ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代ニューカッスル公)

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初代ニューカッスル=アポン=タイン公ウィリアム・キャヴェンディッシュ

初代ニューカッスル=アポン=タイン公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(William Cavendish, 1st Duke of Newcastle upon Tyne, KG, KB, PC, 1592年12月6日 - 1676年12月25日)は、清教徒革命イングランド内戦)期のイングランドの貴族・軍人。王党派に加わりイングランド王チャールズ1世チャールズ2世父子に忠誠を尽くし、最終的に公爵に叙された。

生涯[編集]

ノッティンガムシャージェントリであるサー・チャールズ・キャヴェンディッシュとキャサリン・オグル夫妻の子に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業。ジェームズ1世・チャールズ1世父子と親しくなりステュアート朝に接近、1628年にニューカッスル=アポン=タイン伯に叙され、1638年にはチャールズ皇太子(後のチャールズ2世)の家庭教師に任じられた[1]

豊富な資金力で王家を支え、1639年主教戦争で自費で兵を集めチャールズ1世に協力、上院の王党派に属し1642年から第一次イングランド内戦英語版が始まると自領から農民数千人を王党派兵士として派遣している。北部で軍団を率いて議会派の討伐に当たり、1643年6月30日アドウォルトン・ムーアの戦いヨークシャーの有力者であるファーディナンド・フェアファクス卿と息子のトーマス・フェアファクスに勝利、父子が籠るハルに迫ったが逃げられた上、転進したリンカンシャーでフェアファクス父子の救援に来た東部連合軍司令官マンチェスター伯エドワード・モンタギューと部下の鉄騎隊隊長オリバー・クロムウェルが待ち構え、10月11日ウィンスビーの戦い英語版で敗れてリンカンシャーとヨークシャーを議会派に確保され窮地に陥った。同年、侯爵に昇叙[2]

1644年になるとスコットランド盟約派から議会派援軍として派遣されたリーヴン伯アレクサンダー・レスリーおよび甥のデビッド・レスリーと合流したフェアファクス軍にヨークを包囲されるが、カンバーランド公ルパートの救援で議会軍は包囲を解除、窮地を脱した。続いて強硬論を主張するルパートに押し切られマーストン・ムーアの戦いでフェアファクス父子・東部連合軍・スコットランド軍が勢揃いした議会軍と激突したが、クロムウェルの活躍で国王軍は大敗、ルパートはランカシャーへ逃れ、ニューカッスル侯は大陸へ亡命した[3][4]

亡命中は王党派へ財政援助を行い、1660年王政復古でチャールズ2世と共にイングランドへ帰国した。1665年に公爵へ昇叙されると引退、ジョン・ドライデントマス・ホッブズなど文化人のパトロンとなり、自らも詩作など趣味に没頭する余生を送った[3]。1676年に84歳で死去、息子のヘンリー・キャヴェンディッシュ英語版が爵位を継承した。

子女[編集]

最初エリザベス・バセットと結婚したが1643年に死別、1645年にマーガレット・ルーカスと再婚した。最初の妻エリザベスとの間に10人の子を儲けたが、息子はヘンリー(1630年頃 - 1691年)1人しか残らなかった。娘のうちエリザベス(1627年頃 - 1663年)はブリッジウォーター伯爵ジョン・エジャートン英語版と、フランセス(1641年以前 - 1678年)はボリングブルック伯爵オリバー・シンジョンと結婚している。

脚注[編集]

  1. ^ 松村、P511。
  2. ^ 松村、P511 - P512、清水、P37、P62、P69 - P73。
  3. ^ a b 松村、P512。
  4. ^ 今井、P76 - P77、清水、P76 - P78。

参考文献[編集]

イングランドの爵位
先代:
新設
ニューカッスル=アポン=タイン公爵
1665年 - 1676年
次代:
ヘンリー・キャヴェンディッシュ英語版
ニューカッスル=アポン=タイン侯爵
1643年 - 1676年
ニューカッスル=アポン=タイン伯爵
1628年 - 1676年
マンスフィールド子爵
1620年 - 1676年
先代:
キャサリン・オグル
オグル男爵
1629年 - 1676年