「武家政権」の語を使ってしまうと「制度」であることを既に含意してしまう、不必要な予断をあたえてしまうと思うのですね。いわば、模様砂漠2さんが一番おっしゃりたいことが、むしろそのことによって言えなくなってしまうのではないかと思います。ですから、ここで「最大公約数」的に「武家政権」の語を使うのは、あえて経済学用語を用いるならば「合成の誤謬」じゃないかと思います。まずはともあれ、取次 (歴史学)立項に賛意を表していただいたことに感謝いたします。ありがとうございました。--Chokorin 2011年5月5日 (木) 16:05 (UTC)(加筆)--Chokorin 2011年5月5日 (木) 16:19 (UTC)
  1. 室町時代を武家政権に含めない出典を示してください。室町幕府が武家政権ではないという意見など聞いたこともありません。ciniiだけでも、室町幕府を武家政権として扱った論文が確認できるだけでも高橋典幸「<研究>武家政権と本所一円地 : 初期室町幕府軍制の前提」佐藤進一「武家政権について」などがあります。Chokorinさんが真っ先に思い浮かんだとかいわれましても、日本中のユーザーがChokorinさんと同じ考えをするわけではありません。考えが一般的であるという説明をするなら、どのように広まっているかという証明をしてください。また、戦国時代については私の計画では戦国時代における取次が「豊臣政権における取次の前身と措定されている」(丸島和洋)ことを説明するために軽く触れる程度で、内容について詳述する予定はありません。
  2. 「武家社会」の慣習である取次論の説明をした出典が一つでもありましたか?つまり武家の一般生活における慣習としての取次です。慣習説を採る場合にも、それはあくまでも「豊臣政権」や「室町幕府」などの政権にある「慣習」なのです。
  3. それとこの項目と改名予定の「取次」項目は「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる「取次」」であり、取次 (歴史学)の定義である「歴史上あらわれた取次」の下位概念の一つとなる見込です。改名提案は引き続き行っていますので、ご意見がございましたら引き続きお受けいたします。--模様砂漠2 2011年5月6日 (金) 11:13 (UTC)
室町幕府が武家政権でないとは言っておりません。まあ、語弊のある言い方をしたのは当方がわるいので、その点はお詫びします。改名については、依然として反対です。理由としてひとつ付け加えるならば、「豊臣政権の研究における権力構造やその移行を考察する上で取次の存在が注目されるようになり、豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となった」という津野氏の評価があります。これは、単独立項を可能にするだけの充分な特筆性が「豊臣政権の取次」に存在することの根拠になると思います。「豊臣政権論は豊臣政権でやれ」とおっしゃいますが、ボリューム的にも、内容的にも、すでに現時点でさえ無理があると思います。特筆性が充分にあり、文献が豊富にある以上、本記事は、これからもおおいに加筆されるものと予想します。自分としては、差し当たって加筆が進むような状況はつくったので、今後は、双方の記事の進捗状況を確認していきたいと思っています。--Chokorin 2011年5月6日 (金) 11:54 (UTC)
  1. 「特筆性=単独立項」とはならないのは、2011年4月30日 (土) 11:53 (UTC)で触れた事のくりかえしになりますが、付け加えますとある事象に対して不可欠の考察対象であるからと言って単独立項されるわけではありません。たとえば政権については「経済」や「財政」などの考察対象がありますが、そのすべてが単独立項されるわけではありません。「豊臣政権期の大名」や「豊臣政権期の朱印状」すら単独立項されていないのです。また、豊臣政権においては秀吉や石田三成も考察対象になりますが、「豊臣秀吉 (豊臣政権)」や「石田三成 (豊臣政権)」が立項されるとは限りません。取次だけが単独立項されなければならない理由はありません。
  2. ボリューム的にも無理があるとおっしゃいますが、豊臣政権は総容量26,072bと現時点での取次 (豊臣政権)より少なく、加筆の余地は十分にあります。現段階で豊臣政権の項目で取次については一~二行ぐらいしか触れられておらず、「不可欠の考察対象」である取次の視点での豊臣政権論を一節や二節書いても問題はないでしょう。
  3. 多いに加筆されても分割しなければならないほどの量に至るには相当の道筋があります。たとえば取次のような、複数の時代にまたがる制度を扱った記事では律令制がありますが、相当の文献があるにもかかわらず43,871b(しかも中国も含む)です。取次は論文が複数ありますが、まだ研究の歴史が浅く100年以上研究されている律令制には及びません。大きめの記事では神聖ローマ帝国が189,340bありますが、特に分割が話題になってはいません。記事量の問題で分割が必要となるのは相当先の話でしょう。
  4. ところでChokorinさんは、「単に豊臣政権の時代における取次」であることをはっきりさせる「豊臣政権期の取次」への改名が行われるとしたら賛成されますか。--模様砂漠2 2011年5月7日 (土) 14:39 (UTC)
取次 (歴史学)」への加筆ありがとうございました。心より感謝申し上げます。
1.については、「単独立項してもよい」ものだから単独立項を支持するということです。「豊臣政権期の大名」や「朱印状 (豊臣政権)」は、なるほど単独立項されていませんが、新規の単独立項は拒否されているわけでなく、むしろ歓迎されているでしょう。単独立項されていないものを基準にして、「だから単独立項しなくてよい」とか「単独立項してはならない」ということにはならないと思います。何せ「鎌倉文化」ですら未だに記事が立てられていません。それくらいウィキペディアの歴史記事は穴だらけだということを前提にされるべきでしょう。2.については異論ありません。しかし、だからといって「豊臣政権における取次」を説明する記事はなくてよい、もしくは、ない方がよいというふうには思いません。3.については、「取次 (歴史学)」が相当なボリュームになったら、あるいは、そこからの「取次 (武家政権)」の分割が可能になるかもしれません。確かにそれは相当先の話になるかもしれませんね。4.については、検索で見つけにくいと思いますので反対します。些細な意見の違いはあるようですが、協力できるところは協力してお互い記事を充実させていきましょう。これからも、よろしくお願いします。--Chokorin 2011年5月7日 (土) 15:50 (UTC)
『「単独立項してもよい」』『「豊臣政権における取次」を説明する記事はなくてよい、もしくは、ない方がよいというふうには思いません』というのは「単独記事でなくてはならない」という積極的な理由にはなっていません。改名後にできあがった記事も「豊臣政権における取次」を説明する記事なのです。
3ですが、「取次 (歴史学)」の項目の話ではありません。『「豊臣政権論は豊臣政権でやれ」とおっしゃいますが、ボリューム的にも、内容的にも、すでに現時点でさえ無理があると思います。』に対するご意見です。私の前回のコメントには「取次 (歴史学)」の話などまったく出ていないのにどうしてそんな解釈をされるのでしょうか。
4の話ですが申し訳ありません。記事名「豊臣政権期の取次」に変えるかという質問は、「単に豊臣政権の時代における取次」であることをはっきりさせるという点を重視したものです。この記事が存続する場合、定義を「単に豊臣政権の時代における取次」であるということを明確にすることに、賛成されるでしょうか。
また、ページを分割するべきかそうでないかというのは明確な指標をたてるのが難しく、おそらくこれ以上二人で話し合っても意見は平行線ですから、今度は合意形成のためのコメント依頼を行います。そのため新規参加者のために箇条書きで改名すべき理由、すべきでない理由をまとめることを提案します。出来れば書式を統一したいと思いますので、よろしくおねがいいたします。--模様砂漠2 2011年5月8日 (日) 12:53 (UTC)

改名提案2011年5月8日以降

改名し、「取次 (武家政権)」等の取次を説明する単独項目(参考・利用者:模様砂漠2/作業場)とする案
  1. 「取次」の研究は室町時代(桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』 、丸島論文の註10を参照)から江戸時代([9])まで広い時代が対象となっている。
  2. 豊臣政権期の取次は前後の移行期の研究もあり、豊臣政権期だけを切り離すのは「取次」というものを理解の妨げになる。
  3. 取次の記事から時代区分として豊臣政権期を分割しなくてはならないほどの記事量はない。

以上の事から豊臣政権期だけを分離するのはWikipedia:ページの分割と統合にある「同一の概念や事物に関して、不注意などにより、別名でページが作られた場合」「1つのページ中で一緒に解説すべきにも関わらず、必要以上に細切れにされてページが作られている場合」に該当する事例となりうる可能性があります。したがって、「取次 (武家政権)」への改名を提案しています。--模様砂漠2 2011年5月8日 (日) 12:53 (UTC)

改名せず、「豊臣政権の取次」を説明する単独項目(現状維持)とする案
1. 豊臣政権における取次については「豊臣政権の研究における権力構造やその移行を考察する上で取次の存在が注目されるようになり、豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となった」という評価(津野倫明)があり、
  • 山本博文「豊臣政権の『取次』の特質」
  • 戸谷穂高「豊臣政権の取次 - 天正年間対西国政策を対象として」
  • 津野倫明「豊臣政権の「取次」蜂須賀家政」
  • 津野倫明「豊臣政権における「取次」の機能 - 「中国取次」黒田孝高を中心に」
など、「豊臣政権の(~における)取次」を冠した論文等は多数にわたる。また、山本の指摘した「大名統制機構としての取次」は、賛否も含めたそれ自体に単独立項に足るだけの特筆性があると判断される。
2. 「武家政権の取次」を網羅的に説明ないし論考した文献は皆無であり、記事「取次 (武家政権)」の定義が「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる「取次」」というのは曖昧かつ恣意的であり、記事名から記事内容をおしはかるのが難しい。
3. 移行期に関して。「豊臣政権の取次」が幕藩体制下の諸制度に影響をあたえたことについてはすでに研究があり、「歴史的意義」「後世への影響」等の節を設けて扱うことができる。前代(戦国時代・織田政権時代)についても、同様の工夫で対応できる。
4. 模様砂漠2さんは、「取次 (武家政権)」のなかの戦国時代について、「戦国時代については私の計画では戦国時代における取次が『豊臣政権における取次の前身と措定されている』ことを説明するために軽く触れる程度」とおっしゃっていますが、そうであるならば、模様砂漠2さんが本当に書きたいのは「豊臣政権における取次」ではないかという疑問が持たれる(なお、模様砂漠2さんの想定する記事内容および定義は、「武家政権の取次」、「研究者が『取次』として扱っているもの」、「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる取次」など二転三転している)。「私の計画」なるものもまた恣意的であり、「取次 (武家政権)」が立項されたとしても加筆しようとする者が模様砂漠2さんの個人的な計画を了解して加筆することは不可能である。
以上の点から、「取次 (豊臣政権)」の現状維持が妥当と判断する。
なお、豊臣政権以外の「取次」を網羅的に扱える項目としては「取次 (歴史学)」が用意されている。--Chokorin 2011年5月8日 (日) 14:52 (UTC)

以前言っていました6月にもなりましたし、一ヶ月近く新規参加者もないので、Chokorinさんのご意見についてコメントさせていただきます。 1.については最初に提示したとおりです。 2.については『「取次 (武家政権)」の定義が「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる「取次」」というのは曖昧かつ恣意的』と言うご意見ですが、山本氏の書籍など参考文献で扱われる「取次」の共通した事項です。なお、それらの取次が共通して扱われるべきであるというのは、丸島論文、千葉一大論文で連続して扱っていることからあきらかです。 3.についても最初に提示したとおりです。 4.ですが、丸島論文では[10]と研究において混同を避ける必要があり、別名で呼ばれるものを同じ扱いで記述するわけにはいきません。「そうであるならば、模様砂漠2さんが本当に書きたいのは「豊臣政権における取次」ではないかという疑問が持たれる」という理論の根拠はありませんし、「豊臣政権における取次」が本当に書きたいなら改名提案などせずに加筆だけしています。また、「研究者が『取次』として扱っているもの」と言う書き方をしたのは『中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる取次』を指して山本氏が取次に言及される際に「取次」とカギ括弧つきで表記されており、丸島氏の論文でも言及されているはずです。このカギ括弧が山本氏が始めた『中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる取次』研究に基づくものであることは、出典に目を通されたのならばおわかりになるはずです。 5.「豊臣政権以外の「取次」を網羅的に扱える項目としては「取次 (歴史学)」が用意されている」ですが、Chokorinさんが作成された「取次 (歴史学)」の定義は「両者のあいだを仲介してものごとを伝えること、あるいはその仲介者」であり、対等の立場にある戦国時代の取次、申次は山本博文、丸島論文などでいわゆる「取次」とはっきりと区別されているものも含んでいます。また、「伝奏」など個別に立項されていることも含んでいます。つまり「取次 (歴史学)」の存在はいわゆる「取次」の立項を妨げるものではありませんし、もしそうなら「取次」の中の時期区分に過ぎない(と、Chokorinさんは明言されました)「取次 (豊臣政権)」だけ別途に立項しなければならない理由はどこにもありません。 6.2011年5月8日 (日) 12:53 (UTC)の「3」と「4」の質問にもご回答を願います。--模様砂漠2 2011年6月1日 (水) 11:46 (UTC)

コメント結論だけ言わせていただければ、「取次 (武家政権)」への改名には依然あまり賛成できません。というのも、「豊臣政権における取次」の前に「室町幕府における取次」、後ろに「江戸幕府における取次」が少しずつくっついて、「取次 (武家政権)」なる名称の記事にしようという構想には全然賛成できないからです。これは、「Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」にあたるのではないか、というふうに考えます。確かに、豊臣政権も室町幕府も江戸幕府も武家政権ではありますが、そこを合成してはいけないのではないかと考えます。合成することによって、あるものが必要以上に過大評価されたり、あるものが矮小化されたり、あるいは、本来は因果関係や影響関係のないものの連続性が不当に強調されてしまうこと(結果として、特定の観点を推進してしまうこと)を私は怖れます。「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる「取次」」を、「武家政権の取次」と銘打ってトータルに説明・論考した文献が皆無であることは依然変わりません。もし、そういう文献が現れたならば、「取次 (武家政権)」という名称の記事を作成することには反対しませんが、現状では時期尚早と考えます。次善の策としては、「取次 (室町幕府)」「取次 (江戸幕府)」を「取次 (豊臣政権)」とは別個に立項することが考えられます。それには、反対しませんし、反対する理由がありません。むしろ、その方がスッキリすると思います。もとより、「取次 (歴史学)」における「両者のあいだを仲介してものごとを伝えること、あるいはその仲介者」という定義は、集合論的には「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる「取次」」なるものを含んでいますから、書き方を工夫したうえで、「取次 (歴史学)」のなかに書くことは可能だと考えます。また、利用者:模様砂漠2/作業場を「取次 (豊臣政権)」とは別個に「取次 (武家政権)」として新規立項する案も、「どうしても」ということであれば、反対しません。--Chokorin 2011年6月3日 (金) 13:33 (UTC)
  1. 「少しずつくっついて」という編集をするつもりがあるなど誰も言っていません。現在豊臣政権についての分量が多くを占めるのは、単に私がアクセス可能な出典に、豊臣政権について触れたものが多いだけの話です。江戸時代や室町時代の出典となりうる論文等は、引用した論文にかなりリストアップされています。また連続性については今まで何度も言及してきましたとおり、出典に明言されているのです。論点の合成などではありません。
  2. 「武家政権の取次」と銘打ってトータルに書いてある論文がなければ認めないというのはYasumiさんの主張と近いものがありますが、Chokorinさんは「歴史学の取次」と銘打ってトータルに書かれた論文があったから「取次 (歴史学)」を立項されたのでしょうか。
  3. また結論だけでなく、2011年5月8日 (日) 12:53 (UTC)の「3」と「4」の質問にもご回答を願います。--模様砂漠2 2011年6月4日 (土) 06:09 (UTC)
コメントあなたの質問に答えるのが目的なのではなく、合意を得ることを目的として議論に参加していますので、今回も結論のみを申し上げます。あなたの意見は、たとえるなら「みそラーメン」の記事に「しょうゆラーメン」を加筆するから「大豆ラーメン」に改名しろというようなものです。確かに味噌も醤油も大豆製ではありますが、「大豆ラーメン」という言い方や括りが果たして一般的なんでしょうか。「武家政権の取次」と銘打ってトータルに書いてある論文がない、ということはあなた自身お認めのようです。だったら、「大豆ラーメン」と変わりないわけですよね。それに対し、「豊臣政権の取次」を扱った論文ならば多数あるわけですし、「取次研究は豊臣政権理解に不可欠」との認識も示されているわけですから、「取次 (豊臣政権)」を改名する必要はまったくないでしょう。ただし、「(「武家政権の取次」と銘打ってトータルに書いてある論文がなければ)認めない」というふうには私もYasumiさんも言っていませんよ。「どうしても書きたかったら別個にどうぞ」と申し上げています。「江戸時代や室町時代の出典となりうる論文等は、引用した論文にかなりリストアップされてい」るんだったら、「取次 (室町幕府)」や「取次 (江戸幕府)」も書けそうなもんですが、何故、そういう方向には向かわないんでしょうか。--Chokorin 2011年6月6日 (月) 22:45 (UTC)

合意を得るためには、Chokorinさんの意見に正統性があると私や閲覧者の方に知らししめる必要があります。Chokorinさんの意見がどのような根拠に基づいて発せられているのか、今までの経緯では全くわかりません。ですからその根拠を聞いているのです。また、醤油ラーメンが時間経過とともに味噌ラーメンに進化するような事例は菅見の限りありませんし、醤油ラーメンと味噌ラーメンが通常同じ「大豆ラーメン」と呼ばれる事例などありません。ラーメンと「取次」を同一に扱うのは全く的外れです。

くりかえし、質問を掲示します。Chokorinさんは「歴史学の取次」と銘打ってトータルに書かれた論文があったから「取次 (歴史学)」を立項されたのでしょうか。また結論だけでなく、2011年5月8日 (日) 12:53 (UTC)の「3」と「4」の質問にもご回答を願います。--模様砂漠2 2011年6月8日 (水) 12:11 (UTC)

「歴史学の取次」と銘打ってトータルに書かれた論文があったから「取次 (歴史学)」を立項したのか?という御質問ですが、確かに、そんな論文はありませんよ。「法律用語の取次」や「出版用語の取次」と区別するために「取次 (歴史学)」を設けたのです。ラーメンの例で言えば、建築学でいう「ラーメン構造」と区別するために「ラーメン (料理)」を設けたようなものです。曖昧さ回避のあり方として「ラーメン (料理)」なる記事名の記事が真に必要かどうかは別として、命名法としては間違っていないわけですよね、紛らわしさを防ぐためには。それにくらべれば、「取次 (武家政権)」というのは、紛らわしさをむしろ倍増してしまうわけです。「取次 (武家政権)」があるのなら「取次 (公家政権)」はないのか?という話になってしまう。あるいは、あなたが書きたいのは「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる「取次」」ということのようですから、だったら、どうして「取次 (中央政権)」じゃないのか?という話になってしまうわけです。実際、どうして「取次 (中央政権)」じゃないんですか。要するに、「取次 (武家政権)」は曖昧で不明瞭、内容とも整合性がない、なおかつ、あなた御自身がお認めであるように「武家政権の取次」と銘打ってトータルに書かれた論文はまったくないということですから、認知度も低いわけです。それに対して、「取次 (豊臣政権)」というのは、「豊臣政権」と「それ以外」を分けるわけですから、曖昧さがなく簡潔、明瞭で見つけやすい、さらに、多数の論文に「豊臣政権の取次」が扱われているわけですから認知度も高いし、特筆性も申し分ないわけですよね。「取次 (室町幕府)」やら「取次 (江戸幕府)」を立項することを何ら妨げないわけです。ボリュームも3万バイトもあって単独記事として充分だと思われるのに、どうして無理やり中途半端で曖昧で、あまり適切とも思われない名前に改名しなくてはならないのですか。もとより、「取次 (武家政権)」の記事をつくるなとは一言も言っておりませんよ。別個に記事を立てる分には、反対した覚えがありません。つくりたかったらつくってくださいと何度も申し上げております。そのなかで、あなたが何か特筆性を主張したいことがあるというのであれば、主張すればよろしいのです。3.については、「豊臣政権期の取次」に改名することには反対です。現状を支持します。わざわざ検索で見つけにくい名前に改名する必要はありませんね。4.については、何を答えたらいいのかわかりません。とりあえず、改名には反対ですが「取次 (武家政権)」を新規に立てる分には御自由にどうぞと申し上げておきます。--Chokorin 2011年6月8日 (水) 13:10 (UTC)
1. Chokorinさん、「「取次 (武家政権)」があるのなら「取次 (公家政権)」はないのか?という話になってしまう」といいますが、「取次 (歴史学)」「朝廷・公家政権における取次」の節を書いたのは他ならぬChokorinさんではないですか。Chokorinさんの意見では、公家政権の取次は確固として存在するはずです。「取次 (武家政権)」があるのなら「取次 (公家政権)」はないのか?という話」に対しては「存在する」という明解な結論をChokorinさんは持っているはずです。なぜ「公家政権の取次」がないような前提でお話しをされるのですか。
2. 中央政権にはChokorinさんがおっしゃった「公家政権」や「日本国政府」もふくまれるはずです。それに、日本国以外の中央政権も無数に存在します。最大公約数にするにはあまりにも大きすぎるくくりです。『無理やり中途半端で曖昧で、あまり適切とも思われない』という指摘のあります「武家政権」は通常日本史でしか使われませんし、公家政権や近代以降や古代も含めませんので、中央政権よりも範囲は明確です。室町・織田・豊臣・江戸の各政権を簡潔にまとめる言葉としてあれば「武家政権」以上のものがあれば、特にこだわりはしないと私は何度も言っておりますし、まずそれは出典のある「室町・織田・豊臣・江戸」の取次記事を立項するかどうかの後の話ではないですか。
3. 『さらに3万バイトもあって(中略)どうして無理やり中途半端で曖昧で、あまり適切とも思われない名前に改名しなくてはならないのですか。』とおっしゃいますが、提案時の16,101kbから現在の38,994kbまで加筆されたのはChokorinさんで、「反対」の意思表示をされ、議論が始まった後になさったことです。改名提案発議の前提に「38,994kb」はないということを思い出してください。また、記事容量はたしかに通例ならば独立記事となる分量はあります。しかしWikipedia:ページの分割と統合にもあるように「サイズのみを理由に分割がされるわけではありません。」。もし「取次」を説明するために必要ならば「取次 (○○)」に内包するほうが自然な場合もあります。特に冒頭の「「取次」の定義 」を「豊臣政権の取次」の項で解説するのは不適当です。田中誠二氏や津野倫明氏は江戸時代の事例を出して「取次」の定義をあげています。「取次 (○○)」を立項すればいわゆる「取次」についてスムーズに説明できます。「取次」全体の記事に統合すれば、統合すれば重複することの多い書誌情報のバイト数も節約できます。また『「取次」の定義」』の記述と「取次 (歴史学)」における定義の記述は全く違いますので『「取次」』=「取次 (歴史学)」ではありません。
4.2011年5月6日 (金) 11:54 (UTC)にChokorinさんがなさった『「豊臣政権論は豊臣政権でやれ」とおっしゃいますが、ボリューム的にも、内容的にも、すでに現時点でさえ無理があると思います。』の発言に「豊臣政権の記事量は少なく、加筆は可能」(2011年5月7日 (土) 14:39 (UTC))と私が指摘しましたところ、2011年5月7日 (土) 15:50 (UTC)に「3.については、「取次 (歴史学)」が相当なボリュームになったら、あるいは、そこからの「取次 (武家政権)」の分割が可能になるかもしれません。」という回答をなさったことについての質問です。あらためて経緯を見てもなぜこのような回答がなされたのかよくわかりません。2011年5月7日 (土) 15:50 (UTC)の回答をなされた意図をお聞きしています。
5.『この記事が存続する場合、定義を「単に豊臣政権の時代における取次」であるということを明確にすることに、賛成されるでしょうか。』の答えが「「豊臣政権期の取次」に改名することには反対です」でしょうか。記事の定義についての質問なのですが。--模様砂漠2 2011年6月9日 (木) 13:42 (UTC)
6. 肝腎の回答を忘れていましたが、「「歴史学の取次」と銘打ってトータルに書かれた論文がない」のに、「取次」と言う用語で用いられていない各記事を総合して「取次 (歴史学)」とまとめて書くのはOKで、「取次という共通の用語を用いており、同一論文での言及もある各時代の取次」をまとめて書くのがいけないという論理は全く理解できません。さらに「トータルに書かれた論文がない」から「取次 (武家政権)」とまとめてはいけないと言うのに、『「取次 (武家政権)」を新規に立てる分には御自由にどうぞ』などと言う発言はなおさら理解できません。Chokorinさんの意見に従えば、改名だろうが新規立項だろうが、同じ「独自研究」にあたる行為のはずです。改名がダメで、新規立項はかまわないという論理を説明してください。--模様砂漠2 2011年6月9日 (木) 13:57 (UTC)
5.について賛成いたします。ひとことで言うなら特筆性の観点から「取次 (豊臣政権)」は単独記事として残しておくべきと私は確信しているのであって、それさえ叶えば「取次 (武家政権)」をあなたが立項することについては妥協できる、許容できるということです。改名がダメな理由は今まで申し上げたので繰り返しません。個人的には「取次 (豊臣政権)」と別個に「取次 (室町幕府)」「取次 (江戸幕府)」を新規に立項するのが一番妥当なかたちだとは思っています。--Chokorin 2011年6月9日 (木) 21:10 (UTC)

5については了解いたしました。1と4と6はChokorinさんの論理の根本に関わってくる問題ですが、それに対しては回答をいただけないのでしょうか。--模様砂漠2 2011年6月10日 (金) 13:34 (UTC)

1.については、「取次 (公家政権)」は単独立項するほどの特筆性がないと思いますし、「取次 (武家政権)」も同様に、その名称で単独立項するほどの価値はないと思っています。4.については、特別な意図があるわけではなく、「取次 (武家政権)」という括りは、私見では曖昧で不自然、不明瞭な括りではありますが、そうではあっても、肥大化した記事からの分割というかたちならば、苦肉の策で許容されるかもしれないという見通しを示しただけです。改名に反対であることには変わりありません。6.については、上で申し上げた通りです。特筆性の観点、出典数からみた認知度の高さ、見つけやすさ、簡潔明瞭であること、曖昧でないこと、いずれの点からも「取次 (豊臣政権)」は単独記事として絶対に守らなければならない、と私は考えています。そこだけは妥協できない点、大げさに言えば、私の良心が許さない点です。逆に言えば、それ以外は妥協してもよいのであって、「取次 (武家政権)」をあなたがどうしても立項したいというのであれば、そこは譲歩してもよいし、譲歩することで改名議論に決着が付くのならそうしたいということです。もともとあなたが改名提案抜きで「取次 (武家政権)」を立項してしまったら、それを止めるすべはなかったわけです。ただし、個人的に、あまり感心はしないことは確かです。新規立項であれば「取次 (室町幕府)」「取次 (江戸幕府)」を別個に立てるのが最善であって、それならば武家政権がどうこう、中央政権がどうこうという議論はしないですみますし、わかりやすく曖昧さがない。また、「発表済みの情報の合成」にもあたらないでしょう。ただ、どちらを選ぶかはあなた次第の部分のところがありますから、あなたとしては、改名提案が通らなかった場合のことも含めて前向きに御検討いただきたいというところです。--Chokorin 2011年6月10日 (金) 15:23 (UTC)
1. 現状では「単独立項するほどのものではない」ですが、Chokorinさんの認識では「ある」ことが明確だったはずです。「「取次 (武家政権)」があるのなら「取次 (公家政権)」はないのか?という話になってしまう」になって何が困るのかお聞きしています。また、『「取次 (武家政権)」も同様に、その名称で単独立項するほどの価値はない』と、『「取次 (武家政権)」を新規に立てる分には御自由にどうぞ』ともまったく整合性がありません。
4. 分割云々の問題ではなく、質疑応答の流れがおかしいという指摘なのですが。「「豊臣政権の記事量は少なく、加筆は可能」(2011年5月7日 (土) 14:39 (UTC))に「3.については、「取次 (歴史学)」が相当なボリュームになったら、あるいは、そこからの「取次 (武家政権)」の分割が可能になるかもしれません。」(2011年5月7日 (土) 15:50 (UTC))と返答するのは質問の答えになっていますか。
5. 「譲歩することで改名議論に決着が付くのならそうしたいということです。」 とおっしゃいますが、譲歩というのは、私が立項の意思さえ持っていれば、Chokorinさんがおっしゃる『「観点の合成」にあたる記事』の作成を黙認するということですか。Wikipediaの方針では独自研究に当たる記事はそもそも作成されてはならないはずです。--模様砂漠2 2011年6月11日 (土) 15:28 (UTC)
整合性はないかもしれませんが、そんなことよりも合意形成を優先しています。そもそも、「取次 (豊臣政権)」を改名すべき理由はまったくないと考えます。特筆性、出典の存在、認知度の高さ、簡潔であること、明瞭であること、曖昧でないこと、見つけやすさ、いずれの点からも。「豊臣政権の取次」を調べたい人は、この記事を探しやすいでしょうし、記事をみて「豊臣政権の取次」についてもっと詳しく知っている、加筆したいという人は加筆するでしょう。本来であれば、そこで完結する話だと思います。「豊臣政権以外の取次について記事を書きたいから改名したい」というのは、それに対してまったく別の話題を持ち出してコミュニティに改名をせまる行為だと感じます。1点うかがいますが、「豊臣政権以外の取次について記事を書きたい」ということを横に置いたとしても、あなたは改名が必要だと思いますか。--Chokorin 2011年6月11日 (土) 22:14 (UTC)

整合性がない議論を強引に主張されても、合意を形成などできません。これまでのChokorinさんの意見は前後の整合性がないということを自らお認めになったと言うことでよろしいですか。--模様砂漠2 2011年6月12日 (日) 12:20 (UTC)

別に認めたわけではありませんよ。妥協できる点は妥協しようということです。合意形成のために議論をしているわけでしょう。「1点うかがいますが、「豊臣政権以外の取次について記事を書きたい」ということを横に置いたとしても、あなたは改名が必要だと思いますか」これについて、まずはお答えください。--Chokorin 2011年6月12日 (日) 13:00 (UTC)
どうしてお答えにならないのでしょうか。あなたが「豊臣政権以外の取次について記事を書きたい」としても、「だから、改名が必要である」ということにはなりません。そしてまた、「取次 (豊臣政権)」という記事および記事名それ自体に改名を必要とするほどの問題点があるわけではありません。あなたが「取次 (室町幕府)」や「取次 (江戸幕府)」を立てることに反対だという人がいるわけでもありません。そうであれば、改名提案は取り消すのが妥当な結論(議論参加者全員にとって合意可能な結論)のはずです。そのうえで善後策を検討すべきでしょう。もっと付け加えるならば、そもそも、あなたは本当に「豊臣政権以外の取次について記事を書きたい」のでしょうか。「何が何でも豊臣政権以外の取次について記事を書きたい」ということだったら、どうして、「加筆を行うまで私が無事にアクセスできるという保障があるわけでもない」(2011年4月28日 (木) 09:50 (UTC))とおっしゃったのですか。あなたが「書きたい」「加筆したい」ということから改名提案が始まったはずなのに、当人がいなくなることも考えろというのは、無責任すぎませんか。また、「室町・織田・豊臣・江戸の各政権を簡潔にまとめる言葉としてあれば「武家政権」以上のものがあれば、特にこだわりはしない」(2011年6月9日 (木) 13:42 (UTC))とおっしゃるのであれば、まずは、改名提案を取り下げて「取次 (室町幕府)」以下の各記事を御自分が立てて、そのうえで「改名提案」ではなく「統合提案」をすべきではないですか。そこで、統合すべきか、単独記事のままにしておくかをコミュニティに問うべきなのであって、その結果、統合するということが決まったらはじめて統合先名称の候補として「取次 (武家政権)」はどうかという話になるんじゃないですか。途中の経過を全部省略して一気に話を進めようとなさるから、話がまとまらないと考えるのですが、いかがですか。--Chokorin 2011年6月14日 (火) 21:06 (UTC)

Chokorinさん、仕事や緊急でもない用件、特にインターネット上でのやりとりでは相手に都合があるかもしれないと考えるのがマナーです。1日や2日返答がないぐらいで騒ぎ立てずにお待ちください。 1. 『「豊臣政権以外の取次について記事を書きたいから改名したい」というのは、それに対してまったく別の話題を持ち出してコミュニティに改名をせまる行為だと感じます。』というのはあなたの感じ方です。さらにこの文章の「それ」は『「取次 (豊臣政権)」』のことかと思いますが、わたしが複数出した出典の通り、豊臣政権の「取次」と他時代の「取次」は「全く別」ではなく、同一論文でも研究が行われていることです。全く別であるというなら他時代の取次がまったく無関係であると言う出典を出してからにしてください。 2. 記事をたててから統合提案をするべきだという意見は「Wikipedia:投稿ブロック依頼/Yasumi」でYasumiさんが発言していますが、それをしなかった私について不適当であるという意見はそのブロック依頼で一件もありません。私の手続きに瑕疵があるならこの際に管理者なりの指摘があったはずです。そもそも記事定義を変更する際には個別記事ではなくて出典があれば十分なはずです。しかもこの出典はネット上で簡単に見られます。それをChokorinさんは出典を「どうしてみなければならないのか」といって見ようともせず、私というフィルターを通した「記事」を見なければ同一のものか判断できないとおっしゃいます。必要なのは出典のはずですが。 3.「別に認めたわけではありませんよ。妥協できる点は妥協しようということです。」では、『「取次 (武家政権)」も同様に、その名称で単独立項するほどの価値はない』と、『「取次 (武家政権)」を新規に立てる分には御自由にどうぞ』は整合性があると言うことでしょうか。また「単独立項するほどの価値」はChokorinさんの「交渉材料」にすぎず、Chokorinさんの胸先三寸で自在に変化すると言うことでしょうか。--模様砂漠2 2011年6月15日 (水) 12:16 (UTC)

1.については、誤解されていると感じました。「取次 (豊臣政権)」という記事および記事名それ自体に改名を必要とする何らかの問題点があるのかということに対して「別の話題」です。だから、「1点うかがいますが、「豊臣政権以外の取次について記事を書きたい」ということを横に置いたとしても、あなたは改名が必要だと思いますか」とお聞きしているわけです。
2.については存じませんが、もし、そうなら、偶然ながらこの件に関してはYasumiさんと同意見だったということになります。「記事を立ててから統合提案をすべきでないか」というのは、実に真っ当な意見だと思いますので、もう一度コメントを募ってみてはいかがでしょう。
3.については、個人的には、前者すなわち『「取次 (武家政権)」も同様に、その名称で単独立項するほどの価値はない』というふうに、少なくとも現段階では思っています。提案者であるあなた自身が『室町・織田・豊臣・江戸の各政権を簡潔にまとめる言葉として「武家政権」以上のものがあれば、特にこだわりはしない』とおっしゃっているくらいですから、他人がそう思っても何ら不思議ではないでしょう。後者の『「取次 (武家政権)」を新規に立てる分には御自由にどうぞ』というのは、それでもなお、『何としても「取次 (武家政権)」という記事を立てたいのだったら、新規に立てるかたちでお願いします』ということであり、「記事を立てたいのなら」という条件付きの話ですから、何ら矛盾しません。個人的には何度も申し上げているように、「取次 (室町幕府)」「取次 (江戸幕府)」のようなかたちで立てるのがよいと思っています。「室町・織田・豊臣・江戸の各政権を簡潔にまとめる言葉」を考えるよりは「各政権の個別記事内で共通性その他も含め詳細に説明する」方が読者にとっては親切であり、有益だとも思っていますので、できれば、そうしてくださった方がありがたいです。模様砂漠2さんならば、それぞれについてきっと素晴らしい記事を書いてくださるのではないかと期待いたしております。--Chokorin 2011年6月15日 (水) 14:02 (UTC)

1.『「取次 (豊臣政権)」という記事および記事名それ自体に改名を必要とする何らかの問題点があるのかということに対して「別の話題」』も何も、同趣旨で私が最初に改名提案を行う前にこのノートには話題は存在していません。私が書き込む前にどんな話題があったというのでしょうか。 2. 現時点では私の方法が不適切であるとはどの方針文書を読んでも該当する記述はありません。Yasumiさんに告げたことと同じ事をいいますが、私の手続きが不適切であるなら、改名提案のノートか井戸端で相談してルールを明確化させてください。「もう一度コメントを募って」も何も、この件で私がコメントを募集したことはありませんし、Yasumiさんもまたそうです。 3.「立項基準」は私が「何としても立てたいのだったら」で変化するのですか。特筆性は客観性で判断されるのであって、執筆者の熱意などは関係ありません。もし矛盾しないというのであれば、Chokorinさんが方針を根本的に誤解しているということになります。--模様砂漠2 2011年6月16日 (木) 13:56 (UTC)

一ヶ月間回答がありませんので、改名に向けた準備を開始いたします。--模様砂漠2 2011年7月16日 (土) 00:59 (UTC)

コメントあらためて申し上げますが、改名には反対です。理由は何度も申し上げている通りですので、繰り返しは避けます。--Chokorin 2011年7月16日 (土) 02:04 (UTC)

Chokorinさんの理由自体に疑義がある状態ですので、質問に対する回答をお願いします。--模様砂漠2 2011年7月17日 (日) 03:51 (UTC)

答えたところでしょうがないと思うんですけどね。1の『「取次 (豊臣政権)」という記事および記事名それ自体に改名を必要とする何らかの問題点があるのかということ』に関しては、「問題点はない」という結論だったんじゃないんですか。2.について。あなたの方法が適切かどうかについては、自分はあまり適切だと思わないです。あなたが適切だというのなら、意見の相違としか言いようがありませんよね。方針文書は、あらゆる事態を想定しているわけではないと思いますが。3.については、「豊臣政権の取次」については特筆性が客観的に認められますよね。だから、改名の必要はないということです。「武家政権の取次」の特筆性は、個人的にはほとんどないと思いますし、客観的にも「ある」とは断言できない状態ですよね。「武家政権の取次」というかたちで扱っている文献は皆無ですから。ただ、客観性というのは何もわたしの独占物ではないのですから、あなたが「何としても立てたいのだったら」立ててみて、削除に相当するかどうかコミュニティに問うてみるべきでしょう。削除が合意されるようなら、「武家政権の取次」の特筆性は「客観的にみても『なかった』」ということになるでしょう。それ以上でもそれ以下でもない話ではないでしょうか。--Chokorin 2011年7月17日 (日) 04:21 (UTC)

1の問題点はないという結論は誰と誰が話し合って出た結論ですか。そもそも議論が存在していないのに結論だけはあるという時点でおかしいです。もし執筆者が問題点はないと考えていたから問題点がないというなら、すべての削除依頼や改名提案は用をなしません。2について「意見の相違」としか言いようがないのであれば、そもそも相手を説得する理由にすらならないはずです。3についてはあなたが「「記事を立てたいのなら」という条件付きの話」で立項を認めた経緯についてお聞きしています。それと、根本的に誤解されている気がしますが、そもそも「取次」は山本博文氏の研究に始まる諸研究における「取次」であって、「武家政権」という但し書きは「曖昧さ回避」のための括弧です。あなたが「取次 (歴史学)」で建てた取次役や取次と呼ばれているものとは概念が違います。--模様砂漠2 2011年7月18日 (月) 07:48 (UTC)

1.については、他ならぬあなた御自身からでさえ問題点が出ていないのですから、「問題点はない」のでしょう。あるのであれば、出せばよろしい。2.については、方針文書にはないが、ここまでこじれるのは、あなたの話の持って行き方がおかしいということなのでしょう。自分自身のコメント依頼でもお出しになればいかがでしょうか。そうすればハッキリするでしょう。3.は経緯も何も、あなたがどうしても立てたいのならば、それを止める手立てはありませんよ。何なら私が立てましょうか? --Chokorin 2011年7月18日 (月) 12:13 (UTC)

1.「結論」というのは議論の結果生まれるものです。議論がいつ誰との間であったのかを示してください。それに改名すべき理由は私は何度も繰り返し言及しているではないですか。これが問題点を挙げていないことになるのでしょうか。2.「ここまでこじれるのはあなたの話の持って行き方がおかしいということなのでしょう」もなにも、この議論が長期化している責任はChokorinさんに全くないということでよろしいでしょうか。3.「何なら私がたてましょうか」ということは、Chokorinさんは自身で「特筆性はない」と判断した記事を立項するのと言うのですか。方針無視も甚だしいです。回答によってはコメント依頼を出しますが、私の言動について不審な点がある場合はChokorinさんが出してください。--模様砂漠2 2011年7月19日 (火) 10:53 (UTC)

キリがないのでこれくらいにしましょう。改名には反対ということを再度申し述べておきます。--Chokorin 2011年7月19日 (火) 14:04 (UTC)
改めて読み直してみましたが、「豊臣政権の取次」を説明した現記事「取次 (豊臣政権)」を、「様々に異なる取次のうち、任意に選択された取次群」を扱う「取次 (武家政権)」とする改名提案には同意できません。Chocorinさんと同様に改名には反対します。利用者:模様砂漠2/作業場の取次 (武家政権)用原稿[11]を見ましても以下の点で豊臣政権の取次や他の取次と適合しません。
例えば冒頭の説明文
  • 取次(とりつぎ)とは、武家政権の側近が、政権の影響下にある地方大名等と政権の間を取り次ぐことや、政権側の意向によって対象を指導することや、その役割を担った人物を指す日本史研究上の概念。同時代においては申次奏者、聞次ともいう。1987年山本博文豊臣政権における大名統制機構としての取次の存在を提唱した[1]後、豊臣政権やその他の武家政権における取次の研究が行われるようになった。
だけ見ても記事内容が一致しない下記の問題点があります。
  1. 武家政権の側近が」 >ここで取り上げている取次は側近に限らていません。室町幕府の大名申次は在京大名ですし、豊臣政権でも服従した大大名が任じられているケースがあります。
  2. 「政権の影響下にある地方大名等と政権の間を取り次ぐこと」 >これも豊臣政権の取次や戦国時代の取次対象は敵対大名の場合もあり、冒頭説明と記事内容が異なります。
  3. 日本史研究上の概念」 >以前から答えていただけない質問ですが、これらの本文で条件付け(模様砂漠2さんがカテゴライズ)された取次定義の出典は何ですか?説明がないということは独自研究ですよね?各研究者は各分野に限定した研究をしており、日本史全般に適用できるような取次論を展開しているのは誰なのですか?
  4. 「同時代においては申次奏者、聞次ともいう」 >江戸幕府の取次(取次の老中)では聞次とは被取次側の概念(諸大名側の江戸家老や留守居役)であって、取次の概念とは異なります。 また、豊臣政権の取次で「聞次」と称される出典も見かけません。本当に出典はあるのでしょうか? 更に室町幕府の取次(大名申次)の研究でも取次を聞次と称していないようです。出典にも無く、各取次対象を指していない冒頭定義文は何を根拠に執筆されたのでしょうか?
これら、色々な取次を呼び名が一緒だからと言って混ぜこぜに一つの記事で詳説するメリットが理解できません。呼び名が同じという共通点だけでは長政のような、よく分からない記事となるでしょう。--Yasumi 2011年7月20日 (水) 21:36 (UTC)

回答がありませんでしたので、Wikipedia:コメント依頼/Chokorinを提出しました。Yasumiさんは議論に復帰されるのであれば、まずブロック依頼の原因となった質問に回答を行ってください。--模様砂漠2 2011年7月21日 (木) 11:08 (UTC)

1.については、模様砂漠2さんの掲げる「改名すべき理由」が客観的に改名理由になっているかというと、まったくなっていないように感じます。そして、『「取次 (豊臣政権)」という記事および記事名それ自体に改名を必要とする何らかの問題点があるのかということ』に関しては、議論は私と模様砂漠さんとのあいだで数ヶ月続いていますが、模様砂漠2さんの側からはまったく出てきていません。本記事については、特筆性、出典の存在、認知度の高さ、簡潔であること、明瞭であること、曖昧でないこと、見つけやすさ、いずれの点からも、「取次 (豊臣政権)」それ自体に改名の必要性はないものと考えます。また、このことを従前わたくしが申し上げた際にも、特にそれに対する異論が模様砂漠さんの側からあったわけではありません。記事および記事名それ自体に改名が必要ならば模様砂漠2さんがお出しになればいいのですが、1つも出てきておりません。2.については、提案者である模様砂漠2さん御自身が『室町・織田・豊臣・江戸の各政権を簡潔にまとめる言葉として「武家政権」以上のものがあれば、特にこだわりはしない』とおっしゃっていますが、戦国大名の権力や近世大名の権力など地方政権もまた「武家政権」といって間違いではない以上、改名先を「取次 (武家政権)」とするのは曖昧さをともない、きわめて不適切であると考えられます。繰り返し申し述べているように、「武家政権の取次」というかたちで扱っている文献は皆無ですから、改名先候補には出典もなければ、認知度もありません。客観的に「独自研究のおそれ」ありと言えます。そしてまた、模様砂漠2さんが加筆したいのは「中央政権が地方大名等と交渉を行う際に置かれる『取次』」であり、その「取次」とは史料にあらわれたものでなく、日本史学者によって歴史学的に措定された括弧つきの「取次」ということならば、「取次 (歴史学)」のなかで説明するのが妥当です。個人的には、それ以外の選択肢はほとんどないものと考えています。逆にいえば、客観的には「取次 (武家政権)」は、模様砂漠2さんの頭のなかにしかないのです。3.は「いつまでも納得しない」相手に対する言葉であり、納得する人にはそんなことは申し上げませんので受け流してください。お互いに思うところを言い合って平行線の状態がつづくから歩み寄っているだけの話です。最後に、意見が違う相手だからといって、いちいちコメント依頼を出して異論を排除なさろうとするのはどうかなとは思いますね。ここで決着を付けるべきじゃないかと思いますが。--Chokorin 2011年7月21日 (木) 20:06 (UTC)
1.「結論を出した人物」と「結論が出た日時」を聞いているのです。「まったくなっていないように感じます」ということはChokorinさんの感想ですが、「結論」というのはChokorinさんが一人で考えたことで、これまで私が説明した文章を受けてのことだということですか。それならば「それに対してまったく別の話題を持ち出して」というのは、時系列的にそれより後にならなければなりません。話が矛盾しすぎです。
2. Chokorinさんは「歴史学の取次」という形で扱った論文も皆無なのに「取次 (歴史学)」を立項しましたね。さらに過去に「取次 (中央政権)」などを提案されています。括弧内は区別を付けるための便宜的なものだというのはわかっているはずです。それに、歴史学というのは大カテゴリであり、その下に西洋史学、東洋史学、日本史学、文献学、法制史学、文化史学など複数のカテゴリを含みます。「武家政権」というのも同様に江戸幕府、室町幕府、織田政権などの上位カテゴリのひとつです。
3. 受け流してくださいもなにも、「私が立てましょうか」で私がどうぞと答えた場合、どうするつもりだったのですか。無責任な言動にもほどがあります。コメント依頼は異論排除ではなく、 Chokorinさんの対話姿勢に問題があるから立てているのです。コメント依頼の内容を読み直してください。--模様砂漠2 2011年7月22日 (金) 14:17 (UTC)
1.について。『「取次 (豊臣政権)」という記事および記事名それ自体に改名を必要とする何らかの問題点があるのかということ』に関して、模様砂漠2さんの側からはまったく問題点が出てきていないということについてはお認めになるんでしょうか。
2.について。そう思うのなら「取次 (武家政権)」を立てればよいのではないでしょうか。改名には反対ですが、新規立項する分には反対しません。
3.について。わたしの対話姿勢に問題があると主張している人はどなたもおられないようです。あなたが「どうぞ」とおっしゃったらもちろん立てますが、おっしゃらなくても立てることは可能なのではないでしょうか。新規立項に同意なさいますか。--Chokorin 2011年7月22日 (金) 21:36 (UTC)
1.「結論を出した人物」と「結論が出た日時」を教えてください。
1.5. 改名を必要とする問題点は私は議論の最初からあげていますし、2011年4月17日 (日) 03:32 (UTC)にも再度列挙しましたし、この節の冒頭にも書いてあります。Chokorinさんが納得していないのと、私があると感じているのはまた別のことです。
2. そうではなく、「取次 (歴史学)」においては「歴史学における取次」の出典がなくても、歴史学分野における諸研究があれば立項が許され、「取次 (武家政権)」においては「武家政権における取次」の統一された出典がないと特筆性がないという議論の整合性です。Chokorinさんは私が出した出典を読まなきゃならない理由はないとおっしゃっておられるので、出典にふれないことが続いていましたが次項で出典の整理を行います。
3. 自分が特筆性がないと言っている記事を自分が立てる、さらに定義についても興味がないと言っている方が項目を立項するのは相互矛盾にもほどがあります。それと「新規立項に同意なさいますか。」というのは、「受け流してください」が嘘だったということですか。私が言っているのはそのような前後矛盾するような言動です。コメント依頼もまだ始まったばかりですので。--模様砂漠2 2011年7月23日 (土) 00:50 (UTC)

出典整理

取次の定義
  • 山本博文説 - 豊臣政権の大名統制機構としての取次の提唱者(山本(2009)、208p)。
    • 評価 - 「豊臣政権研究にとって不可欠の考察内容」「当該期の政治史研究に斬新な視点を導入した点で高く評価するべき」(津野倫明、山本(2009)、208-290p)。
    • 評価 - 「豊臣政権から幕藩体制形成期にかけての政治史研究上の大きな成果」(千葉一大、千葉(2000)、1p)。
  • 田中誠二説 - 取次は制度ではなく慣習であると山本説を批判(山本(2009)、208p)。
    • 評価 - 「痛烈に山本説を批判」(津野倫明、山本(2009)、208-290p)。
    • 評価 - 「その(山本説の)成果の上に立脚して、研究を深化させ」「魅力的な研究」(千葉一大、千葉(2000)、1p)。
    • 評価 - 「痛烈な批判だとは思っていなかったので、そのままにしていた」(山本博文、山本(2009)、209p)。
  • 千葉一大による研究全体の外観 - 「近世における政権と諸大名の関係についての研究が盛んである。これらの研究に影響を与えているのが山本博文氏と田中誠二氏に代表される「取次」と「指南」についての研究である。」(千葉一大、千葉(2000)、1p)。
  • 定義はいまだ曖昧であるとする見解
    • 「「取次」概念があいまい」(山本博文、山本(2009)、226p)。
    • 「いまだその定義にすら検討の余地が残されており」「少なからぬ混乱が生じている」(津野倫明、山本(2009)、208-209p)。
時代横断的研究
  • 千葉一大「「取次」・「後見」・「御頼」・「懇意」 : 盛岡南部家の事例から」千葉(2000))- 豊臣政権期、徳川家綱期から江戸時代中期までの解説。豊臣時代と江戸時代の取次について。「取次そのものを扱う個別論文」のひとつ(鍋本(2003)、41p)
  • 「取次そのものを扱う個別論文は複数あり、一つ一つあげることは避ける」(鍋本(2003)、41p)
  • 山本英二(信州大学)のブログの記述 -「取次というのは、幕府と大名の間の連絡・調整役を務めた旗本のことで、これまで戦国~江戸初期の取次しか注目されていなかったのですが、安藤さんは近世を通じて取次の変遷を、信濃国松本藩主戸田家文書により制度史的に解明した力作です。」[12] (安藤真奈美卒業論文「近世における取次について―御先手を中心に―」に対する言及)
室町時代
  • 桜井英治「室町人の精神 日本の歴史12」による室町幕府の取次研究(桜井(2009)
  • 「取次の研究は、室町幕府についても蓄積がなされており、「幕閣」や将軍側近が各地の守護と将軍を結ぶ役割を果たしていたことが明らかにされている」 (丸島和洋、丸島(2008)、222p)
戦国時代
  • 「豊臣期「取次」論において、「取次」の前身として措定されたのが大名間外交の取次者」(丸島和洋、丸島(2008)、221p)
  • 「取次者は史料上「奏者」「取次」と記載され、研究史上は「奏者」と呼ばれることが多い」(丸島和洋、丸島(2008)、221p)
  • 「豊臣政権の「取次」「指南」については、戦国大名における取次のあり方をふまえて、改めて検討を行っていく必要があると思われる」(丸島和洋、丸島(2008)、239-240p)
  • 豊臣政権期の取次との違い
    • 「豊臣政権における「取次」との混同を避ける(避ける必要がある)」(丸島和洋、丸島(2008)、221p)
    • 「孝高らが行った「取次」の任務とは、戦国時代以来行われた武将による外交交渉のことで、私が豊臣政権の大名統制機構として提示した政権の中枢メンバーとしての「取次」の任務とは違います。」(山本(2009)、214p)
    • 「戦国期研究と豊臣期研究では、学術用語としての「取次」「指南」の指す内容が事実上逆転している点に注意が必要である。」(丸島和洋、丸島(2008)、240p)
織田政権期
  • 東国の「取次」を任命される滝川一益(高橋博、高橋(1992)、26p)
  • 佐々成政の越後上杉氏執次(高橋博、高橋(1992)、30p)
織田-豊臣移行期
  • 佐々成政は越後上杉氏に対する執次を「上様御時(信長時代)」と同様としているなど、羽柴秀吉の「取次」体制構築は「上様在世之御時」と同じ体制であると主張されていた(高橋博、高橋(1992)、30p)
  • 「「執次」のありかたは織田政権下の慣例をひきついでいたにすぎなかった」(高橋博、高橋(1992)、30p)
  • 徳川家康は、関東の和睦を織田信雄・信孝に頼まれ「御在世」のごとく「関東惣無事」を実現することを主張(高橋博、高橋(1992)、29p)。家康が関東諸将に「御威光」があり、秀吉は家康を「取次」とすることでその「御威光」を利用(高橋博、高橋(1992)、31p)
豊臣政権期
  • 存在を否定する意見はないため省略
豊臣-徳川移行期
  • 庄内の乱以降、家康側近山口直友が島津家との取次となる。幕府成立後の琉球出兵時にも取次であったという趣旨の記述[13](桐野作人は作家な為参考程度)。
  • 榊原康政が上杉景勝の表向の取次(直江状、山本(2009)、254p)
  • 豊臣政権期から江戸時代初期にかけての取次を題材とする複数の論文の存在。(鍋本(2003)、41p)
江戸時代
  • 「豊臣政権下から見られる「取次」や「指南」の慣習は、江戸時代に入っても当初は「取次の老中」や「懇意の旗本」たちによって継続されていた」(千葉一大、千葉(2000)、14p)
  • 「これら(山本説と田中説、内証のルートを調べた高木昭作の研究)の研究やさらにそれらに立脚して行われた研究は、主として西国大名の事例に基づく研究が多い」(千葉一大、千葉(2000)、1p) - 近世初期の取次研究存在への言及
  • 「聞次」- 田中誠二研究にある表現
  • 「取次の老中」- 大名が幕府と連絡を取る際にルートとなり、「指南をあおぐ」年寄。(山本(2003)、42p)
    • 「(土井利勝が)萩藩の「取次」を辞退したとき」(山本(2003)42p)、「数年の間御取次を頼み奉り…」(毛利秀就書状、山本(2003)43p)
  • 「御頼の老中」-盛岡藩の史料にある表現。指示を受ける点では「取次の老中」と同一の立場。ただし案件披露など一部の同一性は確認できない(千葉一大、千葉(2000)、5-6p)
  • 「心安き旗本衆」(懇意の旗本)-「取次」的役割を担った旗本(山本博文、千葉(2000)、3p)


出典

文献の書誌事項補填

記事の参考文献及び関連文献の書誌事項の補填および脚注における参照方式の変更を行ないました(差分)。大幅な編集であるため、報告をしておきます。なお、慎重を期して作業するため、多くの版を重ねたことをお断りしておきます。

いずれも、文献の多くは雑誌論文でしたが、著者名・論文名・刊行年こそあるものの、掲載誌名が明らかではなく、読者が文献の所在を特定するのを困難にするような仕方であり不適切です。今日でこそCiNiiがありますから、雑誌論文であれば検索もいくらかは出来るでしょう。

しかし、研究ノート扱いのものや古い巻号に掲載されたものなど、CiNiiのデータベースから漏れたものも散見されました(斎藤司「豊臣期関東における増田長盛の動向」)し、国重顕子氏の「秀吉の統一過程における小西行長」のように合集(共著)内の個別の論文はCiNiiでさえ探索しようがありません。 田中誠二氏の「藩から見た近世初期の幕藩関係」は学会報告を後に論文にまとめたようで、CiNiiでは2件がヒットします(検索結果)。刊行年にもとづいて学会発表の方と判断して書誌事項を付与しましたが、このような場合、発表での結果を踏まえて論文では内容が変わっている場合もありえます。その様な場合を考慮するなら、なおのこと書誌事項は厳密につけておくべきです(jaWP記事の内容も変わる可能性がある)。

また、スタイルや構成上の面でも、参考文献と関連文献の使い分けが(それほど昔にさかのぼる訳ではないにせよ)定着している仕方とは相違(全く逆)しており、統一したスタイル・構成の維持の点で好ましくありません。参考文献・関連文献の使い分けの議論がどこでいつ行なわれたか厳密には思い出せませんが、すくなくとも初版(2010-05-05 11:43:31 (UTC))以後ではないように記憶しています。仮に初版より後のことだとしても、私の編集までの間、模様砂漠2さんの編集まで全く何の修正も施されてこなかったことになります。

コメント依頼中とのことでそちらで書くべきことかもしれませんが、山本氏が80年代前半に書いた論文以来とのことですし、研究されだしてからあまり時間のたっておらず、定説といいうるラインが必ずしも明確でないような題材と考えるべきでしょう。そうした題材に関する記事を書くのであれば、通常記事を書く際にも増して厳密に検証可能にしておく(=出典をたどれるようにしておく)必要があります。そうしなければ、学説や学会の議論の動向に即した適切な内容の記事へ修正するための、ポインタが失われてしまうからです。

以上、若干の批判を含めて報告とします。--ikedat76 2011年1月13日 (木) 17:16 (UTC)差分変更--ikedat76 2011年1月13日 (木) 17:20 (UTC)

整形と報告、ありがとうございました。私の方でも今後は出典に掲載元情報も加えて行きたいと思います。また、当初状態でも検証可能性が検証可能であったことにも一安心しました。 スタイルのトレンドについては疎く、新規の場合はその辺の記事に倣うことが多く、主流のようなものがあるならばそちらを見習いたいと思っていました。本件、ご紹介いただければと思います。 なお、 田中誠二氏の研究については、先行する『日本史研究356号』1992.04の方が主たる研究内容であり殆どの場合の引用はこちらです。後発の『吉備地方文化研究18号』2008は前者を元にした講演の配布論旨で簡略なものです。--Yasumi 2011年1月23日 (日) 04:26 (UTC)

修正前の状態が検証可能(「検証可能性が検証可能であったことにも一安心」)であるとは考えません。出典となる文献を入手するための情報(書誌事項)が大きく欠損しているからです。

文献の書誌事項として最低限記載すべき項目記載のスタイル(どういう順番でどの項目を並べるか)を区別してください。どのような分野であれ前者はさして変わりません(後者は大分違います)。スタイルが多少変でも前者の情報が完備していれば、文献を入手できます。しかし、修正前の状態では明らかに前者が欠損していました。

これだけの分量の論文や著作を読んでいるのであれば、スタイルについても学ぶところがあるはずです。どうしても、スタイルを迷うのであれば{{Cite book}}、{{Cite journal}}のようなテンプレートを利用すれば、書誌事項を漏れなく挙げることができます。いずれにせよ、執筆者としての義務(検証可能な出典の明記)を怠ったことの言い訳にはなりません。

もし査読誌にあのような状態で投稿されたら、内容以前の問題として間違いなく却下されるか根本的な修正を要求されます。また、前回の発言の第3段落で名前を挙げた文献については、CiNiiがあっても何とかならないと指摘したはずですが、その指摘はどこへ言ったのでしょうか。

指摘の核心がまったく受け止められていないことを残念に思います。--ikedat76 2011年1月23日 (日) 04:53 (UTC)

なぜか核心でない点が大きく取り上げられており意外なのですが、多くは申しません。コメントの核心は「今後は出典に掲載元情報も加えて行きたい」と言う結論であって、何らIkedat76さんのご主張から外れたものではないと思いますが?当方、好意的に解釈しておりますが、特に他意はないものと存じます。--Yasumi 2011年1月23日 (日) 05:20 (UTC)
「当初状態でも検証可能性が検証可能であった」という理解の仕方を問題にしています。--ikedat76 2011年1月23日 (日) 05:27 (UTC)
  1. ^ 山本(2009:208)