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シュヴァリエ・デオン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サントーバンによるデオンの肖像

シュヴァリエ・デオンChevalier d’Éon, 1728年10月5日1810年5月21日)は、フランス外交官スパイ、兵士であり、フリーメイソン会員。本名はシャルル=ジュヌヴィエーヴ=ルイ=オーギュスト=アンドレ=ティモテ・デオン・ド・ボーモンCharles-Geneviève-Louis-Auguste-André-Timothée d’Éon de Beaumont[1]

生涯の前半は男性として、後半を女性として生きた。 

生い立ち

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デオンはブルゴーニュ地方のトネール(現在のフランス・ヨンヌ県の町)で弁護士ルイ・デオン・ド・ボーモンと、貴族出身の妻フランソワーズの息子として生まれた。[1]デオンの幼少期については、彼ののちに書かれた自伝からしか知り得ることができないため、その信憑性には疑問が多い。彼はのちに、自分は女性として生まれたが、父親は息子が生まれた場合にのみ婚姻で得られる財産を相続出来るため、自分を男として育てたと主張した。

デオンはぬきんでた優秀さで、1749年にパリコレージュ・マザランパリ大学の一部。正式名コレージュ・ド・カトル=ナシオンフランス語: Collège des Quatre-Nations)を卒業した。デオンは、エリー=カトリーヌ・フレロンの雑誌『アンネ・リテレール』の寄稿者として文学活動を始め[2]、1753年に財政及び行政問題に関する2つの著作を刊行したことで政治評論家として注目を集めた。[3]父方のおじであるアンドレ=ティモテ・デオン・ド・ティシーの紹介により、パリの行政長官ベルティエ・ド・ソヴィニーに書記官として仕え、その後マルゼルブの下で歴史と文学の王室検閲官(censeur royal)に任命された。[4]

スパイとしてのデオン

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1756年、デオンはルイ15世の私的スパイ機関『ル・スクレ・デュ・ロワ』に加わった。彼は国王から女帝エリザヴェータに謁見し、ハプスブルクと対立する親フランス派と接触するという秘密指令を受けた。のちに彼はリア・ド・ボーモンという女性になりすまし、女帝付きの女官となったと主張している。デオンのロシアでの経歴はヴァレンチーン・サーヴィチ・ピークリロシア語: Пикуль, Валентин Саввичの小説の主題の一つである。

1761年春、デオンはフランスへ帰国した。同年5月、彼はド・ブロイ元帥の麾下でドートシャン竜騎兵連隊(Dragons d’Autichamp)の大尉に任じられ、七年戦争後期の戦闘に参加した。彼は前線に近い竜騎兵部隊へ転属し、同年7月のヴィリンゲンハウゼンの戦闘に加わった。その後、ウルトロップ(ここで頭部と大腿部を負傷)、アインベック、オスターヴィックでの小規模戦闘において、敵の砲火の下で勇敢な働きを見せ、弾薬の回収や数百人の捕虜獲得に貢献した。[5]

1762年1月5日(ユリウス暦1761年12月25日)のロシア女帝エリザヴェータ死去後、フランス外務省はロシア大使の交代を検討し、デオンは候補の一人に挙がった。1762年6月、ルイ15世は、国王直属の秘密外交網であるスクレ・デュ・ロワ関係者からの支持も受けて、デオンをロシアに派遣することを決定した。しかし出発直前、ロシア皇帝ピョートル3世がクーデターで廃位され、エカチェリーナ2世が即位したため、この派遣計画は中止となった。[6]

1762年8月、デオンはニヴェルネー公(ルイ=ジュール・マンシーニ=マザリーニ)の書記官に任命され、王から3,000リーヴルの恩賞を受けて9月にロンドンへ派遣された。[6]彼は七年戦争を公式に終結させる和平交渉(1763年パリ条約)において、草案作成と交渉補助に従事した。[7]条約は1763年2月10日にパリで締結された。デオンはニヴェルネー公の推薦と自身の申し出により、条約批准書をロンドンからヴェルサイユのルイ15世へ届ける役目を務めた。[8]

その功績により、デオンは同年3月30日に聖ルイ十字勲章フランス語: Ordre royal et militaire de Saint-Louisを授けられ騎士(シュヴァリエ)の称号を得た。これは、彼のロシアおよびイギリスでの外交活動、ならびに戦場での勇敢な働きに対して与えられた栄誉であった。[9]

1763年3月末にフランスからロンドンへ戻ったデオンは、フランス外務省公認の下、ニヴェルネー公の不在時ないし彼の5月の帰国以降、事実上の大使代理として実務を遂行した。同年7月3日には、臨時大使に当たる「全権公使(ministre plénipotentiaire)[10]」へ昇任した。この昇任は次期大使ゲルシー伯が着任するまでの一時的なものであったが、当時のフランス外交官としては異例の栄誉であり、デオンの名声を高める契機となった。[11][12]

この頃デオンは、捕虜交換やダンキルク港の破壊など、パリ条約に関する交渉にも携わった。彼は鋭い機知と素早い頭の回転を備えた卓越した会話家であり、フランスの故郷トネール周辺のブルゴーニュ産高級ワインを贈ることで、イングランド貴族との人脈を広げた。[13]

デオンはこの立場を利用し、スクレ・デュ・ロワの任務として国王のための密偵活動も行っていた。彼は同年6月3日付の国王ルイ15世の密命に基づき、フランスによるイギリス侵攻計画に備えて情報を収集していた。これはルイ15世がひそかに進めていたもので、国王の大臣たちでさえ知らされていなかった、無謀で不運な企てであった。デオンは、イギリス沿岸防備を調査していたフランスの密偵ルイ=フランソワ・カルレ・ド・ラ・ロジエールの活動を支援した。[12]

外交上の社交においてワインの贈答や接待は一般的であり、デオン自身もロンドンにおける交際の手段として頻繁にワインを用いていた。しかし、七年戦争後のフランス財政が逼迫する中で、デオンが購入した高級ワインの量は外務省から問題視された。また、経費補填を求めるデオンの書簡の文面は同時代、宮廷的コミュニケーションから見ると強硬と受け取られ、外務省内の友人であったサント=フワ書記官からも批判されている[14]

1763年10月4日付で外務大臣プラランはデオンに対し帰国命令(Order of Recall)を発した。これはイギリス国王ジョージ3世に書簡を提出し次第直ちに帰国し、「宮廷には出ずに」ヴェルサイユで指示を待つよう命じるものであった。命令書は新任大使ゲルシー伯に託され、ロンドンに着任したゲルシー伯は全権公使の地位剥奪と書記官への降格を通告したが、デオンはこれを拒否した。彼は「自分は国王によって全権公使に任命されたのであり、解任も国王からの真筆命令でなければ従えない」と主張し、外務省による再三の帰国命令にも応じなかった[15]。デオンは秘密外交組織スクレ・デュ・ロワの密命を帯びており、国王およびブロイ家からの連絡が途絶するなかで、外務省の命令に従うことはできないと判断したと述べている[16]

当時、外務省(ショワズールおよびプララン)と秘密外交組織スクレ・デュ・ロワ(ブロイ伯・ブロイ元帥)の間には政策路線をめぐる対立があり、デオンの処遇はこの派閥抗争の文脈においても理解されうる[17]

デオンは、ゲルシー伯がソーホー・スクエアのモンマス・ハウスで自身に薬物を混入しようとした、あるいは誘拐を企てたと主張した[18]。こうした状況のもと、ルイ15世はデオンの保持する秘密文書の流出を恐れ、一定の資金援助を与えつつ慎重に扱うようブロイ伯らに命じたが、スクレ・デュ・ロワの人員不足と混乱から実行には至らず、やがて秘密外交からの連絡も途絶えたため、デオンはロンドンで孤立を深めていった[19]。1759年に与えられていた年額2,000リーヴルの年金は、1764年2月に停止されたとされる。当時、デオンは年金が打ち切られるとの噂にもさらされ、経済的・政治的に強い圧迫を受けていた。

こうした状況の中、デオンは1764年3月23日、召還をめぐる秘密外交文書の多くを『Lettres, mémoires et négociations particulières du chevalier d’Éon(デオン騎士の書簡・回想録・私的交渉)』の題で出版した。デオンは、同書において、ゲルシー伯による自身への理不尽な扱いや宮廷との間で長期にわたり解決していなかった金銭的紛争(全権公使としての棒級未決定、立替経費の未補填)について強く問題視し、反復的に主張している。この出版は、秘密外交を公に提示するという前例のない政治的行為であり、宮廷内部の外交紛争を公的領域へ移行させ、世論の中で論じられる状況を生み出したと評価されている[20]。一方で、同書には国王の秘密侵攻計画文書や、 スクレ・デュ・ロワに関する書簡は一切含まれていなかった[21]

この出版により、デオンはロンドンの民衆から強い支持を受けるようになり、政府権力の抑圧に抗して発言した人物として、誠実さと廉直さの象徴と見なされた。群衆は彼を歓呼で迎え、時に身辺の安全を守った[22]。フランス政府はデオンの逮捕と引渡しをイギリス政府に要求したが、イギリス側は、国内法の下では犯罪者でない限り何人も不当に逮捕・引渡しされることはないとして、これを拒否した[21]

1764年7月、イギリス司法当局は、ゲルシー伯に対する名誉毀損の罪でデオンを起訴した。判決期日までの数か月間、デオンは友人宅に身を寄せたり、女性服を着て外出するなどして身を隠していた。しかし同年11月、証人として出廷したヴェルジー(ピエール=アンリ・トレサック・ド・ヴェルジー)が、ゲルシー伯およびプララン公からデオン暗殺を指示されたものの、自身は従わなかったと証言したことで、情勢は大きく変化した[23]。1765年3月には、イギリス司法当局がゲルシー伯を、ヴェルジーを通じたデオン殺害教唆の容疑で起訴した。イギリス政府は政治的配慮から起訴猶予の可能性を検討したが、最終的には裁判の進行を保留とするにとどまり、同時にデオンに対する名誉毀損裁判も同様に進行保留となった[24]。ゲルシー伯は1767年にフランスへ召還され、その後まもなく死去した[25]

一連の騒動を通じて、デオンはウィリアム・ピットテンプル伯など、イングランド政界の有力者と親交を深めた。こうした状況を踏まえ、ルイ15世は1765年頃までに、デオンを排除する方針から転じ、ロンドンに留めて諜報活動を継続させる方針を採るようになった。1766年4月1日付の王令により、ルイ15世はデオンに年額12,000リーヴルの終身年金を与え、シュヴァリエおよび竜騎兵隊大尉の称号の保持、ならびにフランスの裁判所で起訴されないことを約束した[26]。デオンは引き続き諜報活動に従事したが、安全に帰国することはできず、ロンドンで政治的亡命状態のまま生活することを余儀なくされた。

1768年、デオンはフリーメイソンとなり、ロンドンのイモータリティ・ロッジで入会の儀式を受けた[27]

その後デオンは、経済・歴史・行政論に関する著作『Les loisirs du Chevalier d’Éon(デオン騎士の余暇)』を執筆し、1770年から1774年にかけてアムステルダムで全13巻として刊行した[25]。なお、「Loisirs(余暇)」という語は、18世紀フランスにおいて、公的職務とは切り離された時間に行われる知的・文筆活動を指す用法があり、本書の題名もその慣用に基づくものと考えられる。

女性としてのデオン

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マドモワゼル・リア・ド・ボーモン

デオンはいつも竜騎兵の制服を着ていたという事実にもかかわらず、彼は本当は女性ではないかという噂が後を断たなかった。彼の性別について、ロンドン証券取引所で賭けの寄り合いが始まった。1774年にルイ15世が亡くなると、彼は帰国の交渉を始めた。彼は自分は身体的にも男性ではなく女性であると主張し、政府に彼を女性と認めるように要求した。ルイ16世と政府はデオンの要求を全て受け入れ、彼に女性の服を着用するよう命じた。王は新しい服を購入するための資金を与えデオンは承諾した。1777年にデオンは帰国し、以降は女性として暮らし始めた。しかし、相変わらず軍服を好んで着用するデオンに、事情を知らないフランス王妃、マリー・アントワネットから、「ドレスもなく男装しているのは気の毒だ」と同情を買い、彼女が贔屓にしているローズ・ベルタン嬢デザインのドレスが贈られている。

フランス政府がアメリカ独立戦争援助を始めると、デオンは自分がアメリカでフランス軍に加わることはできるか尋ねた。彼はディジョンの城に19日間投獄され、故郷トネールで6年あまりを母親と過ごした。

カールトン・ハウスシュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュとフェンシングの試合をするシュヴァリエ・デオン(1780年代末頃)[28]

1779年、デオンは回顧録『軍人の生涯、外交官そしてデオン嬢の私生活(La Vie Militaire, politique, et privée de Mademoiselle d'Eon)』を発表した。これは友人ラ・フォルテールの代筆によるものだが、おそらく話に尾ひれがつけられていただろう。 1785年にデオンはイギリスへ戻った。フランス革命後は年金を失ったため、蔵書を売らなければならなかった。1792年、彼はフランス国民議会に書簡を送り、ハプスブルク家との戦いに女性兵士師団を用いるよう提案したが拒絶された。1796年に重傷を負うまで、デオンは生活費稼ぎのためにフェンシングの試合、見せ物としての決闘に参加した。1805年に彼は自身の自叙伝の契約を結ぶが、これが世に出ることはなかった。晩年には神経痛・リューマチを病み、ロンドンでコール夫人というイギリス人を夫に持つフランスの未亡人とともに過ごした。シュヴァリエ・デオンはロンドンで1810年5月21日に死亡。死後に検死した外科医は、彼は解剖学上は「すべての点で完全に形成された男性器」を有し、同時に女性的特徴も示していたことを証明した。証明書に記載されたいくつかの特徴は「四肢の形成における異常な丸み」と「胸の驚くほどの豊かさ」でした。男性だったが、男性では説明がつかない要素があった」とされているので、所謂半陰陽であったのではないかと考察されている。デオンの遺体はロンドンの聖パンクラス古教会堂英語: St Pancras Old Churchに葬られ、敷地内に現存する墓誌(バーデット・クッツ記念日時計塔英語: Burdett-Coutts Memorial Sundial)にもその名前が刻まれているが、墓石は失われており正確な墓所は不明である。デオンの子孫は現在もフランスに存命している。[要出典]

デオンを題材とした作品

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脚注

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  1. 1 2 Octave Homberg, Fernand Jousselin 著、Alfred Rieu 訳『D’Eon de beaumont, His Life and Times』Martin Secker、1911年、20頁。「“Charles-Geneviève-Louis-Auguste-André-Timothée, son of the noble Louis d’Eon de Beaumont, director of the King’s demesnes, and of Dame Françoise de Charenton”—so runs the baptismal certificate—was born at Tonnerre, on October 5, 1728.」
  2. 「On the Art of Diplomacy and the Art of Describing Diplomacy: The Chevalier d’Eon and British Political Life at the End of the Seven Years’ War」『The Chevalier D’Eon and His Worlds』Continuum International Publishing Group、2010年、25-26頁。ISBN 978-0-82642-278-1
  3. Octave Homberg, Fernand Jousselin 著、Alfred Rieu 訳『D’Eon de Beaumont, His Life and Times』Martin Secker、1911年、21頁。
  4. Gary Kates『Monsieur d’Eon Is a Woman』The Johns Hopkins University Press、2001年、53頁。
  5. Simon Burrows, Jonathan Conklin, Russell Goulbourne,Valerie Mainz「Introduction」『The Chevalier D’Eon and his Worlds』Continuum、2010年、4頁。
  6. 1 2 Gary Kates『Monsieur d’Eon Is a Woman』The Johns Hopkins University Press、2001年、84-85頁。
  7. Gary Kates『Monsieur d’Eon Is a Woman』The John Hopkins University Press、2001年、87-88頁。
  8. Octave Homberg, Fernand Jousselin 著、Alfred Rieu 訳『D’Eon de Beaumont, his life and times』1911年、62-67頁。
  9. Gary Kates『Monsieur d’Eon Is a Woman』The Johns Hopkins University Press、2001年、92-93頁。
  10. デオンの役職はministre plénipotentiaireであり、特命全権大使(ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire)とは異なる外交階級である。
  11. Gary Kates『Monsieur d’Eon Is a Woman』2001年、88-89頁。
  12. 1 2 Edmond Dziembowski「On the Art of Diplomacy and the Art of Describing Diplomacy: The Cheverier d’Eon and British Political Life at the End of the Seven Years’ War」『The Chevalier D’Eon and his Worlds』2010年、27頁。
  13. Gary Kates『Monsieur d’Eon Is a Woman』2001年、96−97頁。
  14. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a Woman』2001年、97-98頁。
  15. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a Woman』2001年、102-103頁。
  16. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a Woman』2001年、112-113頁。
  17. Simon Burrows「The Chevalier d’Eon, Media Manipulation and the Making of an Eighteenth-Century Celebrity」『The Chevalier D’Eon and his Worlds』2010年、14頁。
  18. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a Woman』2001年、109-111頁。
  19. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a Woman』2001年、116-118頁。
  20. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a woman』2001年、121頁。
  21. 1 2 Gary Kates『Monsieur d’Eon is a woman』2001年、128頁。
  22. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a woman』2001年、126頁。
  23. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a woman』2001年、129-130頁。
  24. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a woman』2001年、133-134頁。
  25. 1 2 Simon Burrows et Al.「Introduction」『The Chevalier d’Eon and His worlds』2010年、5頁。
  26. Gary Kates『Monsieur d’Eon is a woman』2001年、135-137頁。
  27. Valerie Mainz「The Chevalier d’Eon and his Several Identities」『The Chevalier D’Eon and his Worlds』、120頁。
  28. Alexandre-Auguste Robineau (1747-1828) - The Fencing-Match between the Chevalier de Saint-George and the Chevalier dEon (英語). www.royalcollection.org.uk. 2018年8月31日閲覧。
  29. "Eonnagata" acaserne.net

関連項目

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外部リンク

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