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アスカナズ・ムラヴャン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アスカナズ・アルテミエヴィチ・ムラヴャン
Асканаз Артемьевич Мравян
Ասքանազ Հարությունի Մռավյան
生年月日 (1886-01-02) 1886年1月2日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国エリザヴェトポリ県ロシア語版エリザヴェトポリ郡英語版エリザヴェトポリ
没年月日 (1929-10-23) 1929年10月23日(43歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
アルメニア社会主義ソビエト共和国エレヴァン郡エレヴァン
出身校 ペトログラード精神神経学院教育学部卒業
前職 ジャーナリスト
所属政党ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ

アルメニア共産党英語版)中央委員会
書記長
在任期間 1922年4月29日 - 1923年

アルメニア軍事革命委員会副議長
在任期間 1920年11月29日 - 1921年3月24日

人民委員会議副議長・教育人民委員
在任期間 1923年1月23日 - 1929年10月23日

外務人民委員
在任期間 1921年5月21日 - 1922年
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アスカナズ・アルテミエヴィチ(アルチュノヴィチ / ハルチュニ)・ムラヴャンロシア語: Асканаз Артемьевич (Арутюнович) Мравянアルメニア語: Ասքանազ Հարությունի Մռավյան1886年1月2日 - 1929年10月23日)は、アルメニア人のボリシェヴィキ。

生涯

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青年期

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1886年1月2日(ユリウス暦1885年12月21日)、ロシア帝国エリザヴェトポリ県ロシア語版エリザヴェトポリの中産階級に生まれた[1]1905年からロシア社会民主労働党の党員となり、1915年ペトログラード精神神経学院 (ru) 教育学部を卒業し、同地やチフリスエリヴァニバクーの党組織で活動[1]。1915年から1917年にかけてはチフリスでボリシェヴィキ系のアルメニア語新聞『パイカル』(hy) や『バンヴォリ・クリヴ』の編集者を務めた[2]。1917年にはボリシェヴィキのチフリスおよびカフカース地方委員会委員となり、翌1918年にはカフカース地方委書記と『カフカースカヤ・プラウダ』紙編集者も務めた[2]

革命期

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1919年9月、アルメニア第一共和国統治下のエレヴァンで、サルキス・カシヤンらとともにボリシェヴィキ・アルメニア委員会を秘密裏に結成[3]。それが弾圧された後も、翌1920年11月にバクーでカシヤンらとともにアルメニア軍事革命委 (hy) を結成し[4]、同月29日から翌1921年3月24日までその副議長に就いた[2]。1920年12月にアルメニア第一共和国がボリシェヴィキに権力を移譲した際には、エレヴァンでアルメニア社会主義ソビエト共和国最初の暫定政権メンバーとなった[4]。1921年5月21日から翌1922年までは同国外務人民委員を務め[2]、1921年3月にはポゴス・マキンツャンとともに、アルメニア共和国代表としてトルコとの間に結ばれたカルス条約に署名している[5]。1921年2月から1922年1月26日まではアルメニア共産党英語版中央委局員でもあった[2]

革命後

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1921年から『ソヴェタカン・ハヤスタン』(hy) 紙編集者、同年6月12日からアルメニア共和国人民委員会議ナゴルノ・カラバフ非常全権を務め、1922年4月29日から翌1923年まではアルメニア共産党中央委書記長も務めた[2]ソビエト連邦中央執行委員にもなり[1]、1923年1月23日からはアルメニア共和国人民委員会議副議長および教育人民委員を務めていたが、在職中の1929年10月23日にエレヴァンで[2]当局により殺害された[6]

ムラヴャンはエレヴァン中央墓地に葬られ[7]、その名はギュムリの国立ドラマ劇場 (hy)[8] や、フラズダン英語版の小学校に付けられた[6]

脚注

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  1. ^ a b c Мравян // Моршин — Никиш. — М. : Советская энциклопедия, 1974. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 17).
  2. ^ a b c d e f g Мравян Асканаз Артемьевич (Арутюнович)”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2018年3月10日閲覧。
  3. ^ Армянская Советская Социалистическая Республика / Ц. П. Агаян // Ангола — Барзас. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 2).
  4. ^ a b Акопян Т.英語版 (2017年10月30日). “Падение Карса – октябрь, 1920”. Հայկական ուսումնասիրությունների ԱՆԻ հիմնադրամի. http://www.aniarc.am/2017/10/30/the-fall-of-kars-1920-russian-text/ 2018年3月10日閲覧。 
  5. ^ “Армения готовится денонсировать Карсский договор”. Azeri.ru - Азербайджанцы в России. (2008年3月17日). オリジナルの2016年9月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160920111158/http://azeri.ru/papers/echo-az_info/15400/ 2016年5月5日閲覧。 
  6. ^ a b Ասքանազ Մռավյան”. Հրազդանի Ասքանազ Մռավյանի անվան հ․4 հիմնական դպրոց. 2018年3月10日閲覧。
  7. ^ Ասքանազ Մռավյան Հարությունի”. HUSH.AM. 2018年3月10日閲覧。
  8. ^ ГЮМРИЙСКИЙ ДРАМАТИЧЕСКИЙ ТЕАТР ИМ. АДЖЕМЯНА”. Кино-Театр.РУ. 2018年3月10日閲覧。
党職
先代
セルゲイ・ルカシン
アルメニア共産党(ボ)中央委員会書記長
1922年4月29日 - 1923年
次代
アショト・ヨアニシャンアルメニア語版
第一書記
公職
先代
アレクサンドル・ベグザジャン
外務人民委員
1921年5月21日 - 1922年
次代
なし
先代
サルキス・アボヴャン
教育人民委員
1923年1月23日 - 1929年10月23日
次代
アルタヴァズド・エギアザリャン