藤原兼綱

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藤原 兼綱(ふじわら の かねつな、永延2年(988年) - 天喜6年7月29日1058年8月20日))は、平安時代中期の貴族。藤原北家九条流関白右大臣藤原道兼の三男。官位正四位下紀伊守

経歴

関白右大臣として執政の座にあった藤原道兼の三男として生まれるが、長徳元年(995年)に道兼が薨去した後、叔の藤原道綱の養子となった[1]

長保3年(1001年)に元服し、即日叙爵兵衛佐左近衛少将侍従などを歴任する。この間の寛弘2年(1005年)正月の踏歌節会に際して、源朝任藤原兼貞藤原忠経藤原経通藤原資平とともに蔵人に暴行を加えて、節会で踏歌を行う女性たちが使用するはずだったを取り上げてしまうとの事件を起こし、他の5名とともに謹慎処分を受けている[2]

長和3年(1014年三条天皇蔵人頭に任ぜられる。位階正四位下まで昇り、長和5年(1016年)正月には右近衛中将を辞任した兄・兼隆に替わって左近衛中将に任ぜられるなど公卿の座を目前にするが、間もなく三条天皇後一条天皇譲位してしまい、兼綱は蔵人頭を止められた。蔵人頭を止められたことに関して、かつて父・道兼が花山天皇を騙して退位させ、兄・兼隆が敦明親王を騙して皇太子を辞退させたことから、この一族を天皇や皇太子の身辺に近づけてはならない、との風評が立ってきたことが理由であったという[3]

三条朝で同じく蔵人頭兼左近衛中将であった藤原資平が引き続き新帝の蔵人頭に任ぜられ、翌寛仁元年(1017年)に参議に任ぜられて公卿に列したのとは対照的に、兼綱は10年以上の長きに亘って左近衛中将に止まり、結局公卿昇進を果たせなかった。

その後、長元2年(1029年越前守に任ぜられて、地方官に転じる。天喜6年(1058年)7月29日紀伊守在任中に、任国で卒去享年71。[4]

勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』に和歌作品が1首採録されている[5]

逸話

賀茂祭に向けて、車体に模様を彩色し、左右の物見窓の横の縁をの形に縦の縁をの形にした奇抜な趣向の牛車を兼綱が新調する。この牛車はよい意匠と評され、和泉式部が賞賛して和歌を詠むほどであった。しかし、世の人から「あの牛車は、賀茂明神の神罰を受けて矢傷を負ったのだ」と難癖を付けられてしまい、せっかくの趣向が台無しになって、結局この牛車には乗らずじまいとなってしまったという[3]

官歴

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 『権記』長徳3年7月30日条
  2. ^ 『小右記』寛弘2年正月16日条
  3. ^ a b 『大鏡』第四巻,右大臣道兼
  4. ^ 『尊卑文脈』
  5. ^ 『勅撰作者部類』
  6. ^ 『権記』長保3年3月27日条
  7. ^ 『権記』長保4年4月17日条
  8. ^ 『権記』長保5年11月8日条
  9. ^ a b 『権記』
  10. ^ 『御堂関白記』
  11. ^ a b 『蔵人補任』
  12. ^ 『御堂関白記』長和4年4月7日条
  13. ^ 『小右記』

参考文献

  • 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
  • 市川久編『近衛府補任』続群書類従完成会、1992年
  • 繁田信一『殴り合う貴族たち -平安朝裏源氏物語』2005年、柏書房