米英撃滅国民大会

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米英撃滅国民大会(べいえいげきめつこくみんたいかい)とは、1941年12月10日後楽園球場で開催された大会。真珠湾攻撃からの3日後に、当時戦争に向かって突き進む政府に手を貸し、憎き米英撃滅に向け全国民の意志を1つにするために実施された大会であった。

この大会は8社の新聞社通信社による共催であり、8社は報知新聞社東京日日新聞社同盟通信社中外商業新報社読売新聞社国民新聞社朝日新聞社都新聞社である。

定刻午後1時には万雷の拍手に迎えられ海軍軍楽隊軍艦マーチを吹奏しながら入場し、開会した。

この大会で徳富蘇峰大東亜戦争は「義戦」であると講演した[1]

前史[編集]

アメリカの銀行家は、クリミアでのユダヤ共和国ロシア語版設立と引き換えに、ソ連の五ヶ年計画に対し貸付を行った[2]。ソ連はその資金を含む第二次五ヶ年計画において極東軍備を強化しており[3][4]、日本陸軍はソ連の極東軍備完成及び赤化攻勢の強化に危機を持っていた[5]。実際、日ソ国境紛争は年を追う毎に増していった。

1935年夏、中国共産党は、第7回コミンテルン世界大会で議決された方針に従って八・一宣言を行い、1936年12月に西安事件を起こした[6]。一方、日本は、広田三原則による防共外交を行ったが、排日テロが多発しはじめ、1935年11月の汪兆銘狙撃事件や翌月の唐有壬暗殺事件によって日中の関係は破局に向かい、邦人に対するテロも中山水兵射殺事件を始めとして多発することとなった。1935年11月、中国国民党は、アメリカの銀買上法によって中国内の銀貨の流出が続いて通貨不足となっていたため、イギリスの援助によってイギリスポンドとの固定相場制である法幣の発行を行い、政府系銀行によって民間の銀貨を回収・輸出しロンドン市場や米支銀協定で外貨を買い入れ、それを担保とする管理通貨制度へと移行した[7]。1937年6月、国民党は、アメリカの陸軍航空隊大尉であるクレア・リー・シェンノートを軍事顧問として雇った。1937年7月に盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発すると、8月21日に中国国民党は中ソ不可侵条約を締結した。日中戦争の最中、1937年8月26日に、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッセン遭難事件が起き、英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした[8]。1937年9月14日、中国国民党はソ連に支援を要請し、9月23日には第二次国共合作が成立した。

1937年10月5日に、国際連盟は日本を九国条約及び不戦条約の侵犯であると決議し[9]、1937年11月3日にはブリュッセルで九国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によって、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蒋介石への支援に参加した[10]。1937年12月には、パナイ号事件レディバード号事件も起きた。

1937年12月、中華民国臨時政府が成立し、臨時政府は1938年3月に中国聯合準備銀行を設立し、朝鮮銀行券を担保とした聯銀券を発行し、旧法幣の流通を抑止する旧通貨整理辦法を発布した。これに対して国民党は、外匯申核制度を行い、4月には「商人運貨出口及售結外匯辦法」を公布して外国為替の統制を進めたため、旧法幣は大幅な下落を起こした[11]。1939年2月に、国民党は取締日偽鈔辦法を発布して、聯銀券を取り締まった[11]。それに対し、1939年3月、臨時政府は華北での旧法幣の流通を禁止した[11]。1939年10月、国民党と英国は英支共同法幣安定資金委員会 (中英外匯平準基金委員会)を設立し、旧法幣の買い支えを行ったが、旧法幣は下がり続けた[11]

1939年6月、天津英租界が排日テロ陰謀の拠点となっているとして、日本は天津租界隔絶を行い[12]日英東京会談を通して交渉が行われ、英国は連銀券の流通を妨げないことを約束し、1940年6月20日に隔絶が解除された[13]。1941年4月、英米中は法幣安定資金協定を結び[14]、同月、アメリカはフライング・タイガースの派兵を決定した。1941年8月、中国、アメリカ及び英国により、中美英平準基金委員会が設立された。

関連項目[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]