豊田佐吉
豊田 佐吉 (とよだ さきち) | |
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豊田佐吉 | |
生誕 |
慶応3年2月14日(1867年3月19日) 日本 遠江国敷知郡山口村 (現在の静岡県湖西市) |
死没 | 1930年10月30日(63歳没) |
職業 | 実業家、発明家 |
子供 |
長男 豊田喜一郎(実業家) 長女 愛子(豊田利三郎の妻) |
豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の実業家、発明家。
略歴
- 慶応3年(1867年)2月14日 - 遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)の貧しい農家兼大工[1]の家に生まれた。
- 佐吉は小学校を卒業した後、父伊吉のあとを継いで大工の修業を始めたが、十八歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な機織機の改良を始めた[2]
- 明治23年(1890年)11月 - 「豊田式木製人力織機」を発明。
- 明治27年(1894年)- 愛知県知多郡乙川村(現・愛知県半田市乙川町)の庄屋七代目石川藤八の屋敷[3]に身を寄せ、新型力織機の研究を本格的に始める。
- 明治30年(1897年) - 「豊田式木製動力織機」を発明。石川藤八は6000円を出資[4]。佐吉は60台の木製動力織機を製作、藤八の紡織会社「乙川綿布合資会社」に納入する。
- 明治32年(1899年) - 井桁(いげた)商会設立。
- 明治40年(1907年) - 動力織機製造を目的として三井財閥の支援で豊田式織機株式会社(現豊和工業)を設立。
- 明治43年(1910年)5月 - 紡織業視察のため欧米へ。
- 大正7年(1918年)1月 - 豊田紡織株式会社創立。
- 大正10年(1921年)11月 - 東洋綿花(後のトーメン)の支援を受けて上海に豊田紡績廠創立。
- 大正13年(1924年) - 「G型無停止杼替式豊田自動織機」発明・完成。[5]
- 大正15年(1926年)11月 - 株式会社豊田自動織機製作所創立。
- 昭和5年(1930年)10月30日 - 死去。
家族
系譜
- 豊田家
高橋半助 | 寿子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田幹司郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田英二 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田鉄郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田佐助 | 今井真三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田周平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田平吉 | 百子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なを | 後藤正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
静子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田伊吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田芳年 | 豊田幸吉郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
えい | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
児玉一造 | 豊田大吉郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
児玉貞次郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田利三郎 | 豊田信吉郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛子 | 豊田禎吉郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田佐吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清水満昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清水康雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
絢子 | 豊田達也 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田喜一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田達郎 | 由美子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉藤了英 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
たみ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉藤滋与史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二十子 | 古川康中 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯田新七 | 和可子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯田新太郎 | 啓子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西田赫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
百合子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤本進 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊田章一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三井高寛 | 三井高長 | 厚子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
博子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興子 | 豊田章男 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三井高棟 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三井高公 | 田淵守 | 裕子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田淵実 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
人物像
発明生活
納屋へとじこもってもっぱら織機の改良に集中した佐吉の発明生活はきわめてけわしいものであった[7]。佐吉自身の語るところによると、それはつぎのようであった[7]。
- 「愈々(いよいよ)織機の改良と云うことに目的を極めたが、然らば是を如何に改良するか、今日でこそ織機と云えば動力で動かすものと極まって居るが、明治の初年に於ては動力など云うことを考える人は、余程“はいから”の部類の人であった[7]。
- 左様な雰囲気の中に於て考えるのであるから、其苦心懊悩(おうのう)は一通りではなかった[8]。…人の手ばかり借りて居っては、仕事が思う様に運ばぬ[8]。自分にも大工の真似事(まねごと)もやる[8]。朝から晩まで毎日毎日こつこつと何か拵(こしら)えて見ては壊す、造っては又造り直す[8]。それを後から考えて見ると、随分へまな事もやった[8]。まるで狂人じみたやり方さ[8]。傍人が眺めて狂人扱いにし、変り者扱いにしたのも、尤(もっと)も至極の事さ[8]。弟を連れて東京に出掛けた事もある[8]。
- ・・・東京で折角仕事を進めかけると、ひどい脚気症に罹(かか)った[8]。命辛(から)がらで遠州の我家に帰って来た[8]。失意どころか旗揚げもせずに帰ったのだから、周囲の空気は冷たい[8]。唯一人労(いた)わってくれる者もない[8]。労るどころか、謗(そし)る者ばかりである[8]。それもその筈じゃ[8]。田舎の小百姓と言いながら、田畑の少しはあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明に皆つぎこむのだから、とても周囲の人達が良く言うてくれそうな筈がない[8]」
佐吉の思い出
- 「おやじの兄弟、つまり豊田佐吉、平吉、佐助は異常に仲が良かった。みんな酒好きだが、末っ子の佐助が一番強かった。うちのおやじも好きだが一番弱い。長男の佐吉は真ん中ぐらいだろう。おじいさんの伊吉は大工だった。大工は毎日仕事があるわけではないから、農業もやる。大工の仕事があると、それをやって現金収入を得ていたのであろう。佐吉も見よう見まねで大工仕事をやっていた。初めは伊吉が教えていたのだろうが、親はなかなか教えにくい。だから豊橋の大工の棟梁(とうりょう)に弟子入りさせた。
- 佐吉が最初につくった“かせ繰り機”は、機械といっても、要は大工仕事の延長であったわけだ。私がものごころついたころ、豊田の織機は御木本の真珠、鈴木のバイオリンとともに有名になっており、佐吉は名声をはせていた。しかし、小さいころから佐吉を身近にみてきたせいか、生前、佐吉を“伯父さん”としてみたことはあっても“発明家佐吉”としてみたことはなかった」という。
佐吉と石川藤八
若き発明家であった豊田佐吉と石川藤八が出会ったのは明治22年ごろ知多郡岡田村(現在知多市岡田町)の繊維買付問屋中島家七右衛門家に佐吉は大工見習いとして派遣されていたころと思われる。[9]佐吉の真の目的は外国製織機の仕組みの研究、はっきり言えば技術を盗むことにあった。この時代、誰も織機の仕組みなどを教えてはくれない。技術を盗むことはけっして悪いことではなかったのである。その若き佐吉の才能を認め、惜しみなく援助を続けたのが当時知多郡乙川村の庄屋であった七代目石川藤八であった。藤八は佐吉の「男気」に対して惜しみない援助を続けた。[10]藤八邸と試験工場は離れたところにあり、昼夜を問わず佐吉は研究室たる藤八邸と試験工場を往復していたとき、藤八は二階の佐吉の部屋に行く専用階段を作り、石川家の家人たちに遠慮をすることもなく昼夜出入りできるようするほどの配慮をした。[11] 佐吉と藤八の二人の友情は深まり、やがて義兄弟の契りを結ぶ。 藤八が亡くなった後も石川家との親交は続き、佐吉は藤八の年忌法要には必ず出席していた。
受章・受賞
藍綬褒章、恩賜記念賞、勲三等瑞宝章、従五位。
参考文献
関連
脚注
- ^ 『豊田市トヨタ町一番地』(読売新聞特別取材班、24頁)
- ^ 『豊田市トヨタ町一番地』(読売新聞特別取材班、25頁)
- ^ 『はんだ郷土史研究会』豊田佐吉の階段
- ^ 『はんだ郷土史研究会』豊田佐吉の階段
- ^ 和田一夫著『豊田喜一郎伝』(ISBN 4815804303)によると、G型無停止杼換式豊田自動織機は、実は喜一郎が開発を手掛けていたとされる。
- ^ a b 楫西光速『豊田佐吉』225頁
- ^ a b c 楫西光速『豊田佐吉』29頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 楫西光速『豊田佐吉』30頁
- ^ 『はんだ郷土史研究会』豊田佐吉の足跡
- ^ 『はんだ郷土史研究会』豊田佐吉の階段
- ^ 『はんだ郷土史研究会』豊田佐吉の階段