藤原為房

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藤原 為房(ふじわら の ためふさ、永承4年(1049年) - 永久3年4月2日1115年4月27日))は、平安時代後期の公卿藤原北家勧修寺流但馬守藤原隆方の長男。官位正三位参議坊城大蔵卿勧修寺と号した。

博学かつ、優秀な実務官僚として活躍し、のちの勧修寺流一門の繁栄の基礎を築いた。大江匡房藤原伊房と共に「前の三房」と称される。日記に『為房卿記』がある。

経歴

摂関家師実師通忠実)の家司、各国の受領後三条堀河朝における蔵人、後三条院の院司(判官代)として活躍する[1]。その後、左衛門権佐に任じられて検非違使の職務を兼ねるが、寛治6年(1092年)為房の下人が日吉神社神人を殺害したとの理由で延暦寺衆徒から訴えられ、阿波権守に左遷されるが、翌年赦されて帰京した。嘉保元年(1094年)には何の考課もなく弁官時代の「春日行幸行事賞」を名目に従四位下修理権大夫となって完全に復権した。

白河院近臣として信頼が厚く、嘉保3年(1096年)には正四位下康和4年(1102年)には白河院の院庁別当と順調に昇進。天永2年(1111年参議となり、勧修寺流としては高祖父藤原為輔以来の公卿となった[2]。その後も永久2年(1114年)院別当賞として正三位に昇叙されたが、翌年腫物の発生により没した。

為房の異例の昇進については、自身の能力に加え、妹藤原光子藤原公実の室で堀河・鳥羽両天皇の乳母)に負うところも大きかったとも言われている[3]。「夜の関白」の異名を有した次男藤原顕隆をはじめとする子孫は蔵人・弁官から参議を経て中納言に至る家系として定着することとなった。

永久元年(1113年)に発生した2つの事件において、為房の発言により、朝廷の方針が決したとの話が伝わっている。

鳥羽天皇暗殺未遂事件である永久の変において、犯人とされ流罪となった仁覚の係累についての詮議が起こった際、これほどの悪逆は父母兄弟まで関与したものではなく縁者に罪を問う必要はない、と為房は発言。これに公卿一同同意し、仁覚の父である左大臣源俊房を始め縁者については不問に付された(『源平盛衰記』)。

興福寺延暦寺衆徒が繰り返し朝廷に対して強訴を行った、いわゆる永久の強訴において、延暦寺の衆徒が大挙して日吉神社の御輿を奉じて上洛し、以前興福寺の衆徒が上洛した際、祇園社神人に暴行を働いたとして、興福寺の権少僧都・実覚の流罪を朝廷に要求した。これに対して、白河法皇公卿を招集して対策を協議したが、藤原氏の氏寺である興福寺の仏罰と、目前に迫る延暦寺の衆徒との両方を恐れて、公卿方は全く発言する者はいなかった。しかし、藤原為房の発議によりようやく延暦寺の要求を入れることに決まり、朝廷は延暦寺に対して実覚の処罰と、今後興福寺の訴えがあっても延暦寺の僧綱を罰しないと約束した。

官歴

三事兼帯 - 寛治4年(1090年)6月5日)

系譜

参考文献

  • 河野房雄「白河・鳥羽両院政下の内蔵頭」(『平安末期政治史研究』、東京堂出版、1979年)
  • 所 功「筆者為房の略伝」(『史聚』10号、1979年)。
  • 木本好信「藤原為房-その生涯と日記『大府記』-」(『平安朝官人と記録の研究』、おうふう、2000年)
  • 槇道雄「夜の関白と院政」(『院近臣の研究』、続群書類従完成会、2001年)

脚注

  1. ^ 更に村上源氏源雅実にも仕えていた時期がある(『長秋記』天永2年9月4日条)。
  2. ^ 勧修寺流から公卿を輩出したことは、驚きの目をもって迎えられたらしく、「一家の繁盛、千載の勝事」(『中右記』)、「凡人といへども、子孫繁盛の者」(『兵範記』)、と評された。
  3. ^ 槇道雄『院近臣の研究』続群書類従完成会、2001年