「棟方志功」の版間の差分
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'''棟方 志功'''('''むなかた しこう'''、[[1903年]][[9月5日]] - [[1975年]][[9月13日]])は[[日本人]]の[[版画家|板画家]]。[[青森県]]出身。[[20世紀]]の[[美術]]を代表する世界的巨匠。[[1942年]]以降、彼は[[版画]]を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。 |
'''棟方 志功'''('''むなかた しこう'''、[[1903年]][[9月5日]] - [[1975年]][[9月13日]])は[[日本人]]の[[版画家|板画家]]。[[青森県]]出身。[[20世紀]]の[[美術]]を代表する世界的巨匠。[[1942年]]以降、彼は[[版画]]を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。 |
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[[1903年]]、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。少年時代に[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指す。 |
[[1903年]]、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。少年時代に[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指す。 |
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[[1924年]]、東京へ上京する。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出した。 |
[[1924年]]、東京へ上京する。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出した。 |
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1945年、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。この地の自然をこよなく愛し、構えた住宅は「愛染苑」と呼ばれ、現在も邸宅は保存され、記念館が設立されている。1954年まで在住。 |
[[1945年]]、戦時疎開のため[[富山県]][[西礪波郡]][[福光町]](現[[南砺市]])に移住。この地の自然をこよなく愛し、構えた住宅は「愛染苑」と呼ばれ、現在も邸宅は保存され、記念館が設立されている。[[1954年]]まで在住。 |
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[[1956年]]、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に「湧然する女者達々[http://picasaweb.google.com/jknudes/MunakataShikoJapanese190375/photo#5082238578555247170][http://picasaweb.google.com/jknudes/MunakataShikoJapanese190375/photo#5082238587145181778]」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。 |
[[1956年]]、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に「湧然する女者達々[http://picasaweb.google.com/jknudes/MunakataShikoJapanese190375/photo#5082238578555247170][http://picasaweb.google.com/jknudes/MunakataShikoJapanese190375/photo#5082238587145181778]」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。 |
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[[1969年]](昭和44年)[[2月17日]]、青森市から[[名誉市民|名誉市民賞]]を授与され、翌年には[[文化勲章]]を受章する。[[従三位]]。 |
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青森県[[青森市]]松原には志功の私費によって建てられた[[棟方志功記念館]]([[校倉造]])があり、神奈川県[[鎌倉市]][[鎌倉山]]のアトリエ跡に[[棟方板画館]]がある。また、埼玉県[[秩父市]]の[[羊山公園]]にある「やまとーあーとみゅーじあむ」では、棟方志功の情熱あふれる力強い作品 が観られる。なお、2006年に開館した[[青森県立美術館]]でも、常設展示してある。 |
青森県[[青森市]]松原には志功の私費によって建てられた[[棟方志功記念館]]([[校倉造]])があり、神奈川県[[鎌倉市]][[鎌倉山]]のアトリエ跡に[[棟方板画館]]がある。また、埼玉県[[秩父市]]の[[羊山公園]]にある「やまとーあーとみゅーじあむ」では、棟方志功の情熱あふれる力強い作品 が観られる。なお、2006年に開館した[[青森県立美術館]]でも、常設展示してある。[[富山県]][[南砺市]][[福光町]]には、かつて居住していたところに棟方志功記念館「愛染苑」が建てられている。 |
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== 代表作 == |
== 代表作 == |
2007年12月23日 (日) 14:21時点における版
棟方 志功(むなかた しこう、1903年9月5日 - 1975年9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
[リンクのタイトル]== 人物 == 1903年、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。少年時代にフィンセント・ファン・ゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指す。
1924年、東京へ上京する。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出した。
1945年、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。この地の自然をこよなく愛し、構えた住宅は「愛染苑」と呼ばれ、現在も邸宅は保存され、記念館が設立されている。1954年まで在住。
1956年、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に「湧然する女者達々[1][2]」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。
棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道図』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名。 『いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは 自分の力で仕事をするとうようなことからいや、自分というものは小さいことだ。 自分というものは、なんという無力なものか。 何でもないほどの小さいものだという在り方 自分から物が生まれたほど小さいものはない。 そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします。』と言っている。
1969年(昭和44年)2月17日、青森市から名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。従三位。
青森県青森市松原には志功の私費によって建てられた棟方志功記念館(校倉造)があり、神奈川県鎌倉市鎌倉山のアトリエ跡に棟方板画館がある。また、埼玉県秩父市の羊山公園にある「やまとーあーとみゅーじあむ」では、棟方志功の情熱あふれる力強い作品 が観られる。なお、2006年に開館した青森県立美術館でも、常設展示してある。富山県南砺市福光町には、かつて居住していたところに棟方志功記念館「愛染苑」が建てられている。
代表作
板画
- 釈迦十大弟子
- 御鷹揚げの妃々達々
著書
- 『わだばゴッホになる』日本経済新聞社、1975年12月 ISBN 4820542524
その他
- 埼玉県行田市にある「十万石ふくさや」が販売する「十万石饅頭」のパッケージデザインを手がけている。棟方の書いた「まんじゅう姫」の絵と「うまいうますぎる」というキャッチフレーズはテレビ埼玉でCMとして放送され、見るものに強烈なインパクトを与えている。このため、埼玉県民の間では「十万石まんじゅう」のCMの知名度は非常に高い。
- ゴッホのファンになって以来、頻繁にゴッホの名を語る棟方に対し周囲の知人は「風邪でも引いたのか」とからかったという。
- 志功は、「アイシテモ愛しきれない オドロイテモ驚ききれない ヨロコンデモ喜びきれない カナシンデモ悲しみきれない それが版画です」と言ったという。
- 版画の「はん」を版ではなく板と書いてハンと読ませる。それは板の性質をちゃんと使うためであり、版だとそれを半分にしていることになるからだそうだ。