ジャヤーヴァルマン8世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ジャヤーヴァルマン8世
ជ័យវរ្ម័នទី៨
クメール王朝君主
在位 1243年 - 1295年
別号 វ្រះបាទបរមេឝ្វរបទ(諡号)
パラメーシュヴァラパーダ

出生 不詳
死去 1295年
配偶者 チャクラヴァルティーラージャデーヴィー
子女 シュリンドラブッペーシュヴァラチューダ
王朝 アンコール朝
父親 インドラヴァルマン2世?
宗教 ヒンドゥー教シヴァ派
テンプレートを表示

ジャヤーヴァルマン8世クメール語: ជ័យវរ្ម័នទី៨, ラテン文字転写: Jayavarman VIII, 生年不詳 - 1295年[1])は、クメール王朝の第23代[2]君主(在位:1243年 - 1295年[3])。その治世は52年間におよび、歴代クメール王の中でも最長を記録している。

生涯[編集]

先代の王インドラヴァルマン2世の子ともされているが、実際の関係は不明確な部分があると言われる。ただ、王族であったことは間違いないと見られる。

シヴァ派ヒンドゥー教を篤く信奉しており、既存の仏教勢力と対立したと見られる。即位した後、先々代の王ジャヤーヴァルマン7世アンコール・ワット周辺に大量に建立したバンテアイ・クデイタ・プロームプリヤ・カーンといった仏教寺院から仏像を大量に撤去・破壊させて[4]ハリハラを祀った[5]ヒンドゥー寺院に改造し[2]ガルダナーガといったヒンドゥー教の神々の像や浮彫を数多く造成した[6]。この事実は2001年になって大量の廃仏が発見されたことから判明した。このことなどから、[要出典]ジャヤーヴァルマン8世の治世は従来の学説とは異なり衰退期ではなく[7]ジャヤーヴァルマン7世の寺院建立による財政難を克服した[要出典]それなりの繁栄期であったと考えられるようになった[7]

1283年[8]ソゲタイ中国語版配下のスレイマン率いる軍がアンコール・トムに侵攻[3]。1285年[8]と1292年に元に朝貢し、和を結んだ[3]

治世の晩年はスコータイ王朝との抗争で国土が荒廃した[1]。また、バンテアイ・サムレを拡張し、マンガラールタ英語版を新たに建立している[5]1295年、長女シュリンドラブッペーシュヴァラチューダクメール語版の夫[1]であった仏教徒のインドラヴァルマン3世英語版[9]によって暗殺された。

没後の1296年[1]に元の周達観らがインドラヴァルマン3世治下のクメールを訪問しており[2][10]、周達観はその時の見聞を『真臘風土記』として著した[11]

出典[編集]

  1. ^ a b c d Cœdès 1968, p. 211
  2. ^ a b c 迫田 2015, p. 84
  3. ^ a b c 石澤 2005, p. 192
  4. ^ Cœdès 1968, p. 212
  5. ^ a b 石澤 2005, p. 193
  6. ^ プリアカン デジタル大辞泉』 - コトバンク
  7. ^ a b 石澤 2005, p. 194
  8. ^ a b Cœdès 1968, p. 192
  9. ^ 石澤 2005, p. 198
  10. ^ 歴史”. DTACカンボジア観光情報局. 2018年12月21日閲覧。
  11. ^ コイ 2000, p. 62

参考資料[編集]

  • George Cœdès (May 1, 1968). Walter F. Vella. ed. The Indianized States of South-East Asia. Susan Brown Cowing. trans. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681. 
  • レイ・タン・コイドイツ語版『東南アジア史』石澤良昭訳、白水社文庫クセジュ〉、2000年4月30日、増補新版。ISBN 978-4560058268
  • 石澤良昭『アンコール・王たちの物語 碑文・発掘成果から読み解く』NHK出版NHKブックス〉、2005年7月30日。ISBN 978-4140910344
  • 迫田龍 「カンボジア文化講座」、大橋圭子編 『るるぶアンコールワット』 JTBパブリッシング、2015年9月30日。ISBN 978-4533106668 

外部リンク[編集]

先代:
インドラヴァルマン2世
クメール王朝君主
1243年 - 1295年
次代:
インドラヴァルマン3世英語版