高橋三郎 (内務官僚)

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高橋 三郎(たかはし さぶろう、1899年明治32年)10月19日[1] - 1985年昭和60年)10月2日[2])は、日本の内務警察官僚実業家。官選高知県知事東北放送会長。

来歴[編集]

宮城県栗原郡岩ヶ崎町(現栗原市)出身[2]。高橋珍平の三男として生まれる[1]第二高等学校を卒業。大正12年(1923年)12月、高等試験行政科試験に合格。大正13年(1924年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し静岡県属となる[1][3]

以後、鹿児島県警察部保安課長、茨城県警視静岡県警視、埼玉県警視、鳥取県学務部長、岡山県学務部長、福島県書記官警察部長、内務書記官・警保局検閲課長、神奈川県書記官・警察部長、同県部長・警察部長などを歴任[1]

昭和18年(1943年)7月、高知県知事に就任。戦時下の対応に尽力。在任中の同年9月2日高知城公園の板垣退助像が金属供出の対象となり、応召出征することとなった時には、壮行式で式辞を送っている[4]

大東亜戦争勃發以來、既に一年九ヶ月。忠誠勇武なる皇軍將兵は南に北に廣袤數千キロメートル、史上類無き戰闘に皇國必勝不敗の基礎を確立しつゝありますのとき、今日、こゝ板垣伯の尊き英像、再び現身うつせみと化し、米英撃滅の第一線に立たんとするのであります。 — 高知県知事・髙橋三郎
(『板垣伯銅像壮行の辞[5]』)

昭和20年(1945年)4月、知事を退任[1]。同年に退官した[3]。その後、神奈川県観光社長、東北放送会長(1972年〜1983年)を務めた。昭和30年(1955年)4月、仙台市長選に出馬するも落選した[2]

補註[編集]

  1. ^ a b c d e 『新編日本の歴代知事』954頁。
  2. ^ a b c 『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』357頁。
  3. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』241頁。
  4. ^ 『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2023年8月12日閲覧。
  5. ^ 『板垣退助先生銅像供出録』池田永馬編、財団法人板垣会、昭和18年(1943年)11月20日

参考文献[編集]

  • 『板垣退助先生銅像供出録』池田永馬編、財団法人板垣会、昭和18年(1943年)11月20日
  • 『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会編、歴代知事編纂会、1991年
  • 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』秦郁彦編、東京大学出版会、2001年
  • 『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ編、日外アソシエーツ、1988年