藤沢飛行場
東洋航空藤沢飛行場 | |||||||
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IATA: ? - ICAO: | |||||||
概要 | |||||||
国・地域 | 日本 | ||||||
所在地 | 神奈川県藤沢市 | ||||||
種類 | 非公共用 | ||||||
運営者 | 東洋航空工業株式会社 | ||||||
座標 | 北緯35度21分24秒 東経139度27分50秒 / 北緯35.35667度 東経139.46389度座標: 北緯35度21分24秒 東経139度27分50秒 / 北緯35.35667度 東経139.46389度 | ||||||
滑走路 | |||||||
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藤沢飛行場(ふじさわひこうじょう)とは神奈川県藤沢市に存在した飛行場。1953年-1964年の正式名称は東洋航空藤沢飛行場。
概要
太平洋戦争当時、海軍の飛行場として建設された。湘南海岸の江の島の西側から引地川を北上した東側の相模野台地丘陵上南端部にあった。さらに北上すると厚木海軍飛行場がある。滑走路は、南北方向で離着陸の方向は北から南向きだった。
終戦後は民間飛行場となり、廃止後の跡地の大部分は荏原製作所の藤沢事業所となった。
歴史
海軍飛行場時代
- 1943年(昭和18年)10月24日 - 藤沢カントリー倶楽部を閉鎖し、同地周辺が、横須賀海軍航空隊の基地となる。
- 1944年(昭和19年)6月1日 - 藤沢海軍航空隊が置かれる。クラブハウス(グリーンハウス)は司令部として利用され、開隊当初は兵舎が完成していなかったため、クラブハウスが兵舎と調理場も兼ねていた。
- 1945年(昭和20年)8月25日 - 藤沢海軍航空隊が解隊される。
- 1945年(昭和20年)9月2日 - 連合国軍550人が、本飛行場に進駐。
- 連合国軍は、飛行場として十分利用できず、約1年で撤退した。跡地はゴルフ場や元地主に返還され、聖園女学院高等学校、民間飛行場などになった。唐池の施設部宿舎は、戦災孤児の養護施設になった。
- 1947年(昭和22年) - 通信学校跡に藤沢商業高等学校(現・藤沢翔陵高等学校)が移転。
- 1947年(昭和22年)-1950年(昭和25年) - 航空隊施設の一部が、引揚者用住宅に転用される。
- 1948年(昭和23年) - 一部が、藤沢市営競技場となる。
- 1952年(昭和27年)6月 - 東洋航空工業設立。
民間飛行場時代
脚注
注釈
参照
- ^ 同日、運輸省告示第44号
- ^ 国籍不明機の日本上空飛行に関する緊急質問 - 第33回国会衆議院本会議会議録
参考文献
- 椎谷和雄『藤沢海軍航空隊研究』、藤沢市史研究30、藤沢市文書館運営委員会編、1997年3月
外部リンク
- 藤沢飛行場 - 秋津洲鉄道
- 藤沢文書館だより第13号2頁 - 藤沢市文書館
- 航空少年団【藤沢飛行場の思い出】
- 藤沢海軍航空隊の燃料庫-インターネット航空雑誌ヒコーキ雲