青山俊董

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。126.16.189.31 (会話) による 2022年11月19日 (土) 12:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

青山 俊董(あおやま しゅんどう、1933年(昭和8年)1月15日[1] - )は曹洞宗尼僧大本山總持寺西堂愛知専門尼僧堂堂長。塩尻市無量寺東堂澤木興道内山興正余語翠巖らに師事した。

経歴

昭和8年(1933年)、愛知県一宮市の在家(農家)の生まれ。母が妊娠・出産した際、御講の場において、御嶽教の先達であり当時既に亡くなっていた祖父から神託(生まれてくる子供の出家を予言する内容)があったとされる。

昭和12年(1937年)4月8日、数え年5歳(満4歳)の時、実家・両親から離れ、長野県塩尻市の無量庵(昭和17年に「無量寺」となる)に入門する。神託を伝え聞いていた無量庵庵主(住職)青山周山尼(伯母:父の姉)が、数え5歳になるのを待ってから寺に迎え入れたのが事の次第となる。周山尼とその弟子・仙宗亮寛尼(周山尼の従姉妹)の2人が師匠であり、育ての親となって小僧教育を受ける。

昭和20年(1945年)、旧制女学校1年(中学1年)12歳の時に終戦

昭和23年(1948年)、中学校卒業式の前日(15歳)に、剃髪・出家得度(本師:松本市全久院、倉科俊機)。無量寺を離れ、愛知専門尼僧堂に入堂、さらに愛知学院の定時制高校に入学。得度して最初の臘八摂心の時、師家として招かれていた澤木興道と出会い、師と仰ぐ(以降、澤木の終生まで師事した)。4年間に渡り、定時制高校生活と尼僧堂での修行生活を両立させる。

昭和27年(1952年)春(19歳)、高校卒業と尼僧堂の課程修了後、上京、駒澤大学仏教学部に進学。その後、同大学院進学。大学院は、最初文学を専攻したが、後に仏教学に切り替えた。大学院修士号取得。さらに、3年間に渡り曹洞宗教化研修所に籍を置く。

昭和37年(1962年)秋(29歳)、東京青松寺の眼蔵会で澤木による正法眼蔵八大人覚の提唱を聴講したのが、直接に澤木の謦咳に接した最後となる。

昭和38年(1963年)7月(30歳)、11年間の大学遊学を切り上げ、15年ぶりに無量寺に帰山する。

昭和39年(1964年)4月(31歳)より、愛知専門尼僧堂 講師[2]

昭和40年(1965年)12月21日に澤木興道が遷化。その葬儀(京都安泰寺での49日間の摂心葬)に弔問しに行った当時の尼僧堂堂長・田中道倫から、接心葬に関して伝え聞いたことがきっかけとなり、澤木亡き後、次の師を求めていた中にあって、内山興正を知る。

昭和41年(1966年)2月28日(33歳)、翌日3月1日開始の5日間接心に参加するために京都安泰寺を初めて訪れた際、内山興正に会う。以降、内山には終生(〜1998年)まで師事することになる。

昭和47年(1972年)6月(39歳)、總持寺の伝光会接心にて、当時の總持寺後堂・余語翠巖に出会う。以降、余語には終生(〜1996年)まで師事した。

昭和50年(1975年)11月(42歳)、無量寺住職。

昭和51年(1976年)、愛知専門尼僧堂、堂長。

昭和59年(1984年)(51歳)、特別尼僧堂堂長、正法寺住職を兼務。

平成18年(2006年)11月(73歳)、無量寺住職を退董。以降、無量寺東堂

平成21年(2009年)(76歳)、曹洞宗の僧階「大教師」に、尼僧として初めて就任[2]

令和4年(2022年)1月(88歳)、大本山総持寺の西堂に就任[3]

日本国外での活動も多い[2]。昭和46、57、平成23年インドへの仏跡巡拝、マザー・テレサの救済活動への参加。昭和54、62年、東西霊性交流の代表団の一員としての渡欧。平成7年、イタリア「アッシジ国際研究会議」出席。昭和59年、平成9、17年に訪米。アメリカ各地の禅道場を巡回布教する。

受賞

平成18年(2006年)、仏教伝道文化賞功労賞

著作

脚注

  1. ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.249
  2. ^ a b c 大法輪閣 - 青山俊董
  3. ^ 曹洞宗大本山總持寺 【トピックス】”. www.sojiji.jp. 2022年2月20日閲覧。