ジョージ・ベローズ
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ジョージ・ベローズ George Bellows | |
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生誕 |
1882年8月12日 アメリカ合衆国,コロンバス |
死没 |
1925年1月8日 アメリカ合衆国,ニューヨーク |
運動・動向 | アシュカン派 |
ジョージ・ウェスリー・ベローズ(George Wesley Bellows、1882年8月12日 - 1925年1月8日)はアメリカ合衆国の画家である。都会の下町や労働者階級の人々の生活を写実的に描く「アシュカン派」の画家の一人である。
略歴
[編集]オハイオ州、コロンバスの建築家、建築業者の息子に生まれた。1901年からオハイオ州立大学で英文学を学び、バスケットボールや野球の選手になった。アマチュア画家から絵を習い、大学の年鑑に自分の作品が載せられたのに自信を得て、卒業を待たず、画家になるために1904年にニューヨークに出た。ニューヨークではニューヨーク美術学校(後のパーソンズ美術大学)でウィリアム・メリット・チェイスに学び、美術学校で教えていたロバート・ヘンライ(1865-1929)と知り合い、ヘンライはベローズの生涯に渡る教師で友人となった。ヘンラインとは後にメイン州のモンヒガン島(Monhegan)で共に海岸風景を描いている[1]。ヘンライは1908年に、保守的なナショナル・アカデミー・オブ・デザインの展覧会に対抗し、モーリス・プレンダーガストらと「8人展(The Eight)」を開き、「アシュカン派」と呼ばれる美術家グループの先駆者となるが、ベローズも「アシュカン派」の代表的画家となった。風景画やスポーツなどを題材にした他、1910年に美術学校の学生と結婚して2人の娘ができた後は、家族を題材にした人物画も描いた[2]。
1913年にアメリカにヨーロッパの新しい美術を紹介した、アーモリーショーの開催に協力し、出展もした。1916年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの会員に選ばれた。1911年からアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで教えた。
作品
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「ミス・ベンサム」(1906)
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「Blue Morning」(1909)
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「Cliff Dwellers」(1913)
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「River Front No. 1」(1915)
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「娘の肖像」(1915)
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「Breaking Sky Monhegan」(1916)
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「ドイツ軍の襲来」(1918)
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「オームとヌード」(1918)
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「ジャック・デンプシーとフィルポ」(1924)
脚注
[編集]- ^ David Bernard Dearinger: Paintings and Sculpture in the Collection of the National Academy of Design, Vol. 1, Hudson Hills, 2004 ISBN 978-1-55595-029-3.
- ^ Henry Adams: George Bellows Biography. Thomas French Fine Art / George Bellows Family Trust.
参考文献
[編集]- Claudia Meifert: Bellows, George Wesley. In: Allgemeines Künstlerlexikon (AKL). Die Bildenden Künstler aller Zeiten und Völker. Saur, München und Leipzig 1991ff., ISBN 3-598-22740-X.
- Stephan Koja: America. Die Neue Welt in Bildern des 19. Jahrhunderts. Prestel-Verlag 1999; S. 180–181 und S. 252–253. ISBN 3-7913-2051-3.
- Marianne Doezema: Bellows, George Wesley. American National Biography online.