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高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現[[諏訪市立高島小学校]])を卒業。高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の[[永田鉄山]]と同級であり、また同じく諏訪出身で[[岩波書店]]の創立者である[[岩波茂雄]]らとは生涯にわたって交友があったとされる。長野県立諏訪中学校(現[[長野県諏訪清陵高等学校]])を卒業。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現[[諏訪市立高島小学校]])を卒業。高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の[[永田鉄山]]と同級であり、また同じく諏訪出身で[[岩波書店]]の創立者である[[岩波茂雄]]らとは生涯にわたって交友があったとされる。長野県立諏訪中学校(現[[長野県諏訪清陵高等学校]])を卒業。
[[1909年]]に[[東京帝国大学]][[理論物理学]]科を卒業し、中央気象台(現[[気象庁]])に入る。[[1915年]]『音の異常伝播の研究』により[[理学]][[博士]]となり、[[1920年]]同研究により[[学士院賞]]を受賞。同年より[[ヨーロッパ]]に留学し、[[ノルウェー]]のV.ビエルクネスに師事、前線論的新[[天気予報]]術を学ぶ。帰国後の[[1922年]]に中央気象台測侯技術官養成所(現[[気象大学校]])の主事となり、[[1924年]]に[[寺田寅彦]]の後任として東大[[教授]]に就任。気象台では天気予報を担当し、[[1941年]][[岡田武松]]の後任として第5代中央気象台長に就任。戦時中は軍の嘱託で[[風船爆弾]]の研究にも携わり、そのことが原因で戦後[[公職追放]]となった。以後は野にあって著述に専念。[[渦]]・[[雲]]・気象光学など、[[気象]]の幅広い分野において独創的な研究を行い、後進の育成にも力を尽くした。また、郷里諏訪地方の「御神渡」に関する研究もある。著述などによる啓蒙的な活動にも精力的で、「お天気博士」の愛称で親しまれた。現在の気象用語の基礎を作った。日本の[[グライダー]]研究の草分け的存在でもある。[[1937年]][[学士院会員]]。
[[1909年]]に[[東京帝国大学]][[理論物理学]]科を卒業し、中央気象台(現[[気象庁]])に入る。[[1915年]]『音の異常伝播の研究』により[[理学]][[博士]]となり、[[1920年]]同研究により[[学士院賞]]を受賞。同年より[[ヨーロッパ]]に留学し、[[ノルウェー]]のV.ビエルクネスに師事、前線論的新[[天気予報]]術を学ぶ。帰国後の[[1922年]]に中央気象台測侯技術官養成所(現[[気象大学校]])の主事となり、[[1924年]]に[[寺田寅彦]]の後任として東大[[教授]]に就任。気象台では天気予報を担当し、[[1941年]][[岡田武松]]の後任として第5代中央気象台長に就任。戦時中は軍の嘱託で[[風船爆弾]]の研究にも携わり、そのことが原因で戦後[[公職追放]]となった。以後は野にあって著述に専念。[[渦]]・[[雲]]・気象光学など、[[気象]]の幅広い分野において独創的な研究を行い、後進の育成にも力を尽くした。また、郷里諏訪地方の「御神渡」に関する研究もある。著述などによる啓蒙的な活動にも精力的で、「お天気博士」の愛称で親しまれた。現在の気象用語の基礎を作った。日本の[[グライダー]]研究の草分け的存在でもある。[[1937年]][[学士院会員]]。
英語名は、故郷の発音に忠実にするため、Fujiwharaと綴るのが正しい。Fujiwaraは誤り。


[[作家]]の[[新田次郎]]は[[甥]]に当たる。
[[作家]]の[[新田次郎]]は[[甥]]に当たる。

2008年2月5日 (火) 12:29時点における版

藤原 咲平ふじわら さくへい1884年10月29日 - 1950年9月22日)は、長野県諏訪市生まれの男性気象学者

来歴・人物

高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)を卒業。高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の永田鉄山と同級であり、また同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があったとされる。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。 1909年東京帝国大学理論物理学科を卒業し、中央気象台(現気象庁)に入る。1915年『音の異常伝播の研究』により理学博士となり、1920年同研究により学士院賞を受賞。同年よりヨーロッパに留学し、ノルウェーのV.ビエルクネスに師事、前線論的新天気予報術を学ぶ。帰国後の1922年に中央気象台測侯技術官養成所(現気象大学校)の主事となり、1924年寺田寅彦の後任として東大教授に就任。気象台では天気予報を担当し、1941年岡田武松の後任として第5代中央気象台長に就任。戦時中は軍の嘱託で風船爆弾の研究にも携わり、そのことが原因で戦後公職追放となった。以後は野にあって著述に専念。・気象光学など、気象の幅広い分野において独創的な研究を行い、後進の育成にも力を尽くした。また、郷里諏訪地方の「御神渡」に関する研究もある。著述などによる啓蒙的な活動にも精力的で、「お天気博士」の愛称で親しまれた。現在の気象用語の基礎を作った。日本のグライダー研究の草分け的存在でもある。1937年学士院会員。 英語名は、故郷の発音に忠実にするため、Fujiwharaと綴るのが正しい。Fujiwaraは誤り。

作家新田次郎に当たる。

著書

  • 『雲を掴む話』(岩波書店 通俗科學叢書第5編 1926年
  • 『雲』(岩波書店 1929年
  • 『気象と人生』(鉄塔書院 1932年
  • 『地渦・地裂及び地震(古今書院 1932年)
  • 『大気中の光象』(鉄塔書院 1933年
  • 『氣象と人生(岩波書店 1935年
  • 『天文や氣象の話(岩波書店 1935年)
  • 『渦巻の実験』(河出書房 河出物理実験講座 1939年
  • 『気象感触』(岩波書店 1942年
  • 『生みの悩み』(蓼科書房 1947年
  • 『暦と生活』(三省堂 1948年
  • 『気象ノート』(蓼科書房 1948年)
  • 『寺田寅彦集(岩波書店 ワールド文庫 1949年
  • 『群渦―気象四十年』(遺稿 羽田書店 1950年
  • 『日本気象学史』(岩波書店 1951年
  • 『暦と生活』(三省堂 三省堂百科シリーズ 1955年
  • 『雲』(岩波書店)
  • 『地渦について』(岩波書店)
  • 『大気物理学』(岩波書店)
  • 『気象光学』(岩波書店 岩波講座)

関連項目

外部リンク