カール・アントン・ブレートシュナイダー
カール・アントン・ブレートシュナイダー(独: Carl Anton Bretschneider、1808年5月27日 - 1878年11月6日)は、ドイツのゴータ出身の数学者、ジュリスト。幾何学や数論、及びその歴史について研究したことで知られている。 対数積分や数表についても研究していた。オイラー定数のシンボルとして を用いた最初の数学者と言われている。ブレートシュナイダーの公式の発見で最もよく知られている。
四角形において、辺をそれぞれ 、その半周長を 、対角を としたときに、上記の式により面積 を求めることができることを発見した。
経歴
[編集]彼は、神学者で主任司祭のカール・ゴットリープ・ブレートシュナイダー(英語: Karl Gottlieb Bretschneider)と、アルテンブルク出身のシャルロット・ハウシルト(Charlotte Hauschild)の息子に生まれた[1]。
ギムナジウム・エルネスティーネ・ゴータに通学した。父の依頼でフリードリヒ・ヴィルヘルム・デーリングからラテン語を教わったが、彼の秘めたる興味は数学、物理学、地理学、歴史学の研究に向かった。学校では、時間確保のため、自ら仲間から孤立した。また、フリードリヒ・クリスティアン・クリースの授業で一番だった彼は、クリースから高等数学 (Further Mathematics) の教育を受けた。1826年のイースターのマトゥーラでは、数学で首位を獲得、他の科目でもよい成績を収めた。しかし、父によって自然科学や数学の研究への道は閉ざされた。
その結果、1826年からは、後に哲学部の講師、そして数学や天文学の講師になることを望みつつ、ライプツィヒで法律学を勉強し始めた。その間もひっそりと、数学や物理学や天文学の勉強をした。また、ハインリッヒ・ウィルヘルム・ブランデスやアウグスト・フェルディナント・メビウスと有益な接触を行った。年内にはとある数学のコンテストで優勝した。
ライプツィヒの王立ザクセンの公証人試験では、優秀な成績を残して公証人になった。1830年夏、大学の法学部より私講師を任命された。次の学期には、ローマ法の歴史とドイツ法の講義を開いた。ブランデスとメビウスも法律学を学んでいたため、カールに非常勤教授の職務を与えようとしたが、父の命でそれを辞した。1829年以降、数学と物理学の個人講義を受け、好みの科目の教師になる準備をした。
1831年末、ライプツィヒの悪天候で病気を患い、医師の勧めに従いゴータに帰還した。聡明な家庭医が父の心を開き、1835年秋、カールの父は息子に職業の自由を許した。
時が経ち、カールは自然科学の専門職を離れ、1835年には、Gymnasium illustreの数学講師の助手として、老いたクリースの授業の一部を継ぎ、公立学校の良い教導例を作った。
1836年の復活祭では、ゴータに新設されたレアルギムナジウムの数学と物理学の教授になり、亡くなるまでゴータにとどまった。また、ドイツ宮廷会議の顧問官にも任命された[2]。
私生活
[編集]カールは2回、妻を亡くし延べ3回結婚している。1872年以降は、病床に伏し活力を失った。カールが亡くなった1879年、息子Alfredが死亡記事を発表した。他の息子に、プラウエンのギムナジウム教師であるポール・ブレートシュナイダーがいる。
出版物
[編集]- Carl Anton Bretschneider (1837年). "Theoriae logarithmi integralis lineamenta nova". Crelle Journal, vol.17, p. 257-285 (1835年提出)
参照
[編集]参考文献
[編集]- ^ Heinz-Horst Schrey: Bretschneider, Karl Gottlieb. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 2, Duncker & Humblot, Berlin 1955, ISBN 3-428-00183-4, S. 603 (電子テキスト版).
- ^ Max Schneider: Die Abiturienten des Gymnasium illustre zu Gotha von 1768–1859. Nr. 756
- レオナード・E・ディクソン, Extensions of Waring's theorem on fourth powers, Bull. Amer. Math. Soc. vol. 33 (1927年) pp. 319–327
- Karl August Regel, Gedächtnissrede auf Carl Anton Bretschneider in der Aula des Gymnasium Ernestinum am 15. Januar 1879. In: Programm des Herzoglichen Gymnasium Ernestinum zu Gotha als Einladung zur Theilnahme an der am 31. März zu veranstaltenden Prüfung sämmtlicher Classen. Gotha, Engelhard-Reyer Hofbuchdruckerei, 1879, S. 1–10. (Mit Schriftenverzeichnis). JFM 11.0027.03
- Alfred Bretschneider, Ein Gedenkblatt für seine Freunde und Schüler. Zeitschrift für Mathematik und Physik 24 – Historisch-literarische Abtheilung, 1879, S. 79–91. JFM 11.0027.04
- Der Lehrsatz des Matthew Stewart, Grunert-Archiv 50, 1869, S. 11–17
- Die harmonischen Polarcurven, Grunert-Archiv 50, 1869, S. 475–499
- Die Geometrie und die Geometer vor Euklides: ein historischer Versuch, B. G. Teubner, Leipzig 1870
- Zur Berechnung des Trapezes aus seinen Seiten, Grunert-Archiv 52, 1870, S. 24–25
- Einfache Berechnung der Winkel eines ebenen oder sphärischen Dreiecks aus den Seiten der Figur, Grunert-Archiv 52, 1870, S. 371–374
外部リンク
[編集]- Beiträge zur sphärischen Trigonometrie, Crelles Journal 13, 1835, S. 85–92
- Beiträge zur sphärischen Trigonometrie. (Schluß), Crelles Journal 13, 1835, S. 145–158
- Theoriae logarithmi integralis lineamenta nova, Crelles Journal 17, 1837, S. 257–285
- Untersuchung der trigonometrischen Relationen des geradlinigen Viereckes, Grunert-Archiv 2, 1842, S. 225–261
- Tafeln für die Zerlegung der Zahlen bis 4100 in Biquadrate, Crelles Journal 46, 1853, S. 1–23