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*[[アルゼンチン]][[サルタ]]・[[サルタの聖母]]:[[1990年]]にアルゼンチンのごく普通の主婦に聖母が出現し、最近は超自然現象で難病が治癒するなどの現象が起こっている。地元司教の公認は出ていない。地元司教の「信仰(崇敬)表明の認可」の段階。<ref name=salsa1>[http://www.actiweb.es/peregrinacion/english.html]Peregrinaciones desde Jujuy al cerro de las apariciones de la Santísima Virgen María, la Inmaculada Madre del Divino Corazón Eucarístico de Jesús</ref> |
*[[アルゼンチン]][[サルタ]]・[[サルタの聖母]]:[[1990年]]にアルゼンチンのごく普通の主婦に聖母が出現し、最近は超自然現象で難病が治癒するなどの現象が起こっている。地元司教の公認は出ていない。地元司教の「信仰(崇敬)表明の認可」の段階。<ref name=salsa1>[http://www.actiweb.es/peregrinacion/english.html]Peregrinaciones desde Jujuy al cerro de las apariciones de la Santísima Virgen María, la Inmaculada Madre del Divino Corazón Eucarístico de Jesús</ref> |
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*[[ニカラグア]] クアパ・[[クアパの聖母]] [[1980年]]に農民のベルナルド・マルティネスに聖母が出現。ロザリオの祈りの勧めと、和解のメッセージを残した。地方司教公認<ref name=qu1>[http://www.miraclehunter.com/marian_apparitions/approved_apparitions/cuapa/index.html] The Miracle Hunter Cuapa</ref> |
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2015年8月25日 (火) 03:49時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c6/Fra_bartolomeo_02_Vision_of_St_Bernard_with_Sts_Benedict_and_John_the_Evangelist.jpg/270px-Fra_bartolomeo_02_Vision_of_St_Bernard_with_Sts_Benedict_and_John_the_Evangelist.jpg)
聖母の出現(せいぼのしゅつげん、Marian apparition)とは、聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事をいう。
概説
この出来事を目撃した人はキリスト教徒に限らない。民衆の間に伝えられている話や噂は非常に多数あり、その数は数千にもおよぶ。
ただし、そのうちカトリック教会が公認したのは16ほどにすぎない。カトリック教会は、各地区の司教・バチカン(教皇庁)の担当者などの認定作業を経てこれらの出来事を公認するか否かを表明している。カトリック教会によると、これは人々が聖母の形をとった悪霊に支配されないために必要な手順であるとされる。
カトリック教会には従来、聖母マリアは受胎の瞬間から原罪を免れていたとする教えがある。これを「無原罪の御宿り」という。原罪を免れているということは、罪の結果である死を免れることになり、さらには死の前兆である老いも免れていたことになる。このために、西ヨーロッパのカトリック圏で描かれる聖母はみな若い女性であり、有名なミケランジェロのピエタの聖母も、とても推定30歳前後のイエスの母とは思えない若い女性として描かれている[1]。そして聖母は生涯の終わりに死ぬのではなく、身体とともに天に上げられたとされる。これを「聖母被昇天」という。このために、カトリックの教えでは聖母は未だに身体とともに生き続けていることになり、これが聖母の出現を即座に否定できない根拠となっている。
聖母の警告や聖母への誓いをないがしろにしたために、悲惨な結果を迎えたとカトリック信者などに信じられている歴史上の人物の例としては、フランス王朝があげられる。フランス王朝は、ルイ14世が聖母に奉献した聖堂建設などの誓いを放棄した結果、破綻し、革命でとらえられた王が後悔して牢内で命令を発した際は既に手遅れであった。
空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)と呼ばれた聖ヨハネ・パウロ2世は、聖母の出現地とその意向をくまなく網羅したとされる。
カトリック教会・教皇庁公認の出現
- スペイン・サラゴサ 西暦40年、布教がうまくいかないと嘆く聖大ヤコブに聖母が幼きイエスと天使を伴い出現。ただしこの時、聖母は存命中であったとされる。なお、聖母が柱(ピラール)の上に立っていたのでピラールの聖母と呼ばれる。ローマ・カトリック教会公認ではあるが、伝説の聖母出現に数えられている。[2]。
- イタリア・ローマ:子供がいないと嘆いていた裕福な夫妻の夢に聖母が現れ、雪で示す場所に教会を建てるよう勧めた。教皇も同じ日に同じ夢を見た。現在の雪の聖母教会は、非常に暑い8月に雪に覆われていた場所に建てられた。この話は1250年頃にトレントのフラ・バルトロメオによって記述されたものであり、出現の正確な年代は分かっていない[3]。雪の聖母と呼ばれる。
- フランス・サン=テティエンヌ=ル=ロウ: 1664年から1718年の54年間にわたりブノワット・ランキュレルに出現。1665年に教区司教認可。2008年教皇庁より公認、21世紀初の認可となる。「ロウの聖母」・「罪人の避難場所としての聖母」とも呼ばれる。[5]
- フランス・緑のスカプラリオの聖母:1840年1月28日から9月8日のうちに数回の出現。修道女のジュスティーヌ・ビスケイブリュに対し、緑のスカプラリオを渡し、このスカプラリオによって、信仰のない人は信仰の恵みを受け、特に臨終の時に大きな助けを受けると告げた。
- フランス・ルルドの聖母:1858年2月11日、14歳の少女ベルナデッタ・スビルーの目の前に現れた。病者への癒しと慰め。
- ポーランド ギエトシュヴァウトの聖母:1877年2人の女子(12~13歳)に御出現になった。ロザリオの祈りの勧め。癒しの泉と、村人の回心。[8]
- イタリア・ローマ:1842年シオンの聖母 アンチ・カトリックのユダヤ教徒の前に出現。そのユダヤ教徒はカトリック信者に改宗した。なお、このユダヤ教徒は「試しに」と揶揄しながら奇蹟のメダイを付けていた。[10]
- ポルトガル・ファティマの聖母:1917年5月13日、一次大戦の終焉と二次大戦の勃発、人々の回心への要求と地獄の実在、などを預言。またロシアの奉献の必要性を訴える。1930年、レイリア司教が公認。教皇庁認可。
- ベルギー・バンヌ(バヌー):1933年 バヌーの聖母(別名「貧しき者たちの聖母)」ベルギーのバンヌ(バヌー)のマリエット・ベコという12歳の少女のもとに出現した。病者への癒しと慰め。地元司教区、教皇庁認可。[12]
- イタリア・シラクサの涙の聖母像:1953年、病者への励ましと慰め。シラクサの涙の聖母像
- ルワンダ・キベホ:キベホの聖母 1981年から1991年まで7人の男女に個々に出現。ただし、教皇庁承認となったのは3人の事例のみ。紛争直前に出現、ロザリオの祈りの強い勧め、断食と罪の償いを求める。2001年、教皇庁承認。[13]
カトリック教会・教皇庁未公認の出現
聖母出現の報告は数千例以上あり、調査しきれていない。このため、教区司教は認可したが、バチカン(教皇庁)によって承認されていない出現も含まれる。
- フランス各地:900年代にフランス各地に聖母が幾度か出現。滅びないようにと人々に回心と祈りを呼びかけ、人々は仕事もそこそこに聖母の教え通り祈りに祈って祈り続けた。1000年を過ぎてしばらくすると、人々は今度は何事もなかったことについてあらためて聖母に感謝の祈りを捧げている。
- 日本・仙台:聖母像に助命を懇願した子供の救命。[要出典]
- ベトナム・ラ・ヴァン:1798年、迫害を受けた信者を守った。
- 日本・津和野:1867年、拷問を受けている信者に語りかけ、励ました。教区司教が認可。
乙女峠マリア聖堂として建堂されている。
- アメリカ合衆国ウィスコンシン州 ロビンソンヴィルの聖母:1859年、28歳の女性に出現、荒れているこの世界を正しく導く学校を作るように願った。[15]
- 日本・秋田の聖母:1973年、アムステルダムの聖母像をモデルに作られた聖母像から涙、回心を警告。1984年、教区司教が書簡で「奇跡としての超自然性を否定できないので、ローマ聖座より最終判定が示されるまで教区信者の巡礼を禁じない」[19]と発表し、1988年に教皇庁のヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(のちの教皇ベネディクト16世)が受理。その後、教皇庁による公式声明はない。
- アルゼンチン・サン・ニコラス (ブエノスアイレス) 1983年9月25日~1990年2月11日 「サン・ニコラスの聖母」または、「サン・ニコラスのロザリオの聖母」と呼ばれる。一般の神学教育を受けていない主婦に聖母が出現、多くのメッセージを語った。そのメッセージは人々に語り継がれ、人々の生き方を変えた。その他、病気の治癒等の奇蹟が起きる。地元司教公認[20]
- ベタニア・ベネズエラ ベタニアの聖母:1976年3月26日~1990年1月5日聖母マリアの目撃者が100人以上に昇る。 地元司教公認。[21]
- 司祭のマリア運動 聖母マリアから内的語らいと呼ばれる私的啓示を受けたカトリック教会の司祭・ステファノ・ゴッビ神父によって始められた聖母への崇敬運動である。ゴッビ神父によると、彼がポルトガルファティマの聖母を巡礼中に、この「私的啓示」を受け、その後も大量のメッセージを受け、それをまとめた書籍「題名:聖母から司祭へ」が出版されている。[22]
- ナイジェリア・アイオペの聖母1992年12歳の少女に聖母が出現、その他太陽の奇蹟などが続き、多くの巡礼者を集めるが、地元司教の「信仰(崇敬)表明の認可」の段階で、地元司教から出現の公認は出ていない。
- イタリア・モンティキアリ・奇しき薔薇の聖母:1947年の春、看護師をしていたピエリナ・ジリに出現。その後、モンティキアリとフォンタネレに数回ご出現。「奇しき薔薇の聖母」としてご出現されたマリア様は、司祭や修道者の刷新を特別に望んでおられます。
- アルゼンチンサルタ・サルタの聖母:1990年にアルゼンチンのごく普通の主婦に聖母が出現し、最近は超自然現象で難病が治癒するなどの現象が起こっている。地元司教の公認は出ていない。地元司教の「信仰(崇敬)表明の認可」の段階。[23]
出現の意向は、「苦難を受けている人々への励まし」「救命」「救霊」「警告」に区分される。
カトリック教会が否定する出現
- アメリカ・ニューヨークベイサイド
- リトル・ペブル:実現しない過激な予言や司祭の貞潔・一夫一婦制の否定により、否定される。
- ボスニア・ヘルツェゴビナ・メジュゴリエの聖母:1981年〜、回心と平和を求めた。聖母は「これが私の最後の出現です」と伝えた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などの旧ユーゴスラビア解体に伴う戦争の中での「出現」。これに対し、現地モスタル司教区のザニチ司教、ならびに後任のラトゥコ・ペリッチ司教はその超自然性を否定し、公的な巡礼禁止の声明を出している。
正教会
正教会でも生神女マリヤが現れたと伝えられる聖人伝などはある。「だが、特に「聖母の出現」といった概念整理は行われていない[要出典]」と述べた人[誰?]がいる。
脚注
- ^ フランスのカトリック作家であるジョルジュ・ベルナノスは、『田舎司祭の日記』(1936)のなかで、マリアは原罪なきゆえに、「罪よりも若く、人祖よりも若い」としいている。cf. Journal d’un curé de champagne in Œuvres complètes, Paris, coll.《Pléiade》, Gallimard, 1961, p.1194.
- ^ [1]New Advent Nuestra Señora Del Pilar
- ^ [2]New Advent Our Lady of the Snow
- ^ [3] Our Lady of Mount Carmel
- ^ Mann, Stephanie A. "Who Is Our Lady of Laus?", Our Sunday Visitor, March 28, 2014
- ^ “Marian Apparitions”. University of Dayton. 2013年11月23日閲覧。
- ^ 聖母の出現 現代フォークカトリシズム考 関 一敏著 日本エディタースクール出版部版 ISBN4-88888 C3022 P2800E
- ^ http://www.miraclehunter.com/marian_apparitions/approved_apparitions/gietrzwald/index.html]The Miracle Hunter Gietrzwald, Poland (1877)
- ^ [4]
- ^ [5] Our Lady of the Miracle / Our Lady of Zion
- ^ [6]
- ^ [7]
- ^ [8] The Mircle Hunter Kibeho, Rwanda (1981-1989)
- ^ [9] The Apparition at Tre Fontane
- ^ [10] Robinsonville (now Champion), WI, USA (1859)
- ^ [11] Our Lady of Heede, Queen of the Poor Souls in Purgatory
- ^ Miravalle, Mark and Russell, Richard L., "The Fifth Marian Dogma: The Church’s Unused Weapon", Catholic Exchange, September 24, 2013
- ^ [12]Philippine Marian Site
- ^ 故ヨハネ伊藤庄治郎司教による「秋田の聖母像に関する司教書簡」(1984年4月22日・PDF) 秋田の聖母マリア(101 New Life Network)
- ^ [13] HISTORY OF MARY OF THE ROSARY OF SAN NICOLAS
- ^ [14] The Betania Apparitions of the Blessed Virgin Mary
- ^ [15]司祭のマリア運動とは何か
- ^ [16]Peregrinaciones desde Jujuy al cerro de las apariciones de la Santísima Virgen María, la Inmaculada Madre del Divino Corazón Eucarístico de Jesús
- ^ [17] The Miracle Hunter Cuapa
参考文献
邦文
- 関一敏『聖母の出現 – 近代フォーク・カトリシズム考』日本エディタースクール出版部、1993年 ISBN 4-88888-200-2
- シルヴィ・バルネイ『マリアの出現』せりか書房、1996年 ISBN 978-4796701976
- シルヴィ・バルネイ『聖母マリア』創元社、2001年 ISBN 978-4422211558
- 関一敏「19世紀フランス聖母出現考察:ルルドとポンマン」(日本文化人類学会『民族學研究』第48巻、1983年)
- 藤原久仁子「『マリア出現に見られる物語性』」(地中海歴史風土研究所『地中海歴史風土研究史』第12巻、2000年)
- 岡本亮輔「聖地体験における真正性の多様化 ―パリ・奇蹟のメダル教会における巡礼/ツーリズム」(筑波大学宗教学・比較思想学研究会『宗教学・比較宗教学論集』第10巻、2009年)
- シスター・エマヌエル『メジュゴリエの証言者たち』三上茂訳 ドン・ボスコ社、2000年 ISBN 4-88626-279-1
- ルネ・ローランタン、リュデヴィット・ルプツィッチ『メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現』尾崎正明訳 聖母の騎士社、1987年
欧文
- Francisco Sanchez-Ventura y Pascua, Y el agua seguira curando : Apariciones de la Virgen en el Alto de Umbe, Zaragoza, Circulo, 1973.
- Janice T. Connell, Meetings with Mary : Visions of The Blessed Mother, New York, Ballantine Press, 1996.
- René Laurentin (dir.), Dictionnaire des « apparitions » de la Vierge Marie : Inventaire des origines à nos jours : Méthodologie, bilan interdisciplinaire, prospective, Paris, Fayard, Paris, 2007.
- Marie-Gabrielle Lemaire, Les Apparitions mariales, Namur, Fidélité, 2008.