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阿保親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿保親王
阿保親王・『前賢故実』より
時代 平安時代初期
生誕 延暦11年(792年
薨去 承和9年10月22日842年12月1日
墓所 摂津国菟原郡精道村?
官位 三品弾正尹、贈一品
父母 父:平城天皇、母:葛井藤子
兄弟 阿保親王高岳親王巨勢親王上毛野内親王石上内親王大原内親王叡奴内親王
伊都内親王
兼見王在原仲平在原行平在原守平在原業平、行慶、源弘
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阿保親王(あぼしんのう)は、平城天皇の第一皇子[1]在原行平在原業平の父。

経歴

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阿保親王墓兵庫県芦屋市ただし考古学的には古墳時代前期(4世紀代)の古墳とされる。

大同4年(809年)に四品に叙せられたが、翌弘仁元年(810年)に発生した薬子の変出家した父の平城上皇皇太子廃された弟の高岳親王連座して、大宰権帥左遷された。

弘仁15年(824年)平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によってようやく入京を許された。

天長3年(826年)子息の行平・業平等に在原朝臣姓が賜与され、臣籍降下させている。翌天長4年(827年上総太守に任ぜられた。天長10年(833年仁明天皇即位後まもなく三品に叙せられると、仁明朝では上野太守治部卿兵部卿弾正尹等を歴任した。

承和9年(842年橘逸勢らから東宮恒貞親王の身上について策謀を持ちかけられるが、阿保親王は与せずに逸勢の従姉妹でもあった皇太后橘嘉智子に密書にて報告し、判断を委ねた(承和の変)。親王が早い段階で皇太后に報告したのには、円満な人として評判が高かった皇太后から従兄弟の橘逸勢に対して軽挙を止めるよう説得することを期待する意図もあったのではないかとの推測がある[2]

変の3ヶ月後の10月22日に急死した。享年51。最終官位は弾正尹三品。葬儀に際し、承和の変で反乱を未然に防いだ功績を評され一品の品位を追贈された[3]。死因は明らかとなっていないが、阿保親王への一品贈与の宣命から、親王が変後全く参内しなかったこと、その死がきわめて急であったことが知られるとし、親王の死は自殺ではないにしても、少なくとも精神的にはそれに近かったのではないかとする解釈がある[4]

人物

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阿保親王を祭神とする阿保神社

性格は謙譲で控え目であった。文武の才を兼ね備えており、腕力が強い一方で、絃歌(弦楽器を演奏しながら歌うこと)に優れていたという[3]

大阪府松原市には阿保親王に由来する阿保(あお)という地名があり、阿保親王を祭神とする阿保神社がある。

官歴

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系譜

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その他、大江音人を阿保親王の落胤とする説もある[10]

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 50頁。
  2. ^ 『王朝の歌人3 在原業平』「第一章 家系と生い立ち 承和の変」(今井源衛集英社1985年
  3. ^ a b c 続日本後紀』承和9年10月22日条
  4. ^ 『平安文化史論』 - 目崎徳衛桜楓社1968年
  5. ^ 『続日本後紀』天長10年8月10日条
  6. ^ a b 『日本三代実録』元慶4年5月28日条
  7. ^ a b c d e 「在原氏系図」『続群書類従』巻第174所収
  8. ^ 『公卿補任』
  9. ^ 『尊卑分脈』
  10. ^ 本朝皇胤紹運録』『大日本史』氏族志

参考文献

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外部リンク

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