シービスケット

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シービスケット
調教中のシービスケット。鞍上はジョージ・ウルフ。
調教中のシービスケット。鞍上はジョージ・ウルフ
欧字表記 Seabiscuit
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1933年5月23日
死没 1947年5月17日(14歳没)
Hard Tack
Swing On
母の父 Whisk Broom
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ケンタッキー州
生産 Gladys Mills Phipps
馬主 Wheatley Stable
→Mrs. Charles S. Howard
Charles S. Howard
調教師 V. Mara(アメリカ
→G. Tappen(アメリカ)
→Jim Fitzsimmons(アメリカ)
Tom Smith(アメリカ)
競走成績
生涯成績 89戦33勝
獲得賞金 43万7730ドル
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シービスケットSeabiscuit1933年 - 1947年)は、アメリカ合衆国で生産・調教されたサラブレッド競走馬である。1930年代のアメリカ競馬で競走生活を送っていた馬で、初期は不遇を託つものの、競走生活の終盤にはマッチレース三冠馬を破るなどの活躍を見せた。のちの1958年アメリカ競馬殿堂に加えられた。

アメリカの大恐慌時代の最中に活躍したシービスケットは当時の人気馬の一頭であり、同馬とそれに関わる人々を描いた小説映画化されている。

経歴[編集]

出自[編集]

1933年にウィートレイステーブルで生まれた鹿毛サラブレッドで、父はマンノウォー産駒ハードタック、母はウィスクブルーム産駒の未出走馬スウィングオンという血統であった。馬名の「Seabiscuit」とは海軍用の乾パンのことで、これは父のハードタック(堅パンの意)から連想してつけられたものである。

生後クレイボーンファームで育成され、ウィートレイステーブル所有で競走馬として登録された。しかしシービスケットの生育状態は悪く、馬格が小さいうえに瘤のように膨らんだもあり、見た目からは期待をできるようには見えなかった。

若駒時代[編集]

シービスケットとハワード

シービスケットが最初に預けられた調教師はV. マーラという人物で、同調教師のもとで1935年1月19日ハイアリアパーク競馬場で行われたダート3ハロン(約600メートル)でデビュー戦を迎え、10頭立ての4着に入った。

その後も下級条件戦に連日出走し続けたが未勝利のままで、5戦目のあとにG. タッペン厩舎に転厩した。ここでも勝ち星はつかめず、さらに5戦したあとに、三冠馬ギャラントフォックスの調教師として知られる名伯楽ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズへと預けられた。しかし、シービスケットには競走を嫌う節があって思うように調教できず、また同時期にギャラントフォックス産駒の期待の3歳馬オマハへの調教に時間を多く割かざるを得なかったため、よい成績を期待できるような状態にすることはできなかった。

18戦目となった6月22日のナラガンセットパーク競馬場ダート5ハロンの一般戦で、シービスケットはようやく初勝利を挙げた。結局、2歳時は35戦も出走しながら条件戦5勝と、その労力に比べて冴えない戦績に終わった。ちなみに同年、同厩舎のオマハは史上3頭目のアメリカ三冠馬となった。

シービスケットは3歳シーズンの初頭にして、すでに48戦9勝の戦績を挙げていたが、勝鞍はいずれも下級条件戦ばかりで評価できるものではなかった。ここでウィートレイステーブル代表のグラディス・ミルズ・フィプスはシービスケットを売却することを決め、アメリカの自動車販売業者であったチャールズ・スチュワート・ハワードに8000ドルでシービスケットを渡している。当時の8000ドルは2007年現在の価値にして10万ドル相当であり、決して投げ売り価格ではなかったが、これはフィッツシモンズがシービスケットの潜在能力を見越してこの値段を付けさせたと言われている。

快進撃の始まり[編集]

シービスケットとスミス
シービスケットとポラード

以後、シービスケットはハワード夫人の名義のもとで競走生活を送ることになった。ハワードの購入後もシービスケットはまだ相変わらず駄馬のままであったが、新たな担当となった調教師のロバート・トーマス・スミスの型破りな調教法は、次第にシービスケットの競走嫌いを変えていった。

そして、のちに主戦騎手となるカナダ出身の騎手ジョン・ポラード(レッド・ポラード)と初めてコンビを組んでの初戦は、1936年8月22日デトロイト競馬場のモーターシティハンデキャップであった。ここは4着に終わったが、この2走後ガヴァナーズハンデキャップで勝ちを挙げると、そこからこのコンビによる快進撃が始まっていった。

1936年10月から拠点を西海岸地区に移し、そこから5歳までほぼ休みなしで出走を繰り返し、勝利とレコードタイムの山を積み重ねていった。3歳末にはベイメドウズ競馬場では2走連続でレコードタイムを更新する離れ業も見せている。

翌年1937年には、徐々に積み重ねられていくハンデキャップ戦の斤量をものともせずにサンフアンカピストラーノハンデキャップから7連勝を飾った。このパフォーマンスから同年の北米最優秀ハンデキャップ牡馬に選ばれたが、年度代表馬の座はその年の三冠馬ウォーアドミラルに譲っている。このころにはシービスケットの人気は沸騰し、新聞でも紙面を大きく取ってのコラムが連載されていた。関連グッズも飛ぶように売れ、それらはハワードの新たな収入源にもなった。

ポラードの離脱[編集]

シービスケットとウルフ

1938年、この年ポラードはシービスケットに乗ることができなかった。ハワードにはシービスケット以外にも持ち馬がおり、シービスケットの年内初戦の1週間ほど前に、そのうちの1頭フェアナイテスへの騎乗をポラードに依頼していた。この騎乗中にポラードは落馬事故を起こしてしまい、肋骨や腕を折る大怪我を負って騎乗ができなくなったのであった。

そのため、ハワードは年初からシービスケットに騎乗する代わりの騎手を探す羽目になった。ハワードは自分の親しい騎手などから代役を募り、最終的に名手ジョージ・ウルフに手綱を任せることにした。シービスケットはウルフ騎乗のもと、ベイメドウズハンデキャップやハリウッドゴールドカップなどの大競走に勝利していった。ポラードは6月に怪我から復帰できたものの、別の馬でふたたび事故を起こし、騎手生命を絶望視されるほどの重傷を負ってしまった。そのため同年はずっとウルフが騎乗することになった。

1938年8月12日、シービスケットとウルフはデルマー競馬場マッチレースに挑むことになった。デルマー競馬場は前年に開設されたばかりの競馬場で、そこの共同取締役を務めていたハワードと、共同取締役の中心人物であったビング・クロスビーが企画したものであった。ハワードのシービスケットと対決したクロスビーの所有馬リガロッティもまた実績ある競走馬で、両馬の対決は観客を大いに集めることに成功した。レースはリガロッティが先行したが、シービスケットはコースレコードでこれを破った。

このマッチレースのあとに3戦をこなし、年末にふたたびマッチレースが組まれることになった。

世紀の対決[編集]

1938年11月1日ピムリコ競馬場で前年創設されたピムリコスペシャルにシービスケットは出走した。出走馬はシービスケットとウォーアドミラルだけのマッチレースであった。

シービスケットとウォーアドミラルの2頭は前年から、出走予定の上では3度の対戦が予定されていた。しかしこれをシービスケットの陣営がスクラッチ(出走回避)し続けたために対決は実現していなかった。1938年5月にも両陣営が協議のうえでマッチレースを企画されていたが、これもまた回避していた。

そしてついに実現した東西の最強馬2頭の対決は、「世紀の対決」として大きな注目を集めることになった。ピムリコ競馬場にはアメリカ全土から競馬ファンが殺到し、特別観覧席から一般席まで身動きできないほどに人で埋め尽くされた。

シービスケット陣営は対戦に先立って秘策を用意しており、スタートダッシュで有利な位置を取るために、スタートの際のベルの音をシービスケットに憶えさせる特訓を行っていた。この策は功を奏し、序盤はウォーアドミラルの先を走り続けた。中盤にはウォーアドミラルに並びかけられるも、残り200ヤードのところでふたたび前に立ち、4馬身の差をつけて勝利した。

この年、シービスケットは年度代表馬と最優秀ハンデキャップ牡馬に選出された。

最後のサンタアニタ[編集]

ポラード鞍上のもとで優勝した1940年のサンタアニタハンデキャップ
サンタアニタパーク競馬場のシービスケット像。1942年4月6日撮影。

どこでも勝ち星を重ねる一方で、サンタアニタパーク競馬場の3月の大競走サンタアニタハンデキャップだけはシービスケット陣営が毎年目標としながらなかなか勝てない競走であった。

最初の挑戦は1937年で、シービスケットが3歳末の時点で陣営は翌年の同競走に狙いを定めていた。しかし直線での不利や、ポラードの視力(片目を失明していた)から来る騎乗ミスもあって、ローズモントにハナ差の2着に敗れた。翌年1938年もウルフを背に挑戦、トップハンデで果敢に挑むが、30ポンド(約13.6キログラム)軽い斤量のステージハンドにまたしてもハナ差で敗れている。

そして1939年の6歳シーズン、この年も挑戦する予定であったが、年始のロサンゼルスハンデキャップの競走中に左前脚の靭帯を断裂、サンタアニタハンデ出走どころか競走生活をも絶望しかねない怪我を負ってしまった。

シービスケットは引退せずに復帰を目指して、ポラードの妻アグネスの支援のもと、ポラードとともに療養とリハビリに努めることになった。ポラードは折れた骨と萎縮した脚力を取り戻すために足の整形手術を行い、ブレースで足を固定しながらシービスケットに乗って騎乗の訓練に取り組んだ。シービスケットも徐々に歩き方・走り方を取り戻していき、翌年には復帰ができるまでに回復した。

1940年、シービスケットは7歳にして競走馬として復帰。同じく復帰したポラードとともに、サンタアニタパーク競馬場のラホヤハンデキャップに出走した。結果3着と勝ちこそできなかったものの、復帰が絶望視されていた騎手と競走馬の復帰戦としては充分すぎる内容であった。

復帰3戦目に出走した競走はサンタアニタハンデキャップ直前の前哨戦・サンアントニオハンデキャップで、同競走にはハワードの所有馬で前年のサンタアニタハンデキャップ優勝馬のカヤックが出走していた。シービスケットは斤量124ポンド(約56キログラム)と、本来のシービスケットにしては軽いハンデを与えられたことも幸いして、前年の覇者を2着に破って復帰後初勝利を飾り、宿願のサンタアニタハンデキャップ優勝に弾みをつけた。

3月2日、シービスケット3度目の挑戦となったサンタアニタハンデキャップには、前走でも対戦した前年優勝馬カヤックと再度まみえ、その対決を78000人の観衆が見守っていた。スタートでうまく馬群を捌けないまま進み、道中で他馬に包まれる不利があったものの、内を突いて馬群を脱出、そのまま駆け抜けてカヤックを1馬身半抑えて優勝、有終の美を飾った。

4月10日、シービスケット陣営は競走生活からの引退を発表し、リッジウッドランチで種牡馬となった。

引退後[編集]

リッジウッドランチに立てられたシービスケット像

7年間で108頭の産駒を出したが、競走馬として大きな活躍をした仔は出なかった。現在では牡系としては血を残してはおらず、母の血統をたどると見つけられる程度である。一例としては、トミケンブライト(東京3歳優駿牝馬、エメラルドカップ、OROカップ)の6代母Dressed Upの父にSeabiscuitがいる。

1947年5月17日に14歳で死亡。その墓の所在は現在も伏せられており、ハワード家だけが知る秘密にされている。

評価[編集]

2006年現在のシービスケット像と、記念式典のトランペッター。

おもな勝鞍[編集]

1935年(2歳) 35戦5勝
1936年(3歳) 23戦9勝
ベイブリッジハンデキャップ、ワールズフェアハンデキャップ、ガヴァナーズハンデキャップ
1937年(4歳) 15戦11勝
サンフアンカピストラーノハンデキャップ、マサチューセッツハンデキャップ
2着 - サンタアニタハンデキャップ
1938年(5歳) 11戦6勝
ピムリコスペシャルハンデキャップ(ウォーアドミラルとのマッチレース)、ハリウッドゴールドカップハンデキャップステークス、リガロッティとのマッチレース(デルマー競馬場)
2着 - サンタアニタハンデキャップ
1939年(6歳) 1戦0勝
1940年(7歳) 4戦2勝
サンアントニオハンデキャップ、サンタアニタハンデキャップ

年度代表馬[編集]

  • 1937年 - 最優秀ハンデキャップ馬
  • 1938年 - 年度代表馬、最優秀ハンデキャップ馬

表彰[編集]

血統表[編集]

シービスケット (Seabiscuit)血統マンノウォー系 / St.Simon5×4=9.38%、Hindoo5×5=6.25%、Rock Sand3×4=18.75%(父内)) (血統表の出典)

Hard Tack
1926年 栗毛
Man o'War
1917年 栗毛
Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Tea Biscuit
1912年 栗毛
Rock Sand Sainfoin
Roquetbrune
Tea's Over Hanover
Tea Rose

Swing On
1926年 鹿毛
Whisk Broom
1907年 栗毛
Broomstick Ben Brush
Elf
Audience Sir Dixon
Sallie Mcclelland
Balance
1919年 鹿毛
Rabelais St. Simon
Satirical
Balancoire Meddler
Ballantrae F-No.5-j
父系
母系(F-No.)
5代内の近親交配
出典

小説・映画化[編集]

シービスケットに関する書籍はアメリカで多数出版されているが、そのなかでもっとも有名なものが2001年にアメリカの作家ローラ・ヒレンブランドが書いた、シービスケットの競走生活とその背景をもとにした小説『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説(原題:Seabiscuit: An American Legend)』である。この小説は大ヒットを記録し、2001年度のウィリアム・ヒル スポーツブック オブ ザ イヤーにも輝いた。

シービスケットを題材とした映画として知られるものに、1949年公開の映画『シービスケット物語(原題:The Story of Seabiscuit)』と、ヒレンブランドの小説を原作とした2003年公開の映画『シービスケット』(トビー・マグワイア)主演がある。後者は日本でも2004年1月24日に公開され、その公開に先立って、原作の和訳版が2003年に出版されている。

また、日本においても同馬の逸話が取り上げられた例もあり、啓林館発行の高等学校外国語科(英語)用教科書『ELEMENT English Course I(ISBN 978-4-402-57016-3)』はシービスケットの話を教材の題材に用いためずらしい例のひとつである。

書籍[編集]

外部リンク[編集]