オリボー=シュル=シアーニュ

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Auribeau-sur-Siagne
Blason ville fr Auribeau-sur-Siagne (Alpes-Maritimes).svg
Vue du village depuis le chemin de Pierrenchon.JPG
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏Flag of Provence-Alpes-Cote dAzur.svg
(département) アルプ=マリティーム県Nice Arms.svg
(arrondissement) グラース郡
小郡 (canton) グラース・シュド小郡
INSEEコード 06007
郵便番号 06810
市長任期 ジャック・ヴァロンヌ
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Pôle Azur Provence
人口動態
人口 3 035人
2011年
人口密度 554人/km²
住民の呼称 Auribellois[1]
地理
座標 北緯43度36分06秒 東経6度54分42秒 / 北緯43.6017度 東経6.9117度 / 43.6017; 6.9117座標: 北緯43度36分06秒 東経6度54分42秒 / 北緯43.6017度 東経6.9117度 / 43.6017; 6.9117
標高 平均:m
最低:12 m
最高:302 m
面積 5.48km²
Auribeau-sur-Siagneの位置(フランス内)
Auribeau-sur-Siagne
Auribeau-sur-Siagne
公式サイト auribeausursiagne.fr
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オリボー=シュル=シアーニュAuribeau-sur-Siagne)は、フランスプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルプ=マリティーム県コミューン

地理[編集]

オリボーはカンヌグラースの中間にある11世紀につくられた中世の村である。シアーニュ川を見下ろす岩山の上に腰掛けるようにして集落が広がる。

歴史[編集]

オリボーは、外部の侵略から村を守るようにつくられた、いわゆる『鷹の巣』村である。人の定住を証明する最も古い痕跡は、ペグロの峰の上にあるオッピドゥムである。これは紀元前600年頃、ケルト・リグリア人によって築かれたものである。

紀元前155年、ローマ軍はケルト・リグリア人と戦ったが、ローマが勝利したのは紀元前14年のアウグストゥス帝の時代である。ローマはアウレリア街道、ユリア・アウグスタ街道を使い、地中海沿いに現在のアルプ=マリティーム県を移動してアルルへ向かった。

1158年の法令によって、ローマ教皇はオリボーおよびペゴマ、ムアンの教会の領地と十分の一税の権利はアンティーブ司教にあると確認した。

1242年の文書で『オリボーの教会と城』が示すように、当時のオリボーに村があったことを証明している。戦争や黒死病の流行のため、村は14世紀半ばには住民がまばらになっていた。レーモン・ド・テュレンヌによる略奪は、1399年まで村を荒廃させることになった。1400年に書かれた文書では、オリボーの地が寂れたさまを伝えている。

1497年6月5日の契約で、グラース司教ジャン・アンドレ・グリマルディは、オリボーの中の住宅を再建するためアルベンガおよびヴェンティミーリア司教区の住民たちを連れてきた。16世紀から現在の古い村が築かれた。村を取り巻く壁の外に築かれた教会の起源は17世紀にさかのぼる。16世紀、シアーニュ川はオリボーとマンドリュー=ラ=ナプールをつなぐ水路であり、貿易ルートとなっていた。

1692年、オリボーの住民はアンティーブの防衛設備建設のための労働者派遣要求を拒否した。スペイン継承戦争中の1707年、オリボーはフランス軍およびオーストリア・サルデーニャ連合軍に略奪された。1720年、マルセイユペスト流行が広がり、オリボーの村は外部との往来を遮断し人々は閉じこもった。当時、壁の外で教会建設が進められていたが疫病流行で空白の期間が生じた。1765年のオリボー人口は560人であった。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2011年
651 767 950 1154 2072 2612 2710 3035

参照元:1999年までEHESS[2]、2004年以降INSEE[3][4]

脚注[編集]