谷正鼎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。そらみみ (会話 | 投稿記録) による 2021年9月14日 (火) 04:35個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Removing from Category:台湾の政治家 using Cat-a-lot)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

谷正鼎
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1903年10月24日
光緒29年7月初5日)
死去: 1974年民国63年)11月1日
中華民国の旗 台湾台北市
出身地: 貴州省安順府
職業: 政治家
各種表記
繁体字 谷正鼎
簡体字 谷正鼎
拼音 Gŭ Zhèngdǐng
ラテン字 Ku Cheng-ting
和名表記: こく せいてい
発音転記: グー ジョンディン
テンプレートを表示

谷 正鼎(こく せいてい、1903年10月24日 - 1974年11月1日)は、中華民国(台湾)の政治家。中国国民党に属し、兄の谷正倫谷正綱も同党や国民政府で要職に就き、彼らと共に「谷氏三兄弟」と称された。銘枢

事跡

国民党中央執行委員へ

貴州省立初級師範学校を卒業し、五四運動期間中は貴州学生聯合会主席を務めた。1922年民国11年)、兄の谷正綱と共にドイツに渡り、ベルリン大学で政治・経済を学んだ。1924年、兄弟で揃って中国国民党に加入する。1925年、やはり正綱と共にソビエト連邦に向かい、モスクワ中山大学で研究に従事した。

1927年(民国16年)8月に帰国し、北伐中の国民革命軍に合流、第26軍政治部主任兼党代表となった。また、中央党部宣伝部秘書、中央委員会設計委員も務めている。北伐完了後の1929年(民国18年)に、北平特別市党部常務委員に任ぜられ、さらに国民政府行政院参事、国難会議会員などを歴任した。1932年(民国21年)5月、鉄道部参事に就任して、10月に同部総務司司長となった。1935年(民国24年)11月、党第5期中央執行委員候補となり、1937年(民国26年)2月に中央執行委員に補充・昇格している。

西北工作とその後

同年の日中戦争(抗日戦争)勃発後、谷正鼎は西北地域の工作を担当することになる。西安陸軍軍官学校分校の創設を進め、その後、軍事委員会天水行営政治部主任兼国民党特別党部書記長、陝西省党部主任委員などを歴任した。1944年(民国34年)6月、国民党中央組織部副部長に任命され、翌年、第6期中央執行委員に引き続き選出されている。

戦後、谷正鼎は中央党政軍聯席会議で秘書長に任ぜられた。翌年10月、行政院綏靖区政務委員会委員となり、11月、制憲国民大会代表に選出される。1947年(民国36年)9月、党中央組織部部長に昇進した。国共内戦末期に台湾へ逃れる。以後、第8期から第10期まで党中央評議委員を務めたものの、兄の谷正綱とは対照的に、党でも政府でも要職を得ることは無かった。

1974年(民国63年)11月1日、台北市にて病没。享年72(満71歳)。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1