高倉福信

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高倉 福信(たかくら の ふくしん、和銅2年(709年) - 延暦8年10月8日789年11月3日)は、奈良時代公卿氏姓は背奈公のち背奈王、高麗朝臣、高倉朝臣。高句麗王族と伝承される背奈福徳の孫で、背奈福光の子。官位従三位弾正尹

経歴

武蔵国高麗郡出身だが、少年のころに叔父背奈行文に従って上京する。上京して間もないころ、夕方に同輩と石上衢(いそのかみのちまた、上ツ道竜田道大和国山辺郡石上郷近辺)で相撲を取ったところ、力を巧みに使って相手をよく倒した。その評判は朝廷にまで届き、召されて内豎所に近侍することを命ぜられたことから、福信の名が知られるようになった[1]

初め右衛士大志に任ぜられ、天平10年(738年従六位下から外従五位下に[2]、翌天平11年(739年従五位下に叙せられる[3]。天平15年(743年正五位下[4]春宮亮に叙任され、皇太子・阿倍内親王に仕えている[5]。天平19年(747年)には同族7名とともに公(キミ)から王(こにきし)に改尸する。聖武朝では天皇の寵遇を受けて順調に昇進を果たし[6]、天平20年(748年)には正五位上[7]に至っている。

天平勝宝元年(749年)春宮亮として仕えてきた阿倍内親王の即位孝謙天皇)に伴って、従四位下[8]中衛少将紫微少弼[9]に叙任され、次いで同年中に従四位上[10]と急速に昇進を果たした。天平勝宝2年(750年)同族5名とともに背奈王から高麗朝臣に改姓[11]

天平勝宝8年(756年)に聖武上皇の死去にともない山作司を務める[12]。同年地方官の兼務が山背守から武蔵守に遷任しているが[13]、武蔵守の在任中[14]、当時工事が滞って未完成だった武蔵国分寺を僅かの間で築き終え、天平宝字2年(756年)には武蔵国内に新羅郡を設置している。なお、福信は、系譜関係ははっきりしないものの、霊亀元年(715年)の高麗郡設置時の郡司であった高麗若光と同族と考えられており、福信自身も同国内に大きな影響力を持っていたとみられている。天平宝字元年(757年正四位下に叙せられる[15]。同年に発生した橘奈良麻呂の乱においては、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、橘奈良麻呂派の賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、福信は坂上苅田麻呂らの武人とともに招待された[16]。結局、福信は藤原仲麻呂に従って、橘奈良麻呂派の小野東人答本忠節らを追捕し、左衛士府に拘禁している[17]

淳仁朝に入り、天平宝字4年(760年)に信部大輔に任ぜられる[18]。天平宝字7年(763年但馬守として地方官に転じたためか[19]、天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は明らかではなく、乱後まもなく但馬守に再任されている[20]

道鏡政権下の天平神護元年(765年従三位[21]造宮卿[1]に叙任され公卿に列す。神護景雲元年(767年法王宮職が設置されるとその長官(法王宮大夫)に任ぜられる[22]。神護景雲4年(770年)の称徳天皇死去の際には装束司を務めた[23]。同年武蔵守に再任されるが[24]、翌宝亀2年(771年)武蔵国の東山道から東海道への移管について[25]、国守であった福信が関与していると考えられる。

宝亀4年(773年)造宮卿として担当していた楊梅宮を完成させた功績により、嫡男石麻呂が従五位下に叙爵された[26]。宝亀7年(776年)地方官の兼務が近江守となる[27]宝亀10年(779年)古い習わしで使用している「高麗」の号を除きたい旨上表し[1]、高倉朝臣に改姓する[28]

天応元年(781年)5月に弾正尹に遷り[29]、同年12月の光仁上皇死去に際しては山作司に任じられる[30]延暦2年(783年)みたび武蔵守を兼任となる[31]。延暦4年(785年致仕上表し、許されて桓武天皇よりと夜着を贈られた[32]。延暦8年(789年)10月8日死去した。享年81。最終官位は従三位。[1]

人物

渡来人系の地方豪族の出身でありながら孝謙(称徳)天皇の側近として、橘諸兄・藤原仲麻呂・道鏡の各政権で要職を占めながら失脚することなく桓武天皇の時代まで活躍した異色の人物であった。子の石麻呂は武蔵介・美作介などを務めた。

系譜

  • 父:背奈福光[33]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:高倉石麻呂[33]
    • 男子:高倉山岳[33]

脚注

  1. ^ a b c d 続日本紀』延暦8年10月17日条
  2. ^ 『続日本紀』天平10年3月3日条
  3. ^ 『続日本紀』天平11年7月5日条
  4. ^ 『続日本紀』天平15年5月5日条
  5. ^ 『続日本紀』天平15年6月30日条
  6. ^ 公卿補任
  7. ^ 『続日本紀』天平20年2月19日条
  8. ^ 『続日本紀』天平勝宝元年7月2日条
  9. ^ 『続日本紀』天平勝宝元年8月10日条
  10. ^ 『続日本紀』天平勝宝元年11月29日条
  11. ^ 『続日本紀』天平勝宝2年正月27日条
  12. ^ 『続日本紀』天平勝宝8年5月3日条
  13. ^ 東大寺献物帳』によれば、同年6月に「従四位下紫微少弼中衛少将山背守」、翌7月には「従四位下紫微少弼中衛少将武蔵守」と記した福信自身の署名が残されており、その1ヶ月間に山背守から武蔵守に遷ったと考えられている。
  14. ^ 本務は京官(紫微少弼兼中衛少将)であったこと、および天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱に関与していたことから、武蔵守としては遥任であったと考えられている。
  15. ^ 『続日本紀』天平宝字元年5月20日条
  16. ^ 『続日本紀』天平宝字元年7月4日条
  17. ^ 『続日本紀』天平宝字元年7月2日条
  18. ^ 『続日本紀』天平宝字4年正月16日条
  19. ^ 『続日本紀』天平宝字7年正月9日条
  20. ^ 『続日本紀』天平宝字8年10月20日条
  21. ^ 『続日本紀』天平神護元年正月7日条
  22. ^ 『続日本紀』神護景雲元年3月20日条
  23. ^ 『続日本紀』神護景雲4年8月4日条
  24. ^ 『続日本紀』神護景雲4年8月28日条
  25. ^ 『続日本紀』宝亀2年10月27日条
  26. ^ 『続日本紀』宝亀4年2月27日条
  27. ^ 『続日本紀』宝亀7年3月6日条
  28. ^ 『続日本紀』宝亀10年3月17日条
  29. ^ 『続日本紀』天応元年5月7日条
  30. ^ 『続日本紀』天応元年12月23日条
  31. ^ 『続日本紀』延暦2年6月21日条
  32. ^ 『続日本紀』延暦4年2月丁未条
  33. ^ a b c 鈴木真年『百家系図稿』巻6,高麗

参考文献