桃井直美

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桃井 直美
生年月日 (1896-07-10) 1896年7月10日
出生地 高知県
没年月日 (1966-01-09) 1966年1月9日(69歳没)
出身校 東京帝国大学(現東京大学

岐阜県の旗 岐阜県知事(官選)
在任期間 1946年 - 1947年

高知県の旗 公選第2代 高知県知事
当選回数 1
在任期間 1948年 - 1951年
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桃井 直美(ももい なおみ、1896年明治29年)7月10日 - 1966年昭和41年)1月9日[1])は日本の政治家内務官僚。官選岐阜県知事、公選高知県知事。旧姓・公文。

生涯[編集]

高知県長岡郡国比左村比江36番屋敷で、県会議員公文伊三郎、亀寿の三男として生まれた。粟島航海学校に進み海軍兵学校を目指したが、近視のため断念。同海員学校長の桃井百太郎(?〜1945年11月14日)の養子となる[1]

その後、京都府第二中学校に編入し、第六高等学校を卒業[1]1923年12月、高等試験行政科試験に合格[2]1924年東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し福島県属・内務部勤務となる[2][3]

その後、福島県警部岩手県富山県三重県各勤務、佐賀県書記官・経済部長、山梨県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、神奈川県書記官・学務部長、愛媛県書記官・総務部長、埼玉県部長・内政部長などを歴任[3]

1946年2月、官選の岐阜県知事に就任。農地改革に備えて農地部を新設した。1947年3月、第1回岐阜県知事選挙に出馬するため知事を辞職するが、武藤嘉門に約14,000票差で敗れる[3]。同年11月、出身地の高知県で知事の川村和嘉治公職追放となったことを受け、自由党民主党の推薦を得て知事選に出馬。12万票以上の差をつけて当選。1948年1月、高知県知事に就任した[4]。財政再建、復興事業の促進、物部川水系電源開発、高知大学設立支援、高知県文化賞の創設などに取り組んだ[1]

1951年12月には自由党の推薦を得て再選を目指したが、川村和嘉治に敗れた。その後、浦和市に移り、埼玉県福祉協会常務理事、吉田茂秘書などを務めた[1]。墓所は青山霊園。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『高知県人名事典 新版』815頁。
  2. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』243頁。
  3. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』552頁。
  4. ^ 『新編日本の歴代知事』957頁。

参考文献[編集]

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
公職
先代
川村和嘉治
高知県の旗高知県知事
公選第2代:1951年 - 1955年
次代
川村和嘉治
官職
先代
野村儀平
岐阜県の旗岐阜県知事
官選第34代:1946年 - 1947年
次代
増本甲吉