ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト Nicolas-Jean de Dieu Soult | |
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第12代フランス首相 | |
任期 1832年10月11日 – 1834年7月18日 | |
君主 | ルイ=フィリップ1世 |
前任者 | カジミール・ピエール・ペリエ |
後任者 | エティエンヌ・モーリス・ジェラール |
第19代フランス首相 | |
任期 1839年5月12日 – 1840年3月1日 | |
君主 | ルイ=フィリップ1世 |
前任者 | ルイ=マティウ・モレ |
後任者 | アドルフ・ティエール |
第21代フランス首相 | |
任期 1840年10月29日 – 1847年9月19日 | |
君主 | ルイ=フィリップ1世 |
前任者 | アドルフ・ティエール |
後任者 | フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー |
個人情報 | |
生誕 | 1769年3月29日 フランス王国、サンタマン=ラ=バスティッド |
死没 | 1851年11月26日(82歳没) フランス共和国、サンタマン=ラ=バスティッド |
配偶者 | ヨハンナ・ルイーゼ・エリーザベト・ベルク |
署名 |
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(Nicolas-Jean de Dieu Soult, 1769年3月29日 - 1851年11月26日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人、元帥。史上6人[1]しかいないフランス大元帥の1人。後には政治家となった。姓はスルトとも表記される。ダルマティア公爵。
生涯
フランス軍人として
貧しい公証人の長男として南仏サンタマン=ラ=バスティッド(死地も同地で、1851年の死後サンタマン=スールトに改名)で生まれたニコラ=ジャン・スールトは、幼くして父を失ったため、16歳で王国軍に入隊した。兵士になることはこの頃最も手軽な就職法であったらしく、彼の弟も3年後に軍に入っている。スールトは優秀な兵士であったため、すぐに軍曹(平民出身者の階級としてはかなり高い)となったが、軍隊生活に飽きたため2年で退役、貯めた金を元手に故郷でパン屋を始める。しかし収入が安定せず、すぐに軍に戻った。革命が始まるとこれを支持し、王国陸軍の優秀な下士官だった彼はすぐに将校に昇進(このあたりの経歴は他の将軍達と似ている)、5年後には将官になっている。
ナポレオンの麾下に
1798年にはイタリアで師団長を務めているが、この時の上官はマッセナ、同僚にはネイら、後にナポレオンの帝政下で共に元帥となる面々が顔を揃えていた。スールトは、ナポレオンがイタリア方面軍司令官となる直前にオーストリア軍と戦って負傷、捕虜になったため、ナポレオンと初めて出会ったのはマレンゴの戦いの後となっている。しかし優秀な指揮官としてナポレオンにも気に入られ、1803年には軍団長に昇進した。この時期に彼が施した厳しい訓練振りは、部下のみならず同僚やナポレオンまで恐れさせるほどだったが、彼のもとで鍛えられた将兵は後のフランス軍で中心的な役割を果たすこととなり、スールトが優秀な教官だったことを証明した。
元帥時代
翌年には元帥に昇進、1805年のアウステルリッツの戦いでは勝利を決定付ける類い希な働きを見せ、ナポレオンをして「ヨーロッパで最も優れた戦術家」と言わしめ、この時彼が率いた第4軍団は「スールトの擲弾兵」として賞賛された。1808年にはナポレオンが新設した「ダルマティア公爵」位に叙されている。ドイツ戦役、オーストリア戦役でも常に抜群の働きを見せたが、スペイン戦役(半島戦争)では余りに酷い略奪振りやいがみ合う同僚の取りまとめの失敗(というよりまとめる気が最初から無かったというべきか)で統率者としての能力に欠ける点を露呈してしまう。また、一時期スペイン王位への妄想じみた野心まで抱いており、一時は反逆罪で軍法会議に掛けられかけたという。この後スペイン方面を中心に活動する傍ら、主戦場となったドイツ方面でも戦っており、戦場では優れた働きを見せるものの戦略的には劣勢に追い込まれ、1814年にナポレオンが退位した時にはフランス国内のトゥールーズでイギリス軍に包囲されていた。
変節か栄光か
復古王政後は陸軍大臣を務めたが、ナポレオンがエルバ島から脱出するとその麾下に戻り、参謀総長に就任する。しかし優秀な前線指揮官ではあっても緻密なスタッフワークが苦手な彼にこの任を果たせる訳もなく、ワーテルローの戦いではグルーシー元帥との連携に失敗するなどの失策を重ね(この時、彼がグルーシーに向け出した伝令は1人だけだった。ナポレオンは後に、かつての参謀総長ベルティエ元帥なら1ダースの伝令を出したろう[2]、と悔やんでいる[3])敗北する。
百日天下後は妻の実家のあるドイツで亡命生活を送ったが、1820年にルイ18世により赦免され元帥階級も回復、王党派を自任した。1830年の七月革命ではオルレアン家を支持し、王位に就いたルイ=フィリップに重用され七月王政初期に陸軍大臣に就任。国王から公共秩序を維持するための軍の再建に関する改革案をまとめるよう要請された。この改革は、フランス陸軍の戦力を復古王政期より2倍に増強させ、職業軍人に対する処遇や年金保障、海外領土で採用できる外国人軍団の創設などによって具体化された。外国人の軍隊採用はフランス外人部隊の誕生に帰結し、スールトは外人部隊の創業者として知られている。1832年には首相に登り詰め、1847年まで3回にわたって在任する。1838年にはイギリスのヴィクトリア女王の戴冠式に特派使節として派遣。昔の敵手だったウェリントン公爵と再会した。
1839年に2度目の内閣を組織したが、国王の次男ヌムール公爵の結婚式に際して持参金を供与しようとする法案が議会で否決すると、9カ月ぶりに退陣してしまった。後任首相であるアドルフ・ティエールがエジプト問題をめぐる外交政策の失敗で更迭された1840年10月に再び首相と陸軍相を兼ねており、同年12月には生存していた帝国元帥のグルーシー、ウディノ、モンセーと共にナポレオンのパリ改葬に立ち会っている。3度目の首相在任時は中道右派傾向の保守主義者らが閣僚職を占める中で政局は安定し、七月王政期を通じて最も長い間続いた内閣となったが、スールト自身は国政の実質的な運営を外務大臣フランソワ・ギゾーに一任した。1847年9月、首相退任と同時にフランス大元帥[4]の称号を与えられる。二月革命が勃発してからは共和主義者であることを言明し、相変わらず時流に迎合する動きを見せた。こうして栄光と栄誉に包まれたまま、82年の生涯を終えた。
人物像
ナポレオン麾下でも指折りの優秀な将軍であり、特に機動戦に優れた野戦指揮官だった。しかし戦略的視野には欠け、また組織を管理統率する手腕にも問題があった。冷静沈着だが冷酷なまでに非情な人物でもあり、大変な俗物で地位、名声、金銭など非常に貪欲だった。スペイン戦線での略奪、虐殺は後々まで語りぐさとなっており、ウェリントンも「スールトはマッセナ以下である」と断じている。ちなみにヴィクトリア女王の戴冠式にスールトが特派使節として参列するためロンドンを訪問した際、ウェリントンは彼に気づいてスールトに近づき、腕をひったくって「ついに捕まえた!」と冗談を言ったという。
同僚たちとの折り合いも良くなく、特にジャン・ランヌとはアウステルリッツの戦い時に自身の不用意な発言から諍いを起こし、危うく生死を賭けた決闘になりかかった。元々良くなかった仲は、これ以降ますます険悪になったという。
しかしながら結局ナポレオンの麾下で最も功成り名を遂げたのは、スウェーデン王(カール14世ヨハン)となったベルナドットを除けば彼である。
脚注
- ^ 最初の1人(シャルル・ド・ゴントー)は後に取り消され、2番目(フランソワ・ド・ボンヌ・ド・レディギエール)も大きな軍事的功績がないため、栄光あるフランス大元帥という意味では通例4人だけが言及される。残り3人は三十年戦争時代のテュレンヌ、スペイン継承戦争時代のヴィラール、オーストリア継承戦争時代のサックス
- ^ 伝令は常に危険を伴う仕事(途上での落馬骨折、ゲリラの襲撃等は日常茶飯事)である。そのため、ベルティエは一度になるべく多くの伝令を出していた。
- ^ スールトがグルーシィに向け送り出した伝令は途上で落馬骨折していた。そのため命令が届かず、戸惑ったグルーシィは独断で先日の命令通りに軍隊を動かした。これがワーテルローの戦いの敗因となる。
- ^ (Maréchal général des camps et armées du roi)
関連項目
公職 | ||
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先代 ピエール・デュポン |
陸軍大臣 1814年 – 1815年 |
次代 アンリ=ジャック=ギヨーム・クラルク |
先代 エティエンヌ・モーリス・ジェラール |
陸軍大臣 1830年 – 1834年 |
次代 エティエンヌ・モーリス・ジェラール |
先代 カジミール・ピエール・ペリエ |
閣僚評議会議長(首相) 1832年 – 1834年 |
次代 エティエンヌ・モーリス・ジェラール |
先代 ルイ=マティウ・モレ |
閣僚評議会議長(首相) 1839年 – 1840年 |
次代 アドルフ・ティエール |
先代 ルイ・ナポレオン・オーギュスト・ランヌ |
外務大臣 1839年 – 1840年 |
次代 アドルフ・ティエール |
先代 アドルフ・ティエール |
閣僚評議会議長(首相) 1840年 – 1847年 |
次代 フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー |
先代 アメデ・デパン=キュビエール |
陸軍大臣 1840年 – 1845年 |
次代 アレクサンドル・モリーヌ・ド・サン=ヨン |