イリ条約

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イリ条約(イリじょうやく、中国語: 伊犁條約, ロシア語: Договор об Илийском крае)は、1881年2月24日ロシア帝国清朝の間で結ばれた条約。サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg)とも。

経緯[編集]

列強のトルキスタン干渉[編集]

1862年以降、清朝の支配に対して東トルキスタンイスラーム教徒の反乱が続発した(回民蜂起)。中でもヤクブ・ベクによるヤクブ・ベクの乱には当時、グレート・ゲームを展開していたロシアとイギリスも関与し、ヤクブ・ベクが清朝からの独立を宣言した時には、これを承認している。

ロシア帝国はさらに1871年イリ地方を占領したため、露清間の紛争が起こった(イリ事件)。清は左宗棠を派遣して1877年11月にカシュガルを制圧した。当時ロシアは露土戦争を始めており、清軍の動向に対応できなかった。翌1878年、東トルキスタンは清朝によって再征服された[1]

リヴァディア条約[編集]

1879年、清は9ヶ月に渡るロシアとの交渉の末、10月2日、クリミア半島リヴァディア宮殿で十八カ条条約(リヴァディア条約)を調印した。しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった[2]

清側では朝野の議論は沸騰し、左宗棠はロシアとの開戦を主張した。外交を担当した崇厚西太后によって死刑を宣告されたが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚死刑恩赦を進言、清はそれを受けて恩赦を決定した[3]

清とロシアの緊張[編集]

ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を黄海へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練った上で1880年4月に粛州を出発、ハミにいたる[4]。しかし、左宗棠は「京備顧問」として朝廷に戻され、ロシアとの和平交渉が開始され、1881年2月、イリ条約が締結された。

内容[編集]

中国語文、ロシア語文、フランス語文を正文とし、解釈に相違がある場合にはフランス語文に拠る(第20条)とされた。

清朝がザイサン湖周辺地方をロシアに割譲し、賠償金900万ルーブルを支払うことで妥協が成立した。

  • イリの東側は清に返還。ただし、ホルゴス河以西のイリ西部はロシアに割譲。
  • 償金900万ルーブルをロシアに支払う。
  • 粛州とトルファンにロシア領事館を設置。

評価[編集]

佐口透はこの条約は不平等条約ではあったものの、従来、国際的に曖昧な地域であった中央アジア地域の国境を画定し、この時の国境線は現在に至るとしている[5][6]

その後[編集]

イリ返還をうけて清朝は新疆省設置に乗り出し、1884年に同省は正式に成立、中国本土並みの行政が敷かれた。これは中国史上初の事態であり[7][8]、自治を取り上げられたウイグル人は、漢民族の植民地になった[9][10]

脚注[編集]

  1. ^ 今谷、P195。
  2. ^ 今谷、P196 - P197。
  3. ^ 今谷、P197 - P198。
  4. ^ 今谷、P198。
  5. ^ 「新疆民族史研究」吉川弘文館1986、同「18-19世紀東トルキスタン社会史研究」吉川弘文館1963
  6. ^ 今谷、P200。
  7. ^ 佐口透「19世紀中央アジア社会の変容」『岩波講座 世界歴史 近代8』1971
  8. ^ 今谷、P202。
  9. ^ 今谷p202
  10. ^ 羽田明 『中央アジア史研究』(臨川書店 1982年) 第二章「清朝の東トルキスタン統治政策」

参考文献[編集]

  • 今谷明『中国の火薬庫—新疆ウイグル自治区の近代史』集英社、2000年。

関連項目[編集]