アレクサンドル・リャプノフ

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Aleksandr Mikhailovich Lyapunov
人物情報
生誕 1857年6月6日
ヤロスラヴリ, ロシア帝国
死没 1918年11月3日(1918-11-03)(61歳)
オデッサ
国籍 ロシア
出身校 サンクトペテルブルク大学
学問
研究分野 応用数学
研究機関 サンクトペテルブルク大学
ロシア科学アカデミー
ハリコフ大学
博士課程
指導教員
パフヌティ・チェビシェフ
博士課程
指導学生
ニコラ・サルチコフ
ウラジーミル・ステクロフ
主な業績 リアプノフ関数
プロジェクト:人物伝
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アレクサンドル・リャプノフ (露:Александр Михайлович Ляпунов リプノーフ,英:Aleksandr Lyapunov1857年6月6日ヤロスラーヴリ1918年11月3日)は、ロシア数学者物理学者。カタカナではリアプノフとも表され、ラテン文字に翻字された姓の綴りはLjapunov、Liapunov、Ljapunowとも表記される。作曲家ピアニストセルゲイ・リャプノフは弟。

生涯[編集]

幼年[編集]

リャプノフは帝政ロシア時代にヤロスラヴリで生まれた。彼の父ミハイル・ワシレーヴィッチ・リャプノフ天文学者としてよく知られ、デミドフスキーリュケイオンの長であった。 大学当局の反応のためにロバチェフスキーが辞任した後、1864年カザン大学の天文台で仕事を完全に諦めた。彼はシンビルスク州(現在のウリヤノフスク州)にある妻の屋敷へ家族とともに引っ越した。そこで彼は、自分の時間を長男アレクサンドルとセルゲイの教育につぎ込んだ。1868年に父親が没した後、叔父であり、生理学者のイヴァン・セチェノフ、兄弟であるR. M. セチェノフから教育を受ける。叔父の家では、遠い従妹であるナターリヤ・ラファイロヴナと学ぶが、1886年に彼女を妻としている。1870年にリャプノフの母親は息子とともに、ニジニ・ノヴゴロドに移り、そこでギムナジウムの第3学年に進む。ギムナジウムは1876年に卓越した成績で卒業した。

学歴[編集]

1876年、サンクトペテルブルク大学の数理物理学科に入学するが、一か月後に数学科に移る。当時のサンクトペテルブルク大学の数学科の教授には、 パフヌティ・チェビシェフやその弟子であるアレクサンドル・コルキン英語版イェゴール・ゾロタレフ英語版がいた。自身の最初の科学論文は、力学の教授であるD. K. Bobylevの指導の下、執筆している。1880年には、流体静力学の業績で金賞を受賞する。これは、最初の発行論文である"一定形状の容器内の重液中における重物体の平衡"と"静水圧のポテンシャルについて"の基となっている。リャプノフは1880年に大学の課程を修了した。その2年前には、アンドレイ・マルコフもサンクトペテルブルク大学を卒業していたのだが、生涯を通じて、マルコフと科学分野での交流を続けることになる。

1884年には、修士論文"平衡状態の回転流体の楕円体形状の安定性について"が受理された。このテーマはチェビシェフによって提起されたものであったが、これはそれ以前にもゾロタレフやコワレフスカヤといった学生にも与えていたテーマであった。この論文は、1885年に「天文学報」(Bulletin Astronomique)にて公表された。1904年には、フランス語に完全に翻訳され、ヨーロッパの数学者、物理学者、天文学者の関心を集めることとなった。[1]

教育と研究[編集]

1895年にリャプノフは私講師(Privatdozent)となったが、ハリコフ大学で力学の講座を担当して欲しいとの申し出があり、その年に赴く。ハリコフにおける滞在の最初の頃について、リャプノフは自伝の中で、次のように述べている。

"ここで最初は、リャプノフの研究活動は切り詰められた。講座課程を苦心して作成し、学生のための講義草稿をまとめることが必要であり、多くの時間が費やされた。"[1]

彼の学生で共同研究者でもあるウラジーミル・ステクロフは、彼の最初の講義を次のように回想している。

"年齢が学生らとほとんど変わらない、顔立ちの整った若者が、聴衆の前に現れた。そこには、老学部長で全学生から尊敬されていたレヴァコフスキー教授もいた。学部長が去ると、揺れる声で力学系の講義でなく、質点の動力学の講義を始めた。この科目は 学生たちにとってドラリュ教授の講義によって、既知のものであった。しかし、リャプノフが我々に教えたものは初めて聞くものであり、このような題材はいかなる教科書にも見たことがないものであった。講義への反目はあっという間に吹き飛んだ。あの日以来、学生達は特別な敬意を払うようになった。"[1]

1892年、博士論文"運動の安定性の一般問題"が受理された。。論文はモスクワ大学でニコライ・ジュコーフスキーとV. B. Mlodzeevskiによって審査され、1892年9月12日に受理された。この博士論文は修士論文と同様に、フランス語に翻訳された。翌年、リャプノフはハリコフ大学の正教授に就任した。[1]

後年[編集]

科学アカデミーの正会員と大学の応用数学部門の常任教授に選出された後、1902年、リャプノフはサンクトペテルブルクに戻った。大学のこの職位は彼の師であったチェビシュフの死後、空いたままになっていた。教育活動の義務を負わないため、この職で、リャプノフは研究に専念することができた。特に、彼自身の研究活動を始める端緒であったチェビシェフの問題に解決をもたらすことができた。

1904年には、ローマでの第4回国際数学者会議に参加している。また、レオンハルト・オイラーの論文選集の刊行作業に加わり、18巻と19巻の編者になっている。[1]

1917年6月末には妻を連れ、オデッサにいる兄弟のところに旅立った。妻は結核を患っており、医者の指示に従って引っ越したのだった。妻は、1918年10月31日に亡くなった。同日、リャプノフは自分の頭をピストルで撃ち抜き、3日後に死亡した。

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]