芥川城
芥川城 (大阪府) | |
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芥川城(址石碑) | |
別名 | 芥川城 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 芥川氏 |
築城年 | 鎌倉時代前期か |
主な改修者 | 能勢氏、細川氏 |
主な城主 | 芥川氏、細川氏、三好氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度51分10.818秒 東経135度36分31.003秒 / 北緯34.85300500度 東経135.60861194度 |
地図 |
芥川城(あくたがわじょう)は大阪府高槻市にある日本の城跡。同じ高槻市にある能勢頼則が築城した山城も芥川城と呼称されている。現在では便宜上、殿町周辺にあった城を「芥川城」、三好山にあった城を「芥川山城」と区別している。
概要
芥川城は、いつごろ築城され、いつごろ廃城になったのかは明確に解っていない。古文書に「芥川城」と明記されているが、三好山にある芥川山城をさしている場合もあり複雑にしている。
また芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていたこともあるが、その後の経過については不明である。遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみとなっている。
推定地は、芥川橋から京都方面にまっすぐに延びていた西国街道が、現在の芥川2丁目付近で急に北に折れ曲がり、芥川3丁目付近で再び西に戻ってくる不規則な街道になっていることから、城を避けて西国街道が作られたと考えられており、JTの医療総合研究所を中心に芥川町2、3丁目及び殿町が推定されている。
沿革
芥川城は芥川氏によって築城されたと思われている。芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿であり、鎌倉時代には幕府の御家人となり、この前後に築城したと思われている。高槻市史によると芥川氏は「非開発領主型の武士であっただろう」としている。
その後、芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われる。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、その後摂津国人一揆が細川政元による鎮圧でこの地域の国人が没落した影響からか、芥川本家は歴史から名を消してしまう。ところが、その細川政元が延徳2年(1490年)12月に芥川を訪問すると、芥川周辺の本所領から強引に人足を賦課して建物を築いたとする記録[1]も存在しており、芥川城関係であった可能性もある[2]。
再び芥川の地を細川高国の命をうけ、能勢頼則が再建に動き出すことになる。永正13年(1516年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もある。
城跡へのアクセス
脚注
- ^ 『後法興院政家記』延徳3年正月25日条「摂津芥河近辺立屋、押妨諸本所領。」
- ^ 天野忠幸「摂津における地域形成と細川京兆家」『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1