花谷正
花谷 正 はなや ただし | |
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生誕 |
1894年1月5日 大日本帝国 岡山県 |
死没 | 1957年8月28日(63歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 中将 |
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し[1]、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した[1]。
参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、鄭州駐在)、関東軍参謀(昭和3年[1])などを経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍少佐に昇進し歩兵第37連隊大隊長に就任。1930年(昭和5年)奉天特務機関員(関東軍司令部付)[1]。
1931年(昭和6年)、関東軍司令部付の時に、柳条湖事件を関東軍高級参謀板垣征四郎と関東軍作戦参謀石原莞爾と共に首謀。石原は、花谷の暴力を背景に、みずからの考えを通して行った[1][2]。その後参謀本部員(昭和7年[1])を経て、歩兵第35連隊第1大隊長となる。このとき、のちに大本営参謀として有名になる瀬島龍三歩兵少尉(44期、1932年10月任官)が第1大隊第1中隊付として勤務していた。
1933年(昭和8年)には軍部批判をした北陸タイムス社(現在の北日本新聞社)へ大隊を率いて独断で攻撃。同年8月、参謀本部付として済南武官となった。
1935年(昭和10年)8月、関東軍参謀となり、参謀本部付、第2師団司令部付、留守第2師団参謀長などを経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に昇進。歩兵第43連隊長として日中戦争に出征。満州国軍顧問を勤め(昭和14〜15年[1])、ノモンハン事件で指揮をとる。1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級。
歩兵第29旅団長、第29歩兵団長を歴任し、太平洋戦争を第1軍参謀長として迎えた。1943年(昭和18年)6月、陸軍中将となる。同年10月に第55師団長に親補されビルマに出征し、第二次アキャブ作戦を指揮したものの無能で杜撰な作戦で大失敗となったが、責任を追及されることはなかった。
能力ばかりか人格面においても極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった[3]。また、日頃から陸大卒のキャリアを鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ抜き、上は少将から下は兵卒まで自殺者や精神疾患を起こした者を多数出すなどしたため、部下から強い侮蔑と憎悪を買っていた。反面小心でもあり、行軍中も小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせていた[4]。
1945年(昭和20年)7月、第39軍参謀長に就任しタイ王国に赴任、第18方面軍参謀長として終戦を迎えた。1946年(昭和21年)7月に復員し予備役に編入された。戦後は軍人恩給で暮らしながら「曙会」という右翼団体を一人で運営した。
1955年(昭和30年)『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」 昭和30年12月号 河出書房)において秦郁彦の取材に答える形で、満州事変が関東軍の謀略であったことを証言した。この時、満州事変は自衛であるとし、関東軍による謀略を否定していた当時の関東軍指導者である本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らは物故していた。
1957年(昭和32年)に病で倒れる。片倉衷が義捐金を募ったが、過去の悪行から花谷のことを嫌悪していた部下は一人としてこれに応じなかった。同年死去。旧満州関係者が列席して盛大な葬儀が営まれたが、部下は誰一人会葬しなかった。
親族
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 佐高 信『黄沙の楽土』朝日新聞社 ISBN 4022575255
- アジア歴史資料センター『9D(第9師団高等官職員表)』