ドロシー・サヴィル (バーリントン伯爵夫人)
Lady Dorothy Savile Countess of Burlington | |
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マイケル・ダール作, Lady Dorothy Savile, Countess of Burlington and Countess of Cork 油彩画, 1720年, ハードウィック・ホール, ナショナル・トラスト.[注釈 1] | |
生誕 | 1699年9月13日 |
死没 |
1758年9月21日 (59歳没) チジック・ハウス |
住居 |
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国籍 | グレートブリテン王国 |
別名 | ドロシー・ボイル |
教育 | |
著名な実績 | 肖像画 |
配偶者 |
第3代バーリントン伯爵 リチャード・ボイル |
子供 |
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親 |
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バーリントン伯爵夫人ドロシー・サヴィル(Dorothy Savile, Countess of Burlington, 1699年9月13日 - 1758年9月21日)[2]:116は、18世紀イギリスの貴族、風刺画家、肖像画家である。第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイルの妻であった。彼女の作品のうちいくつかは娘たちのために描かれ、チャッツワース・ハウス(キャヴェンディッシュ家の邸宅)には彼女の娘シャーロットを通じて承継された芸術作品24点が所蔵されている。
夫と同様ドロシーは芸術に大いに関心を持っており、デビット・ガリック(David Garrick, 1717年 - 1779年、イギリスの舞台俳優、劇作家)(英語版) やゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのパトロンだった。またイギリス国王ジョージ2世の王妃キャロライン・オブ・アーンズバックの女官(Lady of the Bedchamber)でもあった。ボイルのバーリントン・ハウス・エステートの一角に建てられたサヴィル・ロウはドロシーの名にちなんで命名された。
家族
[編集]幼少期
[編集]1699年に第2代ハリファックス侯爵ウィリアム・サヴィル[1]と2番目の妻メアリー・フィンチの娘として生まれた。母方の祖父は第2代ノッティンガム伯爵(後に第7代ウィンチルシー伯爵)ダニエル・フィンチだった[2]:116:130。ドロシーは父の不動産の共同相続人であった[2]:116。
ドロシーの2人の兄弟は若くして亡くなった。また姉妹のメアリーがおり、彼女は第7代サネット伯爵サックヴィル・タフトン(Sackville Tufton, 7th Earl of Thanet, 1688年 - 1753年)(英語版)と結婚した。異母姉妹にアンがおり、アンは父の最初の妻で第3代準男爵サミュエル・グリムストン(Samuel Grimston, 3rd Baronet)(英語版)の娘エリザベス・グリムストンとの間の子供で、第3代アイリスバリー伯爵チャールズ・ブルース(Charles Bruce, 3rd Earl of Ailesbury)(英語版)と結婚した[3]:468。
結婚と子ども
[編集]ドロシーは1721年3月21日にバーリントン伯爵リチャード・ボイルと結婚した。その際、莫大な持参金と共に、演劇や音楽に対する共通の関心も持ってきた[4]。ドロシーはオペラ、音楽、演劇を楽しみ[5]、デビット・ガリック(英語版)やヘンデルの芸術のパトロンだった[6]。彼女が好きな作家はジョン・ゲイだった[5]。
結婚してまもなく、ボイルはチジック・ハウスとその周辺の改築を始めた[4]。2人はまたイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのロンデスボロー・ホール(Londesborough Hall)(英語版)やロンドンのバーリントン・ハウスで暮らした[6]。
夫妻にはドロシー(Dorothy, 1724年 - 1742年)、ジュリアンナ(Julianna, 1727年 - 1730年)、シャーロット(Charlotte, 1731年 - 1754年)の3人の娘がいた[3]:77[6]。ジャン=バティスト・ヴァン・ローは1739年にドロシーとボイル、娘のドロシー、シャーロットの家族の肖像画を描いており、それは現在リズモア城(Lismore Castle)(英語版)のデヴォンシャーコレクションに所蔵されている[6]。
1741年、娘のドロシーはイーストン伯爵ジョージ・フィッツロイ(George FitzRoy, Earl of Euston, 1715年 - 1747年)(英語版) と結婚したが、彼は残忍な性格で、幸せな結婚生活ではなかった。ドロシーは翌1742年の18歳の誕生日の直前に天然痘で亡くなった[5][3]:77。亡くなった後、母のドロシーは彼女は「過激な悲惨さ」(extremest misery)から解放されたと語った[8]。シャーロットは1748年3月28日にウィリアム・キャヴェンディッシュ(後の第4代デヴォンシャー公爵)と結婚した[2]:130。シャーロットは4人の子供をもうけ [注釈 3] 、1754年に亡くなった[6]。4人の子供たちはチャッツワース・ハウス(キャヴェンディッシュ家の邸宅) にあったドロシーの芸術作品や書簡等を承継した。
ボイルは1753年12月3日に、ドロシーは1758年9月21日に、同じチジック・ハウスで亡くなった[2]:116[6]。
系譜
[編集]ドロシー・サヴィル (バーリントン伯爵夫人)の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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芸術家
[編集]ドロシーはパステルによる肖像画の描き方をウィリアム・ケント (William Kent、1685年-1748年、イギリスの造園家、建築家、画家) から学び、その才能を伸ばすために優れた肖像画を複写した[10]。ケントはドロシー、ボイルと30年間一緒に住んでおり、ローマで絵画を学び画家であったと同時に、デザイナー、造園家であった。ケントとドロシーはお互いに肖像画を描いており、ジョージ・ヴァーチュー (George Vertue、1684年-1756年、イギリスの版画家、古物収集家) (英語版) は、ドロシーが描いたケントの肖像画について「エイクマン (William Aikman、1682年-1731年、スコットランドの画家) (英語版) が描いたものよりかなり好きだ。」と言った[6]。1720年代半ばにはジョセフ・グーピー (Joseph Goupy、1689–1769、フランスの版画家、水彩画家) (英語版) に学んだ[10]。その間彼女はパステル画から油彩画に進んだ。ニール・ジェファーズと大英博物館によると、彼女は「肖像画の王」チャールズ・ジャーバス (Charles Jervas、1675年-1739年、アイルランドの画家) (英語版) に師事したのかもしれないと言う[6][10]。
ドロシーは才能のある風刺画家であり、上手く、そして早い肖像画家であった[10]。ホレス・ウォルポール (Horace Walpole, 4th Earl of Orford、1717年-1797年、イギリスの貴族、小説家) はドロシーについて、「彼女はクレヨンで肖像画を描いて、見事に似せることに成功した。しかし彼女の描画はあまりにも早かった。彼女はカリカチュア (戯画) に類まれなる才能を持っていた。」と言った[6]。
ドロシーは娘ドロシーの死の7週間後に記憶を頼りに肖像画を描いた。チャッツワース・ハウスと新しく建てられたチジック・ハウスに飾られた24の絵画作品は、ドロシーにより描かれた。セルウィン夫人 (Mrs. Selwyn)、イサベラ・フィンチ夫人 (Lady Isabella Finch)、フィッツウォルター夫人 (Lady Fitzwalter) は現在チャッツワースコレクションに含まれるドロシーのパステル画のうち8作品を受け取っていた[10]。コレクションの中の作品には、3点の油彩画、彼女の娘たちのパステル画、アメリア王女 (Princess Amelia、1711年-1786年) (英語版) の油彩画がある[6]。彼女のスケッチ「Woman at Harpsichord, with a Dog and a Cat」(ハープシコードを弾く婦人と犬と猫) は婦人が彼女自身の喜びのために曲を演奏している様子を的確に描写している[11]。
ドロシーは友人であるアレキサンダー・ポープ (Alexander Pope、1688年-1744年、イギリスの詩人)[注釈 4]の洞窟で彼のスケッチを描き、カリカチュア (戯画) を描いて楽しんだ。彼は「On the Countess of B—— cutting paper」と題したドロシーについての詩を5編書いた[5]。
サヴィル・ロウ
[編集]ボイルは居宅のための新しい通りの計画を策定した。1733年3月12日付のデイリーポスト (Daily Post) はロンドン、メイフェアのサヴィルストリートに新しい建物が建てられようとしていることを報じた[12]。バーリントン・エステート (Burlington Estate、ロンドン、ピカデリーにあるバーリントン・ハウス周辺のエリア) (英語版) の開発計画はドロシー・サヴィル夫人の名前に因んで命名された[13][14]。
1735年、サヴィル・ロウが建てられた。18世紀後半まで高品質のテーラーショップの中心であった[13]。
注釈
[編集]- ^ ドロシーの肖像画はジェームス・ワースデール (英語版) が多く描いている。「ジェームス・ワースデールによるドロシー夫人肖像画」 参照。[1]
- ^ ドロシーの作品Lady Dorothy Boyle (1724–1742), Countess of Euston, and Her Sister Lady Charlotte Boyle (1731–1754), Later Marchioness of Hartington は現在ハードウィックホール (Hardwick Hall) (英語版)、ナショナル・トラスト コレクションに所蔵されている[7]。
- ^ 4人の子供は下記の通りである[9]。
- ウィリアム・キャヴェンディッシュ、第5代デヴォンシャー伯爵
(William Cavendish, 5th Duke of Devonshire、1748年-1811年) - ドロシー・ベンティンク、ポートランド公爵夫人
(Dorothy Bentinck, Duchess of Portland、1750年-1794年) (英語版) - リチャード・キャヴェンディッシュ卿
(Lord Richard Cavendish、1752年-1781年) (英語版) - ジョージ・キャヴェンディッシュ、初代バーリントン伯爵
(George Cavendish, 1st Earl of Burlington、1754年-1834年) (英語版)
- ウィリアム・キャヴェンディッシュ、第5代デヴォンシャー伯爵
- ^ 時には彼女はポープの書記役のようであった。彼女の手書きによる「Master Key to Popery」の下書きは、彼女の末娘シャーロットが前に住んでいたチャッツワース・ハウスにある[5]。
脚注
[編集]- ^ a b "Lady Dorothy Savile, Countess of Burlington and Countess of Cork (1699-1758)". National Trust Collections. 2015年12月29日閲覧
- ^ a b c d e Journal of the Derbyshire Archaeological and Natural History Society. The Society. 1901.2015年12月29日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o John Burke (1831).A General and Heraldic Dictionary of the Peerage of England, Ireland and Scotland. Henry Colburn and Richard Bentley. 2015年12月29日閲覧
- ^ a b John Harris (1 January 1994).The Palladian Revival: Lord Burlington, His Villa and Garden at Chiswick. Yale University Press. ISBN 978-0-300-05983-0. p.70
- ^ a b c d e Pat Rogers (2004).The Alexander Pope Encyclopedia. Greenwood Publishing Group. p. 48. ISBN 978-0-313-32426-0.2015年12月29日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j "Dorothy Boyle, Countess of Burlington". Collections Database. British Museum.2015年12月29日閲覧
- ^ "Dorothy Savile (1699–1758)". Your Paintings. BBC. 2015年12月29日閲覧
- ^ R. Sedgwick, ed. (1970). "FitzRoy, George, Lord Euston (1715-47)".The History of Parliament: the House of Commons 1715-1754 2016年1月7日閲覧
- ^ Lundy, Darryl."William Cavendish, 4th Duke of Devonshire" . thepeerage.com. 2016年1月6日閲覧
- ^ a b c d e Neil Jeffares (2006).Dictionary of pastellists before 1800 (PDF). London: Unicorn Press. OCLC 607845199 – via Pastellists.com. 2015年12月29日閲覧
- ^ Richard Leppert (1 November 1993).The Sight of Sound: Music, Representation, and the History of the Body. University of California Press. p. 78. ISBN 978-0-520-91717-0.2015年12月29日閲覧
- ^ Richard Anderson (29 October 2009)."The Sunny Side of the Street". Bespoke: Savile Row Ripped and Smoothed. Simon and Schuster. ISBN 978-1-84737-876-7.2015年12月29日閲覧
- ^ a b Eugenia Bell (2007).The Traditional Shops and Restaurants of London: A Guide to Century-old Establishments and New Classics. Little Bookroom. p. 82. ISBN 978-1-892145-46-8.
- ^ Charles Lethbridge Kingsford (1925).The Early History of Piccadilly, Leicester Square, Soho, & Their Neighbourhood. p. 128.2015年12月29日閲覧
参考文献
[編集]- Susan Jenkins (1998). "Lady Burlington in Court". Lord Burlington: The Man and His Politics. Edwin Mellen Press. ISBN 978-0-7734-8367-5.
- Mark De Novellis (1999). Pallas Unveil'd: The Life and Art of Lady Dorothy Savile, Countess of Burlington (1699-1758). Twickenham: Orleans House Gallery. ISBN 978-1-902643-02-1. OCLC 55521393.