高野聖
高野聖(こうやひじり)は、日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った僧。蓮華谷聖、萱堂聖、千住院聖。ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものであった。
同様の遊行者は奈良時代に登場し、高野山では平安時代に発生。開祖として小田原聖教懐、明遍、重源らが知られる。
高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。学侶方、行人方とともに高野山の一勢力となる。諸国に高野信仰を広め、連歌を催すなど文芸活動を行い民衆に親しまれたが、一部においては俗悪化し、「夜道怪(宿借)」とも呼ばれた(村の街道などで「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と呼ばわったためと云われる)。また「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」という俗謡もあった。
織田信長は1578年に高野聖を二千人近く虐殺した。江戸時代には活動が制限されるようになった。
文学作品
映画
参考文献
- 五来重著 『高野聖』. 増補5版(角川書店, 1998年, (『角川選書』;78)) ISBN 4047030791
関連事項
外部リンク